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【週刊誌事件記者の取材ノート】秋葉原通り魔事件 加藤智大「負けっぱなしの人生」

週刊誌記者として殺人現場を東へ西へ。事件一筋40年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔とは……。
小林俊之『前略、殺人者たち 週刊誌記者の取材ノート』より

卒業アルバムより

クラスで有名なキレキャラ
 2008年6月8日、東京・秋葉原の歩行者天国に赤信号を無視した猛スピードのトラックが進入、歩行者をなぎ倒した。運転していた男は刃渡り13センチの両刃のナイフを振り回し、奇声を発しながら人混みでごった返すアキバを疾走した。まるでアメリカのアクション映画を観ているような光景が、この日本で実際に起きたのである。
 運転していたのは25歳の派遣社員、加藤智大だった。逮捕当時「人を殺すため秋葉原に来た。生活に疲れ、世の中が嫌になった。誰でもよかった」と供述、その動機の薄っぺらさに世間は衝撃を受けた。
 翌日、無差別殺人を起こした青年の生い立ちを取材するため、わたしは新人記者と実家がある青森市に飛んだ。息子が同級生だという主婦が語った。
「智大を一言で言えば暗い子。あそこの家庭はお母さんが教育熱心で、そのしわ寄せで智大は歪んでしまったんだよ。お母さんが2、3歳年上のはずです。お父さんは、会っても挨拶をしないような人でした。2人ともお高いというか、近所付き合いのない家庭でしたね。この辺は、夏なんか玄関を開けっ放しにしている家が多いのですが、加藤さんの家はいつもピシッと閉まっていましたよ。最近は冬の雪かきもしていないし、雑草も生えっぱなしになっていたので離婚したのではないかと思っていました」
 加藤智大の小・中学校の同級生が言う。
「事件を知った瞬間、別に驚きもしなかった。ああ、やらかしたなという感じでした。あいつは中学の時からキレキャラで、周りが見えない性格でした。技術の授業中、加藤は突然同級生の胸倉をつかまえ、目を吊り上げ大声で喚きだした。わ(自分)が止めに入って、収めたことがありました。喧嘩を売られたやつに『どうしたんだ』と聞くと『さっぱりわからない』ときょとんとしていました。あいつのキレキャラはクラスで有名でした。ワイドショーで加藤をスポーツ万能で勉強も出来たと放送していたが、それは違いますよ。確かに足は速く、小学生の時に青森市の大会で100メートル競走で3位になったことがありました。勉強もクラスでは上位でしたが、飛びぬけて出来るほうではなかった。特別に仲が良かった友達はいなかったと思う。わ(自分)もあいつの家に遊びに行ったことはありません。あいつは車が好きで『土屋圭市みたいになりたい』ってわ(自分)に言っていました。加藤に渾名はなく人気もなかったが、何故か笑顔の印象が強いですね。成人式に、あいつは出席していないはずです」
市内の信用金庫で働いていた智大の両親は職場結婚、母親は3歳年上だった。智大には3つ違いの弟がいる。市内に住む父方の祖母を新人記者が取材した。
「教育は父親より母親の方が熱心でした。母親は『部活はやらなくてもいいから勉強しなさい』という人でした。お母さんは青高出身で、頭のいい人だからトモ(智大)を優秀な成績で卒業させたかったのでしょう」
高校に進学した智大が、顔を見せなくなり心配した祖母は家を訪ねた。
「『トモはどうしている』と母親に聞くと『部活やって成績が下がってしまって』と言うから、部活をやらせて身体を鍛えることも大事と言ったのです。何時だったか、大声で『智大』と呼んでも2階から降りてこなかった。母親に、トモはどうなっているのと聞いたら『何を考えているんだか、聞いても何も答えない』って困っていました。トモは最初『北海道大学に行ってコンピューターをやりたい』と言っていたのにいつの間にか『バイクの専門学校に行きたい』と言い始めたのです。青高で何かあったのかね」
 青高とは県立青森高等学校の略称、各中学から十数人しか入学できない進学校だ。加藤の成績は中の下、部活は将棋部。2年生になると理系学科に進み、自動車のエンジニアを目指したという。高校関係者の話。
「彼は岐阜の自動車短期大学を志望しました。短期大学というのはうちでは珍しいケースです。金銭的、学力的に問題があったとも思えないし何かあったのでしょうね。中学時代は頭が良いということでチヤホヤされ、高校に来て優秀な生徒に会い、挫折することはよくあることです」
智大は希望通り自動車短期大学に進むが、講習にも出席しなくなり整備資格も取れず、持っていたのは運転免許だけだった。

