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知れば知るほど興味深い砂川闘争

知れば知るほど興味深い砂川闘争 平野兼介

僕はこの授業で砂川闘争のことを知りました。そのことを書きます。

まず、砂川闘争とは1955年から1960年代、現在の昭和記念公園、陸上自衛隊立川駐屯地で起こった農民と国の闘争です。

何故闘争が起きたのかを説明します。

もともと立川は軍都と呼ばれていました。太平洋戦争後立川の基地は米軍により接収され、ジェット機を飛ばす滑走路が必要となりアメリカ政府は基地の拡張を決定しました。
昭和29年3月
これにより日本政府は地元の人との交渉を開始しました。拡張反対派の宮崎伝右衛門が町長となり、砂川町基地拡張反対同盟が結成され、労働組合、外部団体とも連携して反対闘争を繰り広げました。
同年9月と11月の測量に対しピケ(見張りのこと)や投石を繰り返し、翌31年、政府が強制収容を決めると、町長は収用手続きを拒否、同10月12、13両日には警察隊、ピケ隊双方に負傷者千人を出す激突となりました。
基地拡張はされないまま10年以上の歳月が過ぎました。
昭和43年12月米軍は滑走路の延長を取りやめ、翌年10月、飛行停止を発表し、拡張反対派の勝利となった。

そこでこの顔の表情に注目していただきたいです。この顔は昭和29年10月12、13日の衝突の映像に映った顔です。どのような表情でしょうか。左の人が連れていかれそうで必死に引っ張って食いしばっているように見えます。このことから農民の方は必死に抵抗したことがわかります。

僕は砂川闘争に対し戦後も農民が戦っていたことを学びました。ですが、農民の土地を取って施設に変える行為は学校や工場も同じということも聞きました。そのため、世の中はきれいなことばかりじゃない事も学びました。

引用 多摩の歴史 武蔵野郷土史刊行会
YouTube 砂川の記憶

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