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青の彷徨 後編 15

 青い空に白い雲がゆっくり流れていく。ノッピが笑っているように周吾には見えた。
 部屋は一階に三人部屋が三部屋、二階に二人部屋が六部屋あった。十分以上の間取りだった。高山隆介は部屋割を、一階は決まったカップルで使い、二階は個室にするとした。各自荷物を入れる。一階は新郎新婦。蒼井周吾と小菅友香。今村裕史に小野智美だ。
周吾と友香が風呂から出てしばらくすると、新郎新婦がやって来た。荷物おろしを手伝い、夕食の仕込みを手伝う。周吾はまた火を熾した。一通り準備が出来ると、北島潤一と宮沢麻美、それに吉田寿美が着いた。高月誠司も一人でやって来た。前田孝志と湊紀子も着き、今村裕史と小野智美が最後にやって来た。時間は十分あった。みんな風呂に行った。もう混浴ではないかもしれない。露天風呂だけでも他にいつくかあった。周吾と友香は火を見ながら話をした。
 「友香、ノルウエイの森と言う本がある。赤と緑の上下二冊の本。僕とノッピが初めて会った時、ノッピの部屋にその本があった。僕は読んだあとだったし、ノッピも読んでいた。ノッピは緑になりたいと言った。僕は、赤は消えてなくなるもので、消えてなくならなければ新しいものは生まれない。緑は直子が亡くなるから生まれる。ノッピは離婚に区切りをつけ、今までの繋がりを失くしていくことで新しいものを掴みたいと思った。ノッピは緑になる、そう言ったのに、ノッピは赤になった。あの時、僕はまだ緑を見つける資格も無かったのだ。今友香が緑だと確信できるよ」
 周吾はいろりの火種を移動させ、なるべく広く火がつくようにする。
 「不思議なの。その本、私お姉さんからもらったの。もちろん読んだ。私もお洋服もらうことはあったけど、本をもらったのはその本だけなの。でも、今思うと恐ろしいことに思えるの。もらった時からこうなる運命みたいな、お姉さんに託されたような、そんな感じがする」
 「この前、みんなをうちに呼んでご飯を食べた時に、友香は人間どう転ぶかわからないけど、転んだ時に目の前にあるものを大事にしなければ幸せを失くして行く、そう言っていたよね。僕はあの言葉凄く大事だと思う。僕はノッピを失くして転んだけど、転んだ先に友香がいた。この大事な人を大切にしなければもう救われないと思う。友香、僕はもう元には戻らない、そう確信する。だから結婚したい。でもせめて三周忌が明けてからにしたい。どうだろうか」
 「いいわ。三周忌でも七周忌でも待つ積りだから」
 「七周忌になるともうおばあさんになるよ」
 周吾は友香に叩かれる。その手を捕まえて抱き寄せる。幸せを感じる。大事な人を大切にしなければならない。そう思う。
 披露宴は滞りながら進んだ。と言ってもいろりを囲んで、由布院牛や地鶏を焼きながら食べるだけだ。しかし、高月誠司は最初不満を述べ披露宴を滞らせた。新郎新婦はもちろん、参加者のほとんどはもうカップルだったからだ。自分一人が蚊帳の外にいる。その不満を述べた。次にそのカップル達が隣同士に座っていくと、高月誠司の座る選択権はもう無かった。それにも不満の表情を見せた。しかし最後は万遍の表情に変った。カップルでないただ一人の女性が吉田寿美で、高月誠司好みのかわいい人だったからだ。早速挨拶をし、猛烈に言葉を発していた。そのため、新郎新婦の挨拶も高月誠司のために中断され、周吾から注意された。結局その披露宴を一番楽しんだのは高月誠司と言うことになった。吉田寿美もそんな高月誠司が滑稽に見えたか、かわいそうに思えたか、話に応じて大笑いをしていた。友香はその二人を見て、