完璧すぎた母親
 青高進学は母親のたっての希望で、大学も北海道大学と決められていたという。母親の意のままにされた智大でも彼女はいた。中学の同級生が語ってくれた。
「加藤にはちょっと可愛いKというガールフレンドがいました。ところがお母さんに反対され交際をやめたのです。厳しい親への反動でしょうか、彼は同級生に八つ当たりして、鬱憤を晴らしていたのかも知れません」
 ガールフレンドだったKの実家の玄関には「なにもお話しすることはありません。しつこいと警察を呼ぶ」と書かれた張り紙があった。
 わたしはレンタカーで加藤智大の母親の実家に向かった。青森市内から1時間半、五所川原のシジミで有名な十三湖を通り過ぎ、北津軽郡の日本海に出た。半年前に智大の祖父が亡くなっていた。日本海沿いには、へばりつくように民家が並でいた。波打ち際に建つ一軒家に、老婆が独りで住んでいた。カーテン越しから人影が見えたので取材を申し込むと、老婆は無言で手を振った。
 母親の兄は、村では変わった人として知られていた。
「長男は東京の大学を出て就職したが、事故で怪我をして村に戻ってきた。戻ってからは仕事にも就かず、山菜取りや釣りをやってブラブラしています。噂だと小説を書いているという話です。頭はいいが変わった人ですよ。事件を起こした子供は小さい時に見かけたぐらいで、何年も村に来ていないと思います」(近隣住民)
 事件発生から2日経った10日午後、両親の記者会見情報が流れ、自宅前には50人以上の報道陣が集まった。午後7時15分、タクシーで自宅に戻った両親が玄関前に並んだ。母親は、夫の背に隠れるように呆然と立っていた。
 午後7時20分から4分間、自宅前で加藤智大の両親が記者会見を行った。父親が口を開いた。
「息子が重大な事件を起こしまして、亡くなられた方、そしてお怪我をなされた方、本当に申し訳ございませんでした。事件の重大さということを考えると社会に与えた不安もかなりあったと思います。申し訳ございませんでした。本日、警視庁の事情聴取が終了しました。まだ事情聴取中のなかで、皆様方にお答えする内容がかなり難しいと思います。お詫びだけ申し上げたいという形で、お話をさせていただいた次第です。大変申し訳ございませんでした」
ーー事件前に息子さんのサインはなかったのか。
「そちらの方も捜査の関係でお答えできません」
ーー事件につながった原因をどう考えるか。
「そちらも申し訳ございませんが、いろいろ事実の確認もありますので、申し上げにくいという形になります」
ーー今後、社会的責任、遺族に対してどうするのか。
「謝っても謝っても償いきれないと思っております。わたしに出来るということも、まだ心の整理が出来ませんので具体的にまだ申し上げられません」
ーー息子さんに何か言いたいことは。
「きっちり聴取もしておると思いますので、その辺を正直に述べてくれればなと思っております」
 母親は会見の4分間、顔を上げず終始涙を流した。突然、地べたに倒れ込み土下座した。わたしには、スローモーションのようにカタカタと崩れ落ちる音が聞こえた気がした。夫は土下座をする妻を抱きかかえるでもなく、片手を力ずく引っ張り、自宅に消えた。わたしは「自殺しないで」と祈るだけだった。
 10日後、わたしはまた青森に入った。実家に人影はなく、電気メーターが止まったままだ。智大の叔父の家には「祖父母が寝込んでしまいました。取材をお断りいたします」の張り紙。事件の重大さから、関係者の口は重くなった。

