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柳井館の謎 

 番匠川の支流小又川の、その支流に江平川がある。江平川の行き詰まりに江平(えびら)という地区がある。私が子供の頃は確か2軒の家があって、私の同級生もその家の子だった。
 三方、四方山に囲まれた隙間にポツンと僅かに空が見えるところ、という感じの場所である。そこに柳井館なる小さいながら一種の城郭があった、とされて史跡もある。
 因尾という地区は番匠川の上流から中流にかかる一帯で、最上流から樫峰、腰越、元山部(もとやまぶ)、松葉(まつば)、小鶴、紙土屋(つちどや)、虫月。ここで合流する支流の上津川の上流からは、井内(いのうち)、上津川(こうずがわ)。さらに板屋、堂ノ間、日平(ひびら)、羽木川、松内(まつち)、井上、楠木(くすぎ)。ここまでが因尾である。大字で括ると、山部、上津川、堂ノ間、因尾、井上となる。中心部は堂ノ間だろう。堂ノ間と大字因尾の日平を分ける小又川。その支流江平川の行き詰まりとなるところになぜ館があるのか。
 今の行政所も昔の城も、治める地域の中心にあるのが多いのではないか。因尾は番匠川の上流にあるため、耕作地は狭小で、江平となるともう猫の額でしかない。堂ノ間までなら徒歩でも30分はかからないが、どうだろうか。普通に考えれば耕作地も広く人口も多い、中心となる堂ノ間に館があるべきだとなる。
 柳井館から裏の山を越えれば元山部は近い。楯ヶ城山から冠岳、椿山を越えれば栂牟礼城まで行ける。因尾、井上などは指呼の間。上津川でも昼までに戻って来られる。元山部から松葉を経て、小鶴までが一番遠いのかも知れない。
 情報の利便性だと確かにいい。しかしだ。堂ノ間にあったとしても、30分程度の違いにしかならない。奥まって閉塞した場所にある理由は何かと思う。館となればある程度の人が常駐していたはず。おそらく各地区から数人ずつ来ていて、普段は館の仕事をし、何かあれば山を越え、川を渡って連絡を取っていたに違いない。当然食料は一番近い堂ノ間から運ぶしかない。もし戦で攻められれば逃げるしかない。籠城向きではない館であるなら、食料を運ぶ手間を避ける堂ノ間の方がよかったのではないか。
 もし府内に直結して任務を持っていたとすれば、堂ノ間より江平だろう。裏の山を越え石峠から野津へはすぐ行ける。密命を持った館だった? おそらく大友氏は佐伯氏を滅ぼそうと考えていたはず。大友氏に従う地方豪族で大友氏と血縁でないのは佐伯氏だけ。佐伯惟治の悲劇を思えばそうだろう。佐伯氏に対する監視の役目を受けていたのではないか。
 島津氏が大友氏を攻めて来たとき、因尾衆を率いる柳井左馬之助は栂牟礼城について、堅田口で功績をあげ、同日に残余の兵力で因尾の囲ヶ岳でも薩軍の進軍を阻止した。さらその後、堂ノ間で薩摩の輜重隊を壊滅させ、薩軍の佐伯方面から府内への進軍を止めている。その時首級を持って栂牟礼城に報告に上がった、と史実にある。その時はチーム栂牟礼。特命ミッションはチーム大友だったのか。大殿大友(府内館)。中殿佐伯(栂牟礼城)。緩やかな関係だったのではないか。
 祖母が話していたことを思い出す。祖母たちは自分も柳井であったのに、柳井館と呼ばず大友館と言っていた。
 ちなみに大友氏が滅び、毛利氏が治めるようになると、いつしか柳井館もなくなって、江平には二軒の家しか残らなかった。残った家はどちらも大友家だった。


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