霧の中 9

 香澄を乗せて車を出したが、まだ二時過ぎだ。このまま帰すのが普通だろうか。目的のパスタは達成したのだから。でも香澄は楽しそうだった。パスタが終わって、さようなら、では残念な思いがする。香澄はどう思うだろうか。
 カスミン、ぼくがリバーサイドに行くのは、食べるものがあるからじゃない。家でもないけど、何か、リセットできるみたいな場所になっている。だから、パスタもコーヒーも美味しいと感じるのだと思う。カスミンは初めてだから、ぼくとは正反対で食事をした。ある種緊張する雰囲気だったと思う。それを二時間も拘束させて悪かった。
 いえ、そんな、楽しかったです。パスタもコーヒーも美味しかったです。私あのお店好きです。また行きたいです。もっと居てもいいと思いました。 そう、ありがとう。カスミン、このまま帰る?それともどこか行ってみる?
 はい、どこか行きたいです。どこでも良いですから、このまま連れて行って下さい。
ぼくは香澄にジャズをかけて良いか聞いた。ジャズは大好きだと言う。ブラスバンド部にいたのだから、毛嫌いする人は少ないと思うが、個人の好みがある。嫌な曲をかけてもいけない。ぼくは携帯電話のリストから選んでセットした。クリフォード・ブラウンのA列車で行こう、が流れてきた。香澄は、ぼくが休日は何をしているのか聞いてきた。リバーサイドに行っているか、純也先輩から誘われるか。それ以外は何をしているか。香澄に聞かれて考える。
 市民吹奏楽団に入っているときは、みんなに迷惑をかけまいと音出しをやっていた。いまはトランペットもしまい込んだままだ。本を読んでいるか、DVDを借りて映画をみるか。仕事を離れるとリバーサイドに行く以外には話し相手もいない。カスミンはどうなの。
 そうね、部屋のお掃除、お洗濯、ご飯を作るでしょ。それ以外は、翔太さんと同じだわ。本を読むか、DVDやCDを借りてくる。あとは携帯電話で色々サイトを見る。リセットの方法が同じですね。私もひまわりデパートの中では、お休み時間に隣のカフェマドロムの林さんやケーキ屋の沢田さんとか、同じ若いパート仲間の友達はいてお話をするけど、仕事がお休みのときはいつも一人。若いと言っても、林さんは三三歳、沢田さんは二八歳、二人ともまともな顔立ちで障害もないのに、独身なの。縁がないのよ、だって。いま女もそうだけど、結婚適齢期の男の人のほうが大変みたい。将来を見通せないから結婚できない人が多いのよ。香澄はそう言った。
 ぼくもそうだ。香澄と同じだ。どこかに寂しさと向き合っている。かといって小城憲治みたいに、教師になりたい夢に真っ直ぐ向かっていく覇気は持っていない。
 どうなるのだろう。深い霞の中を重い不安を脇に抱えて、走るでもないが、早足で何かを追いかけているような感じだ。回転ゲージに入れられたラットみたいに、走るのを止められない。休息が身の危険をもたらすように、臨時が終われば次の派遣か臨時を探し、それがだめならアルバイトでもパートでもしなければ命が繋がらない。ホームレスが隣り合わせになっている。ときには両手を自由にして思い切り翔る能天気になってみたいと思う。いまのままでよくはないのはわかっている。抜け出したい。切り開け、人はそう言うだろう。どうすればいい。何が出来る。いつまで続けられるかわからない仕事に、瑕疵がないように向かっている。仕事の疲れより将来の不安を打ち消すために、休日リセットをする。ゲームで負けてリセットするのと同じように、休日には明日の仕事がある自信を思い起こし、気持ちを前向きにさせる。とにかくいまを過ごして行くために、そうするしか明日に繋がらないのだ。
 ぼくは車を走らせB市にあるBロープウエイに香澄を連れて行った。O県に過ごした者なら一度は来たことがある。香澄も初めてではなかった。天気は良かった。空には秋の雲が見え、青い空にまだ暑い日差しがあった。山上のロープウエイ駅を降りると、そこはもう冬のように冷たく、雲の中だった。それでも香澄は喜んで、山頂に登ろうとはしゃいだ。十五分も登れば山頂で、山頂に登って体も温まる。急な山道は嬉しかった。ぼくは香澄に手を出して引いた。初めて香澄の手を握った。白くて小さく冷たかった。山頂に登るにつれ雲は重くなり、展望は全く開けなかった。ぼくと香澄には休日でも、平日だからお客さんは少ない。帰りのロープウエイは三人だけだった。お客はぼくと香澄だけ。案内のお姉さんは仕事中。二人に顔を向けずに喋っている。ぼくたちはカップルに見られている。間違いなくカップルだ。香澄はぼくのそばに座ったまま、気の毒に思ったのだろう、説明に頷いて見せた。香澄は優しい子だ。ぼくはそう思った。ぼくはロープウエイを降りるとき、案内のお姉さんに、ありがとうございました、と言って降りる。バスに乗って降りるときも、ありがとうございました、と言って降りる。母がしていたことを習慣的にしているだけだ。香澄も、同じように、ありがとうございました、と言って降りた。案内嬢は、下はいいお天気なのに、上は生憎のお天気で残念でした。お気をつけて、ありがとうございました、と言った。