記者会見で母親は泣き崩れた(撮影=筆者)

負けっぱなしの人生
 加藤智大は、携帯サイトの掲示板で犯行予告をしていた。また別の掲示板には家族関係を次のように書き込んでいる。
〈親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられたから勉強は完璧〉
〈中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた より優秀な弟に全力を注いでいた〉
高校卒業後の自分の人生をこう綴っている。
〈8年間、負けっぱなしの人生〉
 事件前の5月19日、智大は「【友達できない】不細工に人権なし【彼女できない】」というタイトルの掲示板を携帯サイトに開設した。そのなかで智大は自虐ネタを披露している。
〈もっとも不細工には恋愛をする権利がそんざいしませんけど〉
 友達になりたいという女性に恋人がいるとわかると〈みんな殺してしまいたい〉と書き込みは過激になっていく。
 2010年1月から始まった公判で智大の口から、母親の虐待に近い数々のエピソードが明かされた。最初の思い出は3歳のころだったという。
「トイレに閉じ込められて電気を消された。2階の窓から体を突き出されたこともあった。自宅の新築時に遊んでくれた大工に憧れ、なりたいと思ったが、否定された。夢に見たレーサーも同様だった」
「風呂で九九を暗唱し、間違えると風呂に沈められた」
 母親は「スイミングを習っててよかったね」と笑ったという。泣くたびに増えるスタンプカードが10個になるとお仕置きされた。夏の暑いさかり屋根裏部屋に閉じ込められた。
「小学校高学年でおねしょしたときには、布おむつをはかされた」
「わたしは食べるのが遅かったが、母親は新聞のチラシを床に敷き、その上に食べ物をひっくり返され、食べろと言われた。小学校中学年くらいのとき、何度も。屈辱的だった」
 そんな家庭の異常な風景に父は見て見ぬふりだったという。反抗期だったのか、中学時代には母親を殴ったこともあった。
「食事中に母親が怒り始めた。ほおをつねったり髪をつかんで頭を揺さぶられたりした。無視すると、ほうきで殴られ、反射的に手が出た。右手のグーで力いっぱい左のほおのあたりを殴った。汚い言葉でののしられた。悲しかった」
 それに対して、母親は「子供の時に(智大を)屋根裏に閉じ込めたりしたが、あくまでもしつけの一環で不満のはけ口にしたわけではない」と語った。父親は「妻は子育てで完璧を求めていた。妻から私が子育てをするから黙ってくれと言われ、口を出さなかった」と裁判官の非公開尋問で述べている。
 このような問題を抱えた家庭は日本全国掃いて捨てるほどあるだろう。なぜ加藤智大なのか、わたしにはわからない。智大はネットの掲示板にこう書き込んでいた。
〈もし一人だけ殺していいなら母親を、もう一人追加していいなら父親を〉
 親への憎しみが、何の罪もない人に向けられたとしたら、亡くなった人たちは浮かばれまい。
 東京地裁の被告人質問で加藤智大はこう供述している。
「掲示板で私に成りすます偽物や、荒らし行為や嫌がらせをする人が現れ、事件を起こしたことを報道を通して知ってもらおうと思った。嫌がらせをやめてほしいと言いたかったことが伝わると思った。現実は建前で、掲示板は本音。本音でものが言いあえる関係が重要。掲示板は帰る場所。現実で本音でつきあえる人はいなかった」
 こんな身勝手な犯行動機が認められるわけはない。2011年3月、一審判決は死刑を求刑した。2012年9月に弁護側が精神障害の疑いがあると最高裁に上告したが「動機に酌量の余地は見いだせず、死刑を認めざるをえない」として上告を棄却した。
 2015年2月17日、加藤智大に死刑が確定した。
 2022年7月26日、死刑が執行された。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。