青の彷徨  前編 17

 塩見太郎の延びた結婚式も終り、二月になった。
   京町薬品万丈支店は交通安全宣言事業所として、毎朝、朝礼時に、無事故無違反三九十日と声を出して安全運転を確認する。その記録が、三九九日となった。全事業所初の四百日超え目前である。
 二月十日金曜日の朝、本社から大鶴管理部長が来た。彼は内勤で債権絡みの地味な仕事の受け持ちだが、交通安全に関しては県下を取り仕切っていた。とにかく交通安全の神様である。車の中を徹底してきれいにすること。週末には洗車すること。雨であろうと、台風であろうが関係ない。月曜日の朝、もし不届き者がいたら、朝礼で厳しく叱られる。駐車場に、絶対に車を前から止めてはならない。出る時慌てることが多いから、事故を起こす確率が高くなる。一時停止は白線で必ず停車。これを毎朝、会社の前で立って見る。雨の日は傘をさして、台風の時はかっぱを来て、社員であろうが、役員であろうが、一般の人であろうが区別なく注意する。社員全員にSDカードを取らせ、違反がないか、チェックする。他の会社や事業所に、京町薬品の交通安全の取組を講演し、警察の集会や会合にも、もう顔として参加する。交通安全緑十字金章という全国表彰を受けていて、警察幹部も一目置かざるを得ない人である。その交通安全の神様が来て、朝礼時、長いわかりきった話を聞くことになった。大鶴部長は、事故の悲惨さ、会社の損害の大きさ、個人の一生の問題になることなど、いつもの長い話をした。さらに、万丈支店が無事故無違反四百日超え、間近であることにふれて、是非とも気を引き締め達成し継続するよう話した。
 その日は休みの前であるから、周吾も当然大分のノッピの元へ帰るつもりだった。しかし昨夜ノッピが、今受け持っている患者の容態が悪いので、明日は帰れるかわからない、と言う。それなら、周吾は寮にいるから、いつでもいいから電話をくれるように話していた。泊まりなら、翌朝一緒に帰ろう、と言うことになっていた。周吾は仕事を終えて、もちろん社用車も洗車して、寮に帰って来てすぐに、橘さんから電話、があった。
 「私。いま亡くなったの。これから少し片付けたら、今日帰りたい。一緒に帰れるかな?」
 「そう、それはご愁傷さま。僕も今戻ったばかりだ。これから着替えて、迎えに行くよ」
 「ありがとう。病院の前じゃ目立つから、商工会の前にいるわね」
 「了解」
 周吾とノッピはお腹が空いていたし、疲れもあって万丈で食べて帰ることにした。
 「明日も休みだし、ノッピもご臨終を看取ったら疲れたでしょう。ゆっくり帰ればいいから、美味しいご飯を食べよう」
 「いいわね、アオどこに行く?」
 「市内でもいいけど、鶴見はどう?海の幸新鮮どっさりの漁師さんがやっている兄弟船という店があるんだ。漁師の息子の塩見が、絶対ここは美味しいというから、行って見たいと思って。どう?」
 「いい、いい、大賛成。海の香りもするかな」
 「すると思うよ。海の前だもの。僕は中に入ったことはないけど、前は通ったことはある」
 ノッピは患者さんが亡くなって、少し疲れているみたいだ。二十分も走ったら着くので、周吾は小さい音量で響けるようにモーツアルトをかけた。ノッピも周吾も静かだった。
 「アオ、救えないって、無力ってことかな」
 ノッピが呟いた。
 「ノッピそんなことはない。どうしたって、どうにもならないことは、いっぱいある。人の命ばかりはどうにもならない。その時、その時に、手を尽くすことが大事であって、人の命をどうこうするのは、人のすることじゃないと思う。その時の、手の尽くし方に間違いがなければ、それ以上は望めない。亡くなった方への弔いにもならない。一生懸命手を尽くしたなら、必ず休んで、リフレッシュしなければいけない。そうすることが亡くなった方への弔いにもなるし、次の人へ、他の人へ、手を十分に尽くせることになる。ノッピはいま、ゆっくり休むべきだよ。身体ともに。おいしい物を食べることは大事だよ。禅の言葉に、喫茶喫飯、時に随って過ぐ、という言葉がある。お茶を飲む時はお茶を、ご飯を食べる時は、ご飯を食べなさい。これだけのこと。でも、これほどのことでもある。喫茶去、という言葉もある。お茶でもご飯でもいいが、まあ、食べて行きなさい。と言うこと。まず、ご飯を食べよう」