 「これも運命みたいかしら」
 と言った。新婦はお目出たなので、酒は飲まない。集まった仲間も気心は知れているし、二人で話しに夢中になっている高月誠司たちを除いて、夏の、波当津の海の話題になった。あれがきっかけでこんなになった。まさか高山と原田がいきなり結婚するとは、みんなもびっくりしていた。そして何より北島潤一と宮沢麻美が順調に付き合っている事実を公表したのだ。前田孝志と湊紀子もそうだ。もし結婚できれば、ここでこんな形で披露宴をしたい。みんなそう言った。
 十二月クリスマス前の休みに周吾は友香と一緒に大分空港まで車で行き、飛行機で大阪空港に降りた。電車を乗りついで近鉄奈良駅に着く。歩いて興福寺へ向かう。あの時と同じような青い空だ。よく晴れている。阿修羅像を見る。凄まじい迫力だ。大きく感じる威厳がある。それにしてもこの美しさは全方位から見ても同じだ。娘が母親の一周忌に送ったとされる仏像に、仏教で国を治めるしか方策が見出せない当時の苦難がある。すばらしい芸術性だ。何度見ても感動する。周吾は今まさに阿修羅と同じだ。仏法の教えに心開かれ戦いを止めんとする瞬間、それがこの阿修羅だ。周吾と同じではないか。真っ赤になりながらノッピの寂寞と戦い続け、友香の存在に今までの戦いを止めんとしているまさに自分の姿ではないか。わが身を鏡で見ているのだ。
 大仏殿。春日神社。鹿に煎餅をあげて友香は喜んだ。法隆寺に行き、血塗られた怨念を見出そうとしたがわからなかった。ホテルに戻って来る。冬の日の落ちるのは早い。さすがに日が落ちると冷たく震える。友香は観光気分で楽しいようだ。写真を撮ってお土産を買っていた。次の日電車で京都へ行く。広隆寺の半跏思惟像を見て、妙心寺から衣かけの道を歩く。仁和寺。龍安寺。ここは修学旅行で来たことある、友香はそう言う。龍安寺からバスで金閣寺に行く。ノッピとは歩いたけど。省略可。友香は自分になっている。周吾もそれに安心する。金閣寺はやはり寒い冬がいい。雪があればもっといい。厳しい中に極楽があるように、日常ではありえない美が屹立している。友香は金閣寺を見ている。修学旅行で押し流されて見るのとは違う。ひきつけられる美しさがある。金閣を見つめる友香は美しかった。ノッピが友香にだぶって見える。池に金閣の写影が揺らめく。写影がノッピに見え、金閣寺が友香に見える。揺らぎない美がそこにあった。過ぎた日を過ぎた日として思い出す。
 大阪空港から帰路に着く。友香はお土産を買い込んだ。楽しそうだ。また来よう。まだ帰り着かないうちにそんなことを言う。ノッピを追う旅は夏の坊がつるを残して終った。友香は完全に友香になっている。周吾ももう友香と歩いている。友香と歩いてノッピの記憶を辿っている。友香の力だ。周吾はそう思っている。
 休み明けの日、会社に行くと、悲しいニュースがあった。周吾の得意先の中で一番取引高の多い中沢病院の一番下の娘が、年少組なのに亡くなった。クリスマスイブの日、天皇誕生日の振替休日に、クリスマスケーキを食べ咽喉に詰まらせ窒息死した。中沢病院はその日、休日当番医で母親の房子は病院にいた。父親は医師会仲間とのゴルフだった。自宅の家政婦さんから連絡を受け、母親は知合いの小児科に駆け込んだ。専門外だから外科に行くように言われ、救急の外科に向かう途中で、医師の母親は死を確認したのだ。
