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【日本の裏社会】「9年目の抗争集結」に向け事件頻発…山口組分裂抗争はついに最終局面へ【鈴木智彦】

分裂から8年、長い抗争に変化が起き始めた。繰り返される離脱、再分裂。頻発する事件。抗争集結に向け事態はどう動くのか──(取材・文=鈴木智彦)
好評発売中ムック「実録 日本の裏社会」より一部抜粋してお届けします。

裏社会はもはや平常運転

 2015年8月27日に六代目山口組が分裂して以来、約8年が経過した。その後、離脱派が旗揚げした神戸山口組は幾度となく再分裂を繰り返し、現在は「六代目山口組」対「六代目山口組から脱退した神戸山口組」対「神戸山口組から脱退した離脱派」という三つ巴のにらみ合いが続いている。
 細く長く抗争が続き、非日常が常態化した現在、自分が殺されるかもしれないという危機感を抱き、緊張感の中で暮らしている組員はごくわずかしかいない。分裂直後から定期的に食事をしている山口組二次団体幹部がいるのだが、彼はいつも単独行動でボディガードを連れ歩かない。その必要がないのである。それでも最初の頃は、ヒットマンを警戒して店のドアが見える位置に座っていた。今は平気でドアに背を向けて食事する。
 他団体や半グレにしても、もはや山口組の抗争にさほどの影響を受けていない。ただし、神戸山口組に味方した団体は別だ。六代目山口組は、かつて神戸に味方した反目団体に強硬姿勢を崩さず、けじめを迫っている。当時、神戸山口組に同調した団体のトップが呼びつけられ、司組長にわびを入れているのだ。
 戦犯への落とし前を別にすれば、裏社会はもはや平常運転である。
 昭和の山口組分裂劇である山一抗争は、ヤクザ史上もっとも激しい抗争と評され、マスコミは連日、市民の巻き添えを警戒し、ネオン街で遊ぶ際には気をつけるよう警告していた。が、令和の現在、一般人は山口組が抗争状態にあることを忘れているかのようだ。マスコミにとっても、もはや山口組の抗争は数字の獲れるネタではなくなり、大げさに危機感を煽らなくなった。分裂で売り上げを伸ばした実話誌も、もはや山口組で売り上げ増は見込めない。

有力組長が六代目山口組に

 なにしろ組員の実数でいえば、もはや神戸山口組は圧倒的な劣勢で勝負にならない。分裂直後、六代目山口組に迫る勢いだった追い風はもはやどこにもない。
神戸山口組のひび割れは徐々に大きくなっていった。目に見えて壊れ始めたのは、2020年だ。
 8月、旗揚げ時の中心メンバーだった正木年男正木組組長、剣政和二代目黒誠会会長らが引退した。分裂直後、弘道会のヒットマンに若頭を襲撃された池田組も神戸山口組から脱退した。池田組はその後、山健組から再分裂した絆會(旧任侠山口組)の織田絆誠会長らと合流している。
 神戸山口組の自壊は終わらなかった。顧問だった奥浦清司奥浦組組長が引退し、その後も有力組長がことごとく六代目山口組に帰参した。ばかりかかつて井上組長が四代目を継承、神戸山健組の主力部隊だった山健組までが壊れた。山健組トップの中田浩司組長が神戸山口組から飛び出てしまったのだ。
 山健組は一部をのぞき、幹部・組員らも中田組長に付き従った。当初、山健組は独立団体を標榜した。山健組は弘道会のヒットマンに2人の幹部を殺されている。その報復は実行されておらず、「敵は名古屋」と公言していたのだ。ところが山健組は翌年になって獄中の中田浩司組長を筆頭に六代目山口組に復帰してしまった。井上組長の御輿の担ぎ手がごっそり抜けて敵方に加入し、かつての親分と反目した。
 さらには神戸山口組のナンバー2だった寺岡修若頭(俠友会会長)、二代目宅見組の入江禎組長らも去って行った。神戸山口組に残存しているのは、井上組長の身近にいるごく少数のみだ。

神戸山口組の動きは

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