 ノッピは顔を覆っていた。泣いているのか。
 「アオありがとう。私幸せよほんと」
 二人は新鮮な海の幸たっぷりのおいしいご飯を食べた。これだけおいしくて値段も安いから、さすがに店内はいっぱいだった。ボックス席には家族連れや、集団で埋まっていた。二人は、ボックス席は遠慮してカウンターに座り、並んでご飯を食べた。
 後のボックス席に中年以上の女性三人と老人に近い男性が一人座ってご飯を食べていた。そのお客達の声が聞こえてきた。
 「ミヨさん、いい顔をしておったな」
 「ほんになあ、年はよう越さんじゃろうち、言われちょったにな」
 「そうちや。ミヨさんも、今年生まれたひ孫まで見られたんじゃ。もう言う事はないわなあ」
 「ほら息子の嫁の浜子さんが、あすこの病院の先生がいい人でな、ほんと親身になっちくるるんと、まだ若けえ女の先生じゃが、あげん先生はおらんち、言いよったで」
 「そうちや、わしもな。息子の勝男に聞いたちゃ、あん女ん先生はいい先生じゃち」
 「私しゃ見たことあるで、テレビに出るセイコちゃんじゃが、よう似ちょる。いやセイコちゃんより先生が別嬪じゃ。そりゃえらい別嬪さんじゃが。そいがなあ、あん先生は診たてはいいんと、院長よりいいんと、あっこの病院に行くしは、みんな女ん先生が目当てじゃが。ミヨさんにしちみ、若けえ時かり、苦労ばっかりしちきたけんど、息子も嫁も、出来がいいで、孫の嫁まで見られち、ひ孫ん顔も見れたんじゃ。それに、あんだけいい先生に看取ちもろうち、何の思い残すことがあろうか、なあえ」
 「そうちゃ。あんだけ病院で手を尽くしてもろたんじゃ。死ぬのは決まちょったが、いい見送りが出来たち、さっきもみんなが言いよったがな」
 二人は聞こえてくる声をいつの間にか聞いていた。
ノッピが体を寄せてきて、静かに
 「アオ、出ようか」
 と言った。
 周吾は支払いをして、外で待っているノッピの所に行く。
 「ノッピ、さっきの、後の席のお客さん」
 「そう、多分そうだわ」
 「ノッピ。いい先生だよ。悩むことないよ。手をいっぱい尽くして、それでこれだけ感謝されている。僕は嬉しい」
 明るくなったノッピと一緒に大分へ帰る。万丈市内から、国道十号線に出る途中、栂牟礼山の右側を行く道を通る。短い峠を越すと、すぐ十号線に出る。その峠を越す道の途中に、山中のラブホテルに繋がる道が直角に延びていた。もう時間は十時近くて、街灯もない山の中の道だ。周吾が差し掛かると、左の方からスピードあげて走る車のライトが見えた。かなりのスピードだったので、こちらが優先とは承知しながら、周吾はブレーキをかけ、ゆっくり進んだ。すると左前方のライトの車は、一時停止もせず、スピードも落とさず、左折しようとした。したが、出来なかった。左後輪が道路脇にある水路に脱輪した。ガツン、と音が聞こえてその車は止まった。周吾は、ラブホテルで時間を過ごし、慌てて出ようとした間の悪い車を、そのままにすることも出来ず、車を手前で止めた。ライトも消して出ようとすると、脱輪した車の正体がわかった。
 「ノッピ。あの車は五味支店長のだ」
 「え、そうなの」
 「この際、他人の方がいいが、無視もできない。行ってくるよ」
 周吾はノッピを車に残して、行った。
 「けがはありませんか?」
 運転席から降りたのは五味支店長だった。助手席はドアを開けたら、水路に落ちる。出て来られない。出て来られないが、運転席のドアが開いた時に、車内に明かりがついて顔が見えた。驚くべき人が乗っていた。周吾は誰が乗っているか。聞かないまま、
 「あ、支店長。蒼井です。たまたま通りかかりました。おけががなければ、僕が先に行ってJAFに電話しますよ。牽引してもらうしかないでしょう。僕は電話したら、そのまま行きますから」