 通夜は火曜日の夜、葬儀は水曜日の午後行われた。喪主である父親の中沢隆之先生が挨拶をしたが、参列者はそれを聞いて皆涙を流した。大きいお腹をかけて千葉陽子も参列していた。親が二人とも医者でありながら、一番かわいい娘を救えなかった。先生はそう言って泣いた。予測もしないことで考えられないことだが、こういうことが突然襲ってくる。周吾はノッピを失った時のことを思い出した。どうしようもない喪失感。塞ぎようのない空虚。時間も物もみんな遠くなるような陶酔。今またあの時のことを思い出す。
 翌日中沢病院に行った時、院長夫妻に改めてお悔やみを述べ、周吾はつい涙をこぼした。院長夫妻も涙をこぼした。周吾は妻を亡くした時、どうしようもない虚しさに苦しんだことを思い出して、辛いお気持ちをお察します、と言った。院長は、人の悲しみは想像でするだけだが、当事者になるとまるで違う。わたしも今、蒼井さんが担当になった時の、食事が出来ない辛さがわかった。そう言った。房子先生は、そういうわりには、しっかり食べているのよ。時間をかけるしかありません。忘れる必要はありません。そんな会話になった。
 年末が近づくと仕事はなぜか忙しくなる。いつもの月末に比べすることが増えるわけではないのに。会社の中では全国の卸の再編が加速して話が出ていた。キョーヤクもまた近いうちに合併しなければ存続が厳しい。規模が不可欠と言う流れがあった。
 いつか新井病院で周吾が睨んだ営業担当者の会社が吸収された。彼はそのまま社名を変えて同じ得意先を担当したが、前のような仕事が全くできない、そうこぼしていた。利益を考えないで販売するのがおかしいのであって、損を売る商売を認めないのは当たり前のことだ。地方の小さい卸は大手に吸収されていく。キョーヤクみたいに地場の大手は、隣の地場卸と協定し、合わせて規模を大きくするしかない。そうしないなら全国の大手に吸収されるしかない。南九州だけでは存在価値があっても、全国からみたら知れたものでしかない。せめて九州の中で存在価値のある規模にならないといけないのはもう自明のことだった。大分のトヨフジが福岡での最大手ワタナベ薬品と合併して報薬となった。救命堂も福岡の大手卸と協業に入った。キョーヤクに追いつこうとしている。
 喪中のために年賀状も無い正月となった。周吾は実家に戻った。再婚の話になる。四月に一周忌を迎え、来年四月は三周忌になる。結婚はその後になる。相手は納骨式にもいた小菅友香だ。信枝の妹みたいで、信枝のもとにいた看護婦だ。一周忌があけたら、一度連れて来る。向うにも挨拶に行く。そう話をした。父母は納得して安心した。まだ元気とは言っても、もう先は長くない。そんなことを言う。そんなことはない。まだ六十過ぎたばかりだ。老けるのは早すぎだ。親を叱る。どこか悪いことがあるのか、と聞くが、別段無いらしい。信枝の死んだのが、辛かった。あれから先、もう死ぬのを待っているだけみたいになった。孫の顔が見たい。そんなことを言われた。親も辛かったのだ。周吾はわかっている。
 友香は当直の都合もあって、日向の実家に帰ったのは年が明けてからになった。元旦と二日泊まって三日の夕方帰って来た。周吾は駅に友香を迎えに行き、アパートまで送る。部屋に荷物を降ろしてキスをする。友香に会いたかった。この三日の長いこと。そう思う。それから車に戻って食事に出る。周吾も今日戻って来たのだ。夕食を済ませて周吾の部屋に戻る。一緒に風呂に入る。そのままベッドに行く。お互いを確かめ終わって、リビングに並んで座る。周吾は友香に縁談とか、結婚の催促とかなかったかと聞く。友香はしつこく言われ困った。よほど周吾のことを話そうかと思った。でもまだ我慢した。口に出すとなくなるかもしれないから。今まで待って来たし、もう少しだし。耐えられると思った。苦しまなければ幸せになれない、誰かがそんなことを言っていたのを思い出して耐えた。周吾は四月の一周忌が終ったら友香を紹介する。一周忌が終って友香の実家にも挨拶に行く。三周忌が明けて結婚する。そう自分の親には説明したし、親も友香を見ているし納得してくれ、了解してもらった、と友香に話した。友香は嬉しい、少しずつだけど進んでいるのね、そう言った。
