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縫うしかない

カモノハシは、哺乳類なのに卵を生みます。モーミー・ユクティール・バーディスタ!生命の誕生を心から祝います。薄暮れた電球のない街角で、僕は人目もはばからず、こんなことを連呼していた。この行為は、待ち合わせ相手に僕だと分からせるよう特別にやっていることではなく、僕の日課でもある。近くの公園では、若者たちが大勢揃って、せっせと大根を下ろしている様子を大きなカメラに映像として収めているようだった。どうせグリーンバックにするなら、公園で撮影を行う必要はなさそうなのにとは思ったが、何か他の理由があるのだろうか。たしかに、屋内であんなにも大人数で大根を下ろせば、匂いに誘われて天ぷらを食べたくなってしまった人たちが、たちまち建物の中に溢れかえってしまうものね。僕と待ち合わせをしていた相手はモーリーという男だった。彼は、街頭で途切れることなく繰り返される素っ頓狂な僕の声に気づいた素ぶりを見せたにもかかわらず、やはり大根おろしの強烈な香りに誘われたのか、僕のいる場所より少し手前に位置する天丼屋へ吸い寄せられるように入っていったので、僕は待ち時間の延長を余儀無くされてしまった。僕を故意に待たせているのはモーリーなのに、あの公園にたむろする大根おろしの集団にいたずらをされたような気分になってきた。僕は彼らの居る公園の方を少しだけ睨んだ。すると次の瞬間にはもう、ヘロヘロになった僕の上体が、歩道に敷き詰められた石畳の上に静置されていた。おやおや、一体どうしてしまったんだ、僕は・・?そして気が付いた時には、大根おろしの匂いにつられて天丼屋で急遽夕食を済ませる運びとなったモーリーが満足そうな腹をして僕の横にしゃがんでいた。やけに匂う天丼屋だなと思って入っちゃったんだけど、まさか若者たちが近くの公園で大根下ろしまくっていた匂いだったなんてね!まんまとやられてしまったって感じさ。そのせいで、せっかく君が待ち合わせ場所に早く着いて合図を送ってくれていたのに、私は思わず天丼屋に入ってしまったんだ。そして店から出てきてみると驚いたことに、君の背骨が全員自分の業務を放棄してしまっていたんだ!そう、だから、なんていうか、そのう・・。モーリーは歯切れ悪そうに言ったが、これがただの可笑しな比喩表現だったのなら、どんなに良かったことだろう・・。なんと、さっきまであんなにも僕の上体をサポートしてくれていた背骨たちが、誰も辞表を出すことなく、その業務とやらを全員で一斉に放棄してしまったというのだ。おそらく僕の背骨たちは、彼らの業務について何らかの不満を爆発させたに違いない。しかし、今まで一度だって僕の背中を抜け出すなんてことは無かった。ちょうど今モーリーがやっているみたいな、片足だけを地面に突き刺した逆立ちみたいな体制だって、背骨たちからのクレームがあってからは、一度だってやったことはないし・・。それなのにモーリーは背骨たちがせっせと働いていた職場(僕の背中)を指でブニブニと押しながら言った。大変だなこりゃ・・まるで大根おろしだ。おいおい、なんなんだ。こっちは背骨に全員逃げられて道路に寝そべってるというのに、興味本位で僕の背中を突っついたりしやがって!せめて手指に付いた天つゆぐらい拭いておけよ!僕はモーリーにだんだん腹が立ってきた。しばらくして、公園の方が何やら一層騒がしくなったと思ったら、大根を下ろしていた若者たちの内の一人が僕たちの方に近づいて話し掛けてきた。

あのう、もしかして、さっき背骨全員に逃げられたのってあなたですか?

ああ、どうして気づかれたんだろう。こんな道の真ん中で背骨に逃げられたなんてことが周囲に知れたらすごく恥ずかしい。しかし、そんなことも呑気に言ってられない状況だ。僕は待ち合わせから今に到るまでの経緯を、話しかけてきた大根おろし集団の一員に詳しく話した。終始落ち着いた様子で僕の話を聞いていた彼は、背骨についてやけに詳しかった。なんと僕の背骨の1つ1つには意思が芽生えており、彼らは皆大根おろしの強烈なファンなのだという。僕は、背骨たちが僕に対して辞表を突きつけるくらいのことはできるのではないかと日々疑っていたのだが、まさか僕の背中を抜け出すほどに大根おろしを好んでいたなんて思ってもみなかったのだ・・。でも、背骨たちが業務内容に不満を募らせて出て行ったのではないと知った僕は、少しばかり胸をなでおろしていた。しばらくすれば、僕の背骨は帰ってくるだろう。しかし大根おろし集団の一員である彼は、そう安心しかかった僕を制した。私、さっきから背骨の様子を観察していたんですが、ほんとうに早くなんとかした方がいいと思いますよ。背骨たちは、あなたの背中への帰り方がわからないとか言って、さっき私の携帯電話を奪い取ってあなたの救急搬送の手続きを始めていましたから。やっぱりこういうのはねえ、ちゃんと医者に行って、縫うしかないんじゃないでしょうかね。彼はこの場を一刻も早く離れたそうなステップを踏みながら、かなり迷惑そうな表情をして、公園の方へ戻っていった。僕は完全に頭を抱えてしまっていた。まさか背骨たちが大根おろしに盗られかけてしまうとは。こんなことになるなら、私は生まれてこのかたチーズ・ハンバーグしか食べたことがないから、大根のことは少し存在自体が苦手なんですよ・・・とかなんとか嘘をつかず、毎週マンションの住民全員に配られる大根を受け取っておけば良かったなあ。

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