 「おお、悪いな。そうしてくれ、電話してそのまま行ってくれ。   蒼井すまんなあ、頼むな」
 周吾はそれだけやり取りをすると車を走らせた。社内は暗くてノッピの顔までは見えなかったはずだ。周吾は大坂本の店によって、公衆電話でJAFに伝えた。後はもう任せるほうがいい。場所が悪かった。電話して車に乗ろうとしたら、パトカーが峠の方へ向かっていくのが見えた。五味支店長は不味いな、と思った。
 「ノッピ、今日の朝礼に、本社から交通安全の神様が来てね」
 周吾がそう話し出すと、ノッピは、
 「交通安全の神様?」
 周吾はその経緯を説明した。無事故無違反四百日達成の新記録が今日なのだ。誰が交通違反を最初に起こすか、みんなピリピリしていた。ここで違反すると、おそらく大変な目に会いそうだ。みんな解っている。解っているから慎重になって違反もしない。しかし戦々恐々でいるには違いない。そんな話をノッピにした。
 「いまパトカーが行った。たまたまだけど、JAFより先にあの黒のクラウンを見つけると思う。自損だけど事故に間違いない。気の毒だけど、無事故無違反記録達成ならず。でも悪いけど、記録を破ったのが支店長でみんなほっとした、と、思うよ」
 「支店長はなぜ、あそこから出てきたの」
 「ノッピ。あそこから出てくるのは、あのホテルに寄って帰る以外にないよ」
 「じゃあ」
 「そう、隣の席に女の人が乗っていた。見た事がある人だった」
 「奥さんじゃないの?」
 「違う。支店長は単身赴任だよ。奥さんは大分にいる」
 「じゃアオと一緒だね」
 「そうだけど、あれは不倫だよ」
 「まずいところで会ったね」
 「そう、こっちより向うが」
 「相手は誰?私知っている人?」
 「顔を知っているか、知らないけど、名前は知っていると思う」
 「ねえ、教えてよ。絶対黙っているから」
 「ノッピには隠し事しないから言うね。武蔵会病院の理事さんだよ」
 「えっ?ほんとう?」
 「ほんとうだよ。僕もびっくりした」
 「あの理事さん。有名よね。一人で病院を切り回しているって聞くわ」
 「そうらしいね。理事長が診療に専任しているのか。経営に不向きか。解らないけど、医療器から消毒薬の採用まで全部理事決済がないといけないらしい。新薬の採用も、理事に聞いてくれだって。医師でもないのに採用までどうして決められるのかって」
 「私の、医大の仲間がね。武蔵会に一年ほどいた事あるの。その人に聞いたら、アオと同じこと言っていた。患者の数が減ると医大に乗り込んで来て、替えてくれ、って、言うんだって。信じられる?」
 「派遣の先生を?」
 「そう」
 「医大の責任じゃないと思うけど、筋違いもここまで来ると、誰も注意する人もいないんだ」
 「ひどい話ね」
 「でも、どうして五味支店長とそういう関係になったのか。不思議だよ」
 京町薬品万丈支店の交通安全無事故無違反記録が三九九日で途切れたことを、当事者である五味支店長の口から報告を受けたのは、あの日から四日経った火曜日である。月曜日、朝会社に行くと、五味支店長が近寄ってきて、
 「蒼井、この前の事は内緒にしてくれ。頼む」
と言われた。周吾は、
 「はい。解りました」
 と答えた。その翌日の朝礼で、支店長は自分が夜道を運転中に自損事故を起こしたと報告した。申し訳ないが、万丈支店の記録は途絶え、昨日から再度始まった。みんなは無事故無違反二日と唱和した。支店長事故の話はもうあっちこっち飛び回っていた。黒のクラウンが代車の白いクラウンになっていたし、社員も、もう栂牟礼のラブホテル前の事故が支店長ではないか、と言う噂が出ていた。周吾たちがあの事故現場を去ってからJAFが来るまで、おそらく何台もあの道を通ったはずだ。誰か見知った人が通りかかったかも知れなかった。周吾は黙っていた。ノッピには言っても、他に漏らす話ではなかった。
 西谷医院に寄って、奥さんが、
 「蒼井さん、お宅の支店長さん、あのお顔で、おやりになるのね」