 さっきのロープウエイの高山さん、可愛そうだったね。お客さんが私たち二人だけで。一人でも説明はするのでしょう。ロープウエイは上りと下りが一緒に動くから、お客さんがいないときでも、乗っていなければいけないでしょ。そのときはまさか説明はしないでしょう。それに、翔太さんが、ありがとう、と言ったので、彼女も天気のこと気を使ってくれたのよ。車の中で香澄は、そう言った。
 それは、香澄が説明に頷いて聞いていたからだよ。それに、高山さんって、知っているの、と聞いた。
 名札が胸にあったでしょう。
 ぼくは、見ていなかったよ。
 もし、もしもよ、ロープウエイが途中で止まったらどうなる?前にテレビで見たことあるの。あのロープウエイで事故があったことがあるの。ゴンドラの真ん中に脱出口があって、底を開けて天井からロープを下ろして人を一人ずつ降ろすの。籠みたいなのに入って、周りが見えないようになっているけど、風が吹いたりすると揺れるの。毎年訓練をしているから、さっきの女の人もきっと籠に乗って降りたことあるのよ。ゴンドラにあった籠も見たけど、あれで降ろされると、怖いよね。
カスミン、ぼくもその緊急脱出を考えていたよ。もしものとき、どうやって身を守るかは必要なことだから。それにしても二人とも、先のことをつい考えすぎてしまうようだね。
 香澄がこんなに明るくておしゃべりだと思わなかった。ぼくは普段仕事以外で会話をすることもないのに、香澄に聞かれて話は弾んだ。
 あの山の上で思い切り楽器を吹いたら気持ちがいいよね。
 でもいまは音がでないよ。
 いまは部屋で練習もできない。
 私も。
 夕暮れの町に戻って、別れがたい思いがした。香澄を好きになっている。まだ一緒にいたい。ぼくみたいな臨時の仕事しか就けない者が恋愛をしていいのだろうか。彼女のために良くないのではないか。もし結婚したくなっても、いまのままではできないし、見込みすらない。それでも香澄は魅力的だ。矛盾を抱えながらも惹かれる思いが強くなっている。まだ若いのだ。そこまで先を決めることもないのではないか。夜のご飯のことを考えた。
 香澄が、翔太さん、今夜のご飯どうするの?と言った。
 どうしよう。何か食べて帰るか、買ってきて食べるかだよ。うちには炊飯器や鍋などはあることはあるけど、もうずいぶん使ったことがない。食料品は何もないし冷蔵庫は空っぽだ。カスミンはどうするの?
 ねえ翔太さん、夜ご飯一緒に食べてくれる?
 いいよ、どこかに食べに行こうか?
 翔太さん、いつも外食ばかりでしょ。うちに来て、私が作るから。
 カスミンそれは悪いよ、カスミンが大変だろう。
 そんなことない。一人で食べるより楽しいし、一人分も二人分も手間は変わらないの。いやなら外で食べてもいいけど、今日は楽しかったし、そのお礼もしたいの。ねえ、お鍋は嫌い?
 ぼくは時間が止まった感覚に落ちた。鍋?家族があった頃、いまの時節から夏が来るまで、うちはよく鍋を囲んだ。ぼくは鍋がとにかく大好きだった。鍋の半分はいつもぼくが食べていたような気がする。一つの鍋を囲むのも好きだけど、鍋自体が好きだった。弟と母の三倍、父の二倍はぼくが食べていたと思う。弟はすき焼きしか好きではなかった。ぼくは何でも良かった。ふつうの寄せ鍋が一番好きだったかもしれない。そんなことが頭をよぎった。
 鍋?大好きだよ。鍋はいいよ、人間が働いて、ときにはゆとりを持ってご飯を食べなさいというご褒美みたいに思える。一人暮らしで外食派だと、メニューの中にないから。
 だったらお鍋にしましょう。私も一人だと、お鍋食べられないのよ。
 ぼくは、香澄と深く付き合いたいと思っていたが、半面、臨時の仕事しか就けていない者が、そんな関係に落ちていいのかと思っていた。しかし、鍋が全ての呪縛を解いてしまった。香澄も大事だけど、鍋で吸い寄せられている。何を中に入れるか、どんな鍋にするか、ぼくはどんな鍋でも良かった。ぼくはとにかく鍋が大好きだった。
 一緒にお買い物しましょう。
 香澄に任せるしかできない。その前に、車を置いていくついでに、香澄をぼくの部屋に連れて行った。自分の部屋は見せたのだから、ぼくの部屋を見たいと香澄は言った。公園に少し外れていたが、窓の視界半分に公園が見えた。公園まで直ぐだ。その公園から道路を挟んでスーパーがあり、スーパーから百メートルも行かないところが香澄のうちだった。部屋はワンルームに小さいキッチンが別にあって、風呂とトイレがあるだけだ。香澄の部屋とあまり変わりはない。部屋にはベッドと小さいテレビ、ノートパソコンに本棚があり、小さいコタツがテーブルとしてあった。まだ暖房には使われていない。本棚には決まった数人の作家の本ばかりがあった。
 香澄は公園が見えていい部屋だと言った。それにここのほうが静かだし、公園は近いし、家賃は?えっ、うちと一緒だ。絶対ここがいいよ。


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