 一月一七日湾岸戦争が始まった。
 周吾も友香もいつものような生活が続いている。友香の夜勤と夜勤明けは友香をゆっくり休ませる。周吾が前もって予定が入っていない日は一緒に過ごす。そんな生活だ。結局週のうち半分は一緒に過ごせた。
 三月になって人事の移動が決まった。高山隆介は新婚生活で身重の茉里と楽しく生活していたが、四月から沖縄に移動になった。彼は喜んでいる。妻は臼杵の実家に戻り出産後沖縄に行くことにするという。周吾は一周忌のことを考えていた。忌日を過ぎてはいけないから、四月七日の日曜日にするしかない。埼玉の父母に連絡を取り相談した。結局墓前でお経をあげることで法事にしよう、となった。その後また、あの銀鮨で会食すればいい。あの墓をまた見たい、楽しみにしている、橘栄吉はそう言った。蒼井の家もそれがいい。和尚には話をする。時間も十一時だ。周吾は銀鮨に予約を入れるだけだった。雨の日?傘を差してやればいい。昔の人はたくましい。
 一周忌には蒼井家、橘家以外に、友香と今村裕史に小野智美、小村樹里、湊紀子、後藤倫子、榎裕子、梅木康治、和田昇が参列してくれた。にぎやかな一周忌となった。天気も良く春の青空に白い雲が浮かんでいた。後藤倫子はすでに結婚して高鍋の実家に帰り家業の病院を手伝っていた。久しぶりに旧友に会えるので楽しみにやって来たが、千葉陽子は大きいお腹で、今日か明日かと言う状態で参列できなかった。後藤倫子も榎裕子も後で見舞いに行くらしい。墓は新鮮なままだった。周吾は朝の散歩にほとんど毎日行く。いつみてもきれいだし。お母さんの墓も並んで楽しそうだ。橘栄吉が言うように、いずれ後を見る人がいなくなり寂れてしまっても、この墓だけで完結できる。緑の人工芝の中に並ぶ石塔だけで会話が弾んでいるような存在感がある。周吾は自分の目が黒いうちに、人工芝を色の濃い天然石に変えなければいけないと思った。人工芝は永遠ではないから。風化してすれたら惨めだ。でもまだ先のことだった。
楽しく会食が終って橘栄吉と美津を空港に送る。三周忌が明けたら友香と再婚する予定だ、と説明した。それは良かった。それは良かったと、父は喜んでくれたし、披露宴をするなら呼んで欲しい、と言ってくれた。父の方は三周忌の頃までには仕事も終りそうだ。そうしたら大分に移りたい。昨夜の鰯専門店も素晴らしかった。向うじゃあんな新鮮な美味しい魚は食べられない。早くこっちに来てまた行きたい。あれは良かった。しかし整理する時間もあるから、三月とはいかないが、早いうちに墓の側に来たい。そう言って帰って行った。
 四月中旬、引継ぎや新年度の組織かえなどあって落ち着かない一階の営業フロアに、胸を張って堂々とやって来た奴がいた。高月誠司だ。周吾は玄関脇のロビーでコーヒーを飲んで休憩していたところだった。周吾は高月誠司のその姿を見て、いいことがいっぱいあった、と誇らしげに見せる安っぽさがかわいく思えた。周吾に報告したい気分だろう。周吾はそう思って、高月誠司の目を見た。彼はやっぱり周吾のところへ真直ぐやって来た。
 「いいこといっぱいあった。一つはまず、仕事だろう。三月決算が終って、何か表彰もらった!二番目は彼女だ。もうラブラブだあ」
 「師匠、何で僕が言う前にそんなことがわかるんですか?僕はまだキョーヤクさんの誰にだって話していませんよ。それにうちの社内だって、今日わかったのですから、まだうちの上司は誰もここに来ていません。そんなもれるはずないんです」
