青の彷徨  前編 16

 一月も中頃の朝、橋田祐太郎が訝しげな顔をして電話を置いた。周吾は、そんな顔の橋田に声をかけた。
 「橋田どうかしたのか」
 「アオさん、不思議です。今商品課から電話があって、野崎医院から注文がきました。配送は行った事がないので、最初は営業員持参でお願いします、って」
 「そうか、持って行けよ。心配することはない。行ったら院長にお礼を言うだけでいい。何かあったら向うが言うだろうし、橋田に会わないかもしれない。昔取引があったところだから、回収はこうこうでとか、細かい事は言うべきじゃないと思うよ。今まで橋田には、黙っていたが、僕は何度も野崎先生に会っている。仕事のことじゃないけど。趣味の話で、引き合わせてくれたのが、今は休診している中根先生だよ。もしかしたら、その辺から注文が来たかも知れない」
 「そうですか。でもアオさん。新規開拓ですよ。これ、万丈支店は全得意先と取引した事になるんですよ。凄いことですよ。アオさんが担当になったほうがいいんじゃないですか」
 「とんでもない。西谷、北山だけでも大変だ。よしてくれ。今は趣味で行っているから、どっちもいいんだよ。この間に商売は入らない。仕事は橋田がするべきだよ」
その日帰社した橋田祐太郎は、野崎医院の話をした。
 「商品をお届けして、院長にお会いしたい、と言うと、院長が出てきてくれました。名刺を渡して、お礼を述べたら、蒼井にまた遊びにこい、と、言ってくれ。と言われました。これだけでした」
「わかった。明日にも行くよ。橋田はこれから時々、顔を出す必要があるな。受付で、何か用事があるか、聞くだけでいいと思うよ。まだ、院長に面談を申し込む、のはやめたほうがいい。用事があるか、事務は必ず院長に伝えるはずだから、院長が、注文があるなら、注文をくれるだろうし、何か聞いてみようと思えば、橋田を呼んで聞くだろう。一度注文があったからといって、院長に合わせろ、をやっては、相手も図々しく思うかも知れないし、かといって、訪問も今までどおりしなかったら、折角取引を始めてやろうと思ったのに、乗っても来ないのか、と思われてしまう」
 翌日、周吾は野崎医院に行った。奥の院長室に通される。院長室というのは名ばかりで、音楽を聴く専門の部屋だ。周吾は、橋田の話を聞いたので、
 「遊びに来ました」
 と言った。先生が、
 「何か聞きたいのがあるか」
 と言うので、周吾は、
 「できたらモーツアルトの小品集を。明るい曲なら恥ずかしい顔 を見せなくていいから」
 と言うと、先生は笑って、
 「そうだな、あの時はタイミングが悪過ぎた」
そういってモーツアルトをかけてくれた。昔学校の昼休みとかに、よくかかっていた懐かしい曲が流れてくる。さすがに、高音も低音も、重奏して部屋全体に振動するように伝わる。車の中で聞くのと全く違う。一音一音の繋がりを感動する事ができた。
 「先生こんな音を聞いていたら癖になりますね。他の少し悪い音は聞きたくないでしょう」
 「そうだ。この前、スピーカーが一つおかしいので、修理に出した。一つないだけで全然違う。上を見たら限がないが、耳は覚えているから不満を感じる。そのスピーカー、結局修理ができなくて新品にかえるしかなかった。今までと同じ音を出すには、百万円かかる。あれは昔買った奴だから、今は百万円もするだって」
 先生はそう言って、床に置かれた大型のスピーカーを指差した。
 「百万円ですか。会社の車より高い。それで替えたんですか」
 「女房にそれ言ったら、飯抜きにでもされそうだから、十万円にしている。医療機器だと言って、月十万円の十回」
この先生も奥様は怖いらしい。
 「先生、京町薬品とお取引して下さいましてありがとうございます。同じ会社の社員として、大変嬉しいです」
 「あんまり意地をはってもしょうがないし、それにキョウシン薬品ってあるだろ。今直販でやっているメーカーだ。うちもキョウシンはよく使っている。そこが四月以降は直販をやめる。直販をやめて卸経由にする。それで社名もキョーシン製薬に変更する。その扱う卸が、俺の嫌いな京町だけらしい。俺がどうしても京町と取引しないなら、しばらくの間うちだけは、直販で持ってこられるよう、上に相談する。と、言ってくれる。その営業員はいい奴で、彼に負担をかけても悪いから、この際いい機会だと思ったのよ」
 「そうですか。それは知りませんでした」
 周吾は会社が四月に合併するらしいこと。それぞれの卸が取引していたメーカーに加えて新しいメーカーの取引が増えるのではないか。周吾が以前、延岡に勤務していた時には、キョウシン薬品は主力メーカーだったし、宮崎では宮崎京町薬品だけの取引で、よく販売もして商品も熟知していることも話した。血圧降下剤二種類、抗動脈硬化剤、それに消炎鎮痛剤が主力で、野崎医院もこの四剤は使用していると言う。近々、期待されている去痰剤が新発売されることも話した。
 「先生は、月に二十万以上はキョウシンとお取引していますね」
 「おまえ、俺の懐までわかるのか」
 「いえ、宮崎でも、京町が嫌だという先があって、そこはキヨウシンが直接取引をしていました。でも月二十万以上ないと、直の取引はできないそうです。配送とか回収費用だとか、経費がかかるからでしょう。メーカーの営業員も頭を抱えていました。キョウシンの営業は真面目な人が多くて、僕は好きなメーカーです。今、京町の大分では取引がないので残念ですが、そうですか。四月からは大分も、ですか、嬉しいです」
 「中根のことは何か聞いているか」
 「いえ、何も聞いていません。今月末、最後のお支払いを頂きに奥様に会いますので、その時何か聞けたらいいと思っています」
「何かわかったら教えてくれ。入院しているなら、見舞いに行きたいし、家にいるなら電話してもいいと思うが、その辺がどうか、よくわからんな」
 橋田祐太郎には野崎先生との話を伝えた。キヨウシンの事は意外だったようだ。
 「それにしても、四月からにしては早過ぎますよ」
中根医院の最後の回収も終った。周吾は奥様に、先生のその後を聞いた。医大に、入院しているのは教えてくれたが、それ以上のことは何も教えてくれなかった。お見舞いに行くのも止められた。
 
 

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