「正しい日本語」というけれど
Twitterをながめていると、ときどき出てくる「正しい日本語」講座。
先輩ライターが「注意してね」という意味で発信をしているケースが多く、同業者として非常に参考になっている。
ただ、仕事外での主張としては「100%正しい日本語などあるのか?」と考えている天邪鬼。
言葉は常に変化するものであって、何をもって正しいとするのかがあいまいだからだと考えている。
中学高校の古典で必ず学習する「竹取物語」。
冒頭文はこうだ。
今は昔、竹取の翁という者ありけり。野山に交じりて竹を採りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば讃岐の造となむいひける。(作者不詳『竹取物語』)
私は30年しか生きてきていないので知らないだけかもしれないが、こんなしゃべり方・書き方をする人に未だかつてあったことがない。
「1000年も前なのだから当然だろう」と思われるかもしれないが、当時はこれが正しい日本語だったわけで、現代の日本語などもはや日本語ではないかもしれない。
もうひとつ、時代を下った例を。
此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜(近松門左衛門『曾根崎心中』)
『曽根崎心中』の有名な文句である。
ここまで時代が下ってくると辞書なしでも何となくわかる。
が、現代の日本語と比べてもやや違う。
最後にもうひとつ。
私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数が重なるにつれて、私はますます繁く先生の玄関へ足を運んだ。(夏目漱石『こころ』)
現代国語の教科書に採用される夏目漱石の作品の一部。
ほぼ全文わかるが、「会う度数」「ますます繁く」など聞き慣れない表現も多い。
わずか100年程度でも日本語は変わっているのだ。
昨今、テレビやスマホの影響で新しい言葉の拡散は加速している。
中学生ぐらいに違和感を覚えた「全然おいしい」も今では普通になった。
話者が多い言語は変化を続けると、ある日本語学者の講演会で聞いたことがある。
逆に言えば、変化しない言語はあとは絶滅するのみだという。
恐ろしい話である。
お金をもらっている以上、現在の「正しい日本語」に照らし合わせた文章を提供する必要はある。
ただ、一方で言葉の変化にアンテナを張っていないと務まらない仕事ではないかとも思う。
変化を続けているのは私たちの主戦場であるネットの世界だけではないことを忘れてはいけない。
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