 「僕は誰からも聞いていない。さっきここにやって来るのをみてわかった。だって喜びに溢れていたよ。高月君は純粋だから直ぐわかる。それも喜ぶ内容が一つ二つじゃないように見えた」
 「げえ、ほんとうですか。師匠の前では隠しようもないですね。隠すつもりもないし、師匠にお礼を言いたくて来ました。昨年度の新製品の実績で最優秀賞を受けることになりました。それにビッグバン賞というのがあって、担当する範囲で、複数品納入軒数の多い営業員が受けるんですが、これももらうことになりました。それに今福岡で寮に住んでいますが、一人で住めるようになりました。もちろん大分に住みます。最後にですが、吉田さんと順調です。師匠の言う通りです」
 「おめでとう。彼女はゆっくりやれよ。高山隆介みたいに急ぐなよ」
 「はい、わかっています。今度の週末彼女と家探しに行きます。いえ、一人暮らしですよ。でも出来たら近い方がいいかなと思っています」
 高山隆介は一人で沖縄に行った。塩見太郎にあったら蒼井がもう元気になった、と言ってくれ、そう頼んで送り出した。高山の後任は新人の斉藤繁が配属された。配送経験があるが営業は初めてだ。
その斉藤繁も何とか一人で仕事ができるようになって、夏がやって来た。
 周吾は友香を連れて九重に行く。ノッピと行った最後の旅だ。早朝四時大分を出る。山登りに行くのだ。長者原に車を止め、まだ薄暗い山道を登って行く。早朝は冷える。長袖のシャツに帽子。首にはタオルを巻いている。背にはリュックを背負っている。友香は仏像より山登りが好きなようだ。大船山に登る、と言ったら、絶対行く。お姉さんが立った頂上に立って同じ空を見たい。そう言った。リュックにはたいして荷物はない。昼食のお結びにお菓子。予備の着替え、雨具、救急薬だ。水はリュックにくっつけていつでも取れるようにしてある。長者原の登山口に入山者名を記入し、すがもり越えを目指して登る。ゆっくりなだらかな山道を進む。だんだんと明るさが増してくる。爽やかないい気温を感じる。やがて体が温まり寒さを感じなくなって来る。日が射してくるともう長袖のシャツは要らない。脱いでリュックにしまう。休みながら景色を見、友香と一緒に登り出す。すがもり越えに着く。三俣山が目の前に見える。峠を降る。巨岩の上を、間を縫うように、足をくじかないように、友香の手を引きながら降って行く。法華院温泉の宿に着く。腰を降ろして冷たい水を飲む。タオルで汗を拭く。坊がつるの草原が風になびいて揺れている。初夏の青い空が見えた。二人は大船山の頂を目指す。友香の手を引きながらゆっくり登る。ひたすらひたすら登る。時に止まって後ろを見る。今まで通って来た道が見える。段原に出る。山を越えて谷を渡って来たのだ。さあ友香もう少しだ。二人は最後の登攀を始める。山に手を突きながら登る。友香を引き上げながら登る。周りに九重の山々の頂が見える。足下に坊がつるの草原が見える。頂上に立った。友香は両手をあげ、息を激しくつきながら叫んだ。
 「やったあ、着いた。お姉さんと同じ高さに立った」
 「友香、もうノッピの上に友香はいるよ。ノッピは、万歳はしなかったから」
 「あら、恥ずかしいことしたかな」
 「そんなことはない。友香は友香らしくていい」
 九住山、星生山、三俣山、平治岳、高塚山、天狗岩。山の峰の下に坊がつるが見える。初夏の青空に白い雲が流れている。大船山の尾にミヤマキリシマが咲き乱れている。下の御池に降りて行く。池を見ながら昼食にする。ゆっくりだが山を二つ登って来た。たくさんは食べられない。お結び二つにお茶を飲む。チョコレートを口に入れる。普段はめったに食べないものだ。疲れを取るにはいい。友香と並んで寝そべって空を見る。流れる雲を見送る。風が爽やかだ。陽射しは太陽に近いせいか強く感じる。