 「何を、ですか」
 「あら、あなた、ご存知じゃないの?武蔵会の理事さんと、ラブホテルに行って、慌てて帰る時に、事故したのよ。聞いてないの?」
 「いつ、どこですか」
 周吾は自分が立ち会っていることも隠して聞く。
 「栂牟礼の峠のホテルらしいのよ。金曜日の夜だって。お宅は武蔵会病院の取引は多いのでしょうね。支店長があの理事さんとそんな関係だったら」
 「いえ、それほどでもありません。求命堂薬品の方が多いです」
本当だった。武蔵会は二番手卸だった。
「あらそうなの、それじゃ支店長は今一お役に立ってないのね」
「どこから、そんな話が入って来るんですか」
「警察よ。万丈警察署には、うちの患者さんがいっぱいいるの。警察は、徹夜明けは休みでしょ。あの事故を立ち会った人が昨日来て、そう話して行ったわ」
 これでは周吾がいくら黙っていても、西谷医院の奥様に真相を知られたら、かわいそうだけど本社に筒抜けになってしまう。警察は他人の情報を勝手に漏らしていいのか。事故の調査で、同乗者の氏名年齢など調べられたのだ。周吾は、このままでは自分が疑われると、思った。うわさを漏らしたのは、蒼井しかいない、五味支店長はそう思うに違いない。帰社するや、周吾は、西谷医院での話しを隠さず話した。
 「お前が言うたんじゃなかろうな」
 「いいえ、それなら報告などしませんよ。それに僕は同乗者まで見ていませんから」
 「そうか」
 「西谷医院の奥様のことです。本社へは時間の問題と思っていた方がいいと思います」
 「そうだな、わかった。ありがとう。蒼井なあ、あの人はな。俺の昔の彼女じゃったんじゃ。中学、高校も一緒じゃ。まあ、いらんことは默ちょっちくりい」
 「解っています」
 周吾は五味支店長が意外にあっさり認めたのに驚いた。しかし、その話は西谷医院でも、社内でもしなかった。ノッピを除いては。
三月に入った。京町薬品は決算月である。販売の追込み、回収の根回しなど、決算月ならでは、の、慌しさが続いていた十六日月曜の朝礼で、五味支店長が文書を読上げた。
 「平成元年四月一日を持って、京町薬品株式会社、宮崎京町薬品株式会社、京坂薬品株式会社、鹿児島薬品株式会社は対等合併する。法律上の存続会社は京町薬品株式会社となる。新社名はキョーヤク株式会社。本社は大分市。代表取締役会長柳田和幸。代表取締役社長京町健太郎。各県はそれぞれ、大分本部、宮崎本部、熊本本部、鹿児島本部となる。また沖縄薬品株式会社はキョーヤク株式会社と資本提携し、キョーヤク沖縄株式会社となって完全子会社となる。以上」
 予想された合併の発表だった。翌週の月曜日に人事異動の内定が噂され、翌日火曜日、人事異動が、四月一日付けで発表された。万丈支店では、橋田祐太郎が熊本本部の営業へ、塩見太郎はキョーヤク沖縄株式会社に移動となった。黒田浩太は本社営業企画部勤務となった。塩見太郎の後任は大分の商品課から新人営業員が、橋田祐太郎の後任は日田支店からベテランの営業員が、黒田浩太の後任は新入社員が配属された。
 ノッピにこの話をすると、橋田祐太郎は何もそんなことは言わなかったらしい。
 「熊本はどうなの?仕事はし易いのかしら」
 「万丈ほどやり易いところはない。熊本は占拠率が低いらしい」
 「塩見さんは、新婚で、延びた結婚式が終ったばかりで、もう転勤?かわいそうじゃない?」
 「そうだよ。気の毒だ。でもね。本人は喜んでいる。沖縄に行きたかったらしい。あれは漁師の息子だから、海が好きなんだ。沖縄でサーフィンしたいらしい。それにね、沖縄転勤は三年限りで、大分に必ず戻す約束らしい。新婚さんだったら、子供ができても就学前には戻れるから、いいんだって。塩見は前向きだからいいよ」
 「祐太郎は?」
 「橋田は熊本だから、大分に戻れる約束はない。彼は実家が大分だから、それほど遠いわけでもない」
 「来年アオはどうなるのかしら」
 

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