 「友香、よく登って来たね。がんばったよ」
 「一人だと絶対無理と思う。よほど山好きなら別でしょうけど。私なんか一人で登るのは無理。登って来てわかる。周吾と一諸だから登れた。登れたから、こんなにすっきりして美しいお花が見れて、美味しい空気も吸える。きつい思いをしたから」
 「友香のお陰だよ。友香が一緒にここまで登って来てくれたんだ。僕はあの黒岳の向うの、男池のもっと先の深い谷底に蹲っていたんだ。それを友香が引きずり出してここまで一緒に手を引いて登って来てくれた。もう周りがしっかり見える。どこにいるかもわかる」
 「周吾、私はそんなたいしてことしてないと思う。私はただここが見えてただけ。ここに来たかっただけ。そう思う」
 「そうかも知れない。でもそれは僕にとっては何より力強い支えだった。ただの山登りじゃなかったから。友香はもうノッピに繋がって、ノッピの先にいる。僕にとってはノッピも大事。でもノッピを大事にするには友香をもっと大事にしなければいけない。友香を大事にすれば僕の来た道がはっきりするし、行く先も広くなる」
周吾は隣に寝ている友香の手を握り締めた。
 大船山を降る。坊がつるを抜ける。雨ヶ池越え。帰りの道は楽だ。友香の足も軽い。雨が池越えを登りきって木々の間の向うに飯田高原が見えて来た。友香も安心したか、降りにかかって足を挫いた。左足を引きずっている。周吾は友香を座らせ靴も脱がせる。靴下も脱がせて、周吾の首に巻いてあるタオルに水をかけ、友香の足を巻く。座って景色を見る。
 「友香あせってはいけないんだ。一歩一歩だ」
 「周吾ごめん」
 「いいよ、僕の一番大事な人だから、絶対において行かない」
しばらくして、靴下をはかせ靴を履かせる。足を回してみる。まだ痛みがあるようだ。
 「友香、罰だ、僕のリュックも背負って」
 周吾は友香に二つリュックを背負わせ、周吾は友香を背負った。友香は恥ずかしがったが周吾は構わず背負った。もう長者原の駐車場が見えている。この温もりをいつまでも感じて行きたい。棒のようになった足と膝の感覚がない。伸びているのか、曲がっているのかよくわからない。周吾は友香を降ろすわけには行かなかった。もう一キロもないのだ。周吾は絶対に友香を離さない。しっかり背に乗せて意志だけで進む。海の中の方が楽だった。そう思うが友香の重みは愛の重みだ。周吾は意志だけで歩き通す。車に着く。友香を立たせる。
 「友香、歩けるか」
 友香は歩いてみる。痛そうだが歩ける。大丈夫だ。すこしなら大丈夫だ。車に乗せ、観光ホテルに行く。友香を降ろす。
 「友香、温泉に入って着替えて帰ろう。着替えたら、シップを貼ろう」
 入浴料を支払って温泉で汗を流す。頭から足まできれいに洗ってゆっくりつかる。疲れが流れて出て行くようだ。ロビーで友香を待つ。友香は左足をかばいながらも歩いて来た。車に戻ってシップを貼る。気持ちいい、と言った。
 「周吾ありがとう。重かったでしょう私」
 「重かったよ。とっても重かった」
 「やだ、ごめんさない」
 「友香、体重じゃない。僕は友香の大切さを感じながら背負ったから重く感じた。僕の一番大事な人だから。友香の体重が重いんじゃない。友香が大切だから重いんだ。とっても気持ちのいい重さだ。僕は潰れても降ろさないつもりだった」

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