正月

 正月を迎える前に、家の周りをきれいにした。専ら祖父が草をむしった。時々祖母が手伝った。墓にもお参りをした。
 師走の二八日には餅もついた。鏡餅やお寺にあげる餅もあり、何升もついた。餅は木の臼と杵でついた。重労働だ。つき手は父一人。杵を臼に振り下ろすと、捏ね手が餅を真ん中に寄せる。つき手はまた真ん中に杵を振り下ろす。単調な作業だが、呼吸が合わないと怪我をする。蒸したての米は湯気を立てて熱いから、捏ね手は手を水につけながら、やけどをしないようにする。水につけすぎると餅が水っぽくなる。杵は力を入れすぎてはいけないし、同じリズムでつく必要がある。厩の前の屋外だが、屋根があるセメント張りの上に臨時の竈を置いて、薪で大きな釜に湯をたっぷり沸かし、蒸し器を数段重ねて餅米を蒸していた。一臼ついたら、二段目が蒸しあがる。長く休むことなく次が臼に入れられる。私や弟が中学生になったら、何回かつけるようになった。私が高校生になったとき、五臼一人でついたこともあった。その後は機械に変わった。杵を振り下ろすのはまだ簡単で、最初のご飯状の餅米を、杵で捏ねて、ある程度餅状にして、つける状態にするのが大変だった。餅は丸餅だ。むろぶたという木で作った幅五十㎝、長さ百㎝、深さ七㎝位の木の箱に、つきたての餅をそのまま流し込み、数日置いて固め、暑さ三㎜程の、手の平サイズに切ったかき餅も作った。醤油をつけて焼いたら煎餅になり、油で揚げて砂糖か塩で食べた。そのまま焼いても良かった。丸餅より薄いので早く焼けた。市販の餅とは、舌触りも旨さも甘みも全く違った。砂糖や醤油、黄な粉などなくても甘みがあって食べられる。あの頃は寒かったから、鏡開きの頃まで餅をむろぶたの中に入れて、そのまま家のなかにおいていた。アオカビが出てくるのもあったが、カビを削いで焼いて食べた。鏡餅は三段重ねだが、大きいのは直径三十㎝、暑さ三㎝位あった。その大きい餅を食べるときは、金槌で叩いて割った。草餅も作った。蓬を茹でて、餅をつくときに混ぜると緑色の餅になった。外で遊んでいて、転んで膝を擦り剥いたり、小刀を使って怪我をしたりすると、蓬を摘んできれいな石に乗せて小石で叩く。叩いた蓬を傷口に塗った。
母は料理の準備に忙しい。蒟蒻も豆腐も自家製だった。後年はそれも無くなったが、出来立ての豆腐の味は絶品だった。自家製大豆に必要な水は、昔殿様がお気に入りだった話も聞いたことある美味しい水だ。母が大晦日の配膳を用意するとき、私など子供は、蔵の二階から高脚膳を下ろす手伝いをした。大晦日の午前中は、父は神棚や仏前の水を替え、お神酒をあげた。祖父は掛軸を選んで玄関脇の和室にかけた。たいてい何枚かある鐘馗大臣のどれかだった。門松の代わりに、松や竹、梅の盆栽を玄関脇に飾った。
 台所で母や祖母が立ち働き、父や祖父まで家の中の片付けをするさまは、子供ながら珍しくわくわくするものだった。父と祖父は最後に炬燵を上げて囲炉裏を出した。炭や五徳を用意して薬缶をかけた。居間が広くなる。囲炉裏の周りに高脚膳が配られ、膳に載せきらない料理がその周りに置かれていく。子供の役割は、配膳の手伝いと、風呂を沸かすことだった。年越し膳の前に入るのだ。薪をくべて湯加減をみる。風呂が沸いたら手の空いた者から入る。風呂を出ると、何故か少しいい服を着た。どこかへ出かけるのでもないのに不思議な思いだが、新しい年を迎えるというより、身綺麗に整え、無事に過ごせた一年を送る意味があるのではと思う。全員が風呂に入ると、いよいよ年越しだった。
 一年の垢を落として年を越し。
 年越し膳は、昼食だが、飲めない人も杯を返し、全員でやり取りをする。杯をあげてもらって感謝の言葉が飛び交うのだ。酒を飲むなら自分専用の杯についで飲めばいいものを、衛生的にはよくないが、これもこの地方の慣習だ。杯を差し出して受けてもらう。普通の宴会でもこうだ。杯を交わすのだ。酒を飲まない人も、一年の感謝と、新年もまたお願いします、という気持ちで杯を返す。子供にも全員から杯がくる。酒は注がれる真似だけで、その空の杯を飲んだ真似をして返杯する。こんな慣習で育ってくれば、酒が飲めるように育つのだろう。このやり取りが一段落する頃、もう子供はお腹一杯になる。年越し膳は全部食べきれない。あとは夜食べ、明日以降も食べる。食事が落ちつくと、酒を飲まない人はそれぞれ自分の世界に戻っていく。子供はお腹が満足すると外にでる。もう風呂に入っているから、汚れる遊びは禁物だ。あれほど待ち遠しかった大晦日の年越し膳を食べると、何か空虚な寂しい思いになる。楽しみは過ぎてしまうと、あっけないものだ。他所はたいてい夜に年越しをしたから、遊び仲間は家の手伝いで遊ぶ暇はない。奴凧をあげ犬と遊んでも退屈な思いをした。
 夜は年越し膳の残りを食べる。それでもまだ残る。テレビを遅くまで見て、いよいよ新年になると、子供は初詣に駆けて行った。三竈江神社に零時ちょうど、夜道を走って愛宕神社へ、その後、暗い細い道を天神様の小さい社に詣でて三社参りが終わる。祖父が三竈江神社の神社総代を務めていたときは、大晦日の朝、祖父と一緒に神社に行って、倉庫から大太鼓を出して、お参りした人が叩けるようにした。三竈江神社は小さい鈴はあったが、新しい年、景気よく行きましょう、という気分になるには、大太鼓を叩くのが良かった。初詣の太鼓の音が遅くまで響いて、初詣の賑いを伝えていた。瑞祥寺からはやや高音の除夜の鐘音が響いていた。家に戻ってくると、家の下の暗い道を行き来する初詣の人たちが、新年の挨拶を交わす声が聞こえてくる。
 山奥の四面山に囲まれた谷間の集落だから、空は狭い。それでも晴れた冬空に見える星は刺繍のようにきらめいて見えた。夜は寒くて底冷えがした。敷き蒲団の上に敷き毛布を乗せ、たんぜんと呼んだが、かいまきを掛け、さらに毛布を二枚、厚い綿布団を二枚も重ねた。掛けて寝るには重過ぎるから、空洞を作って入るのだ。空気が冷たいから、がたがた震えて蒲団に潜る。しばらくして振るえが止まると一息つけるようになる。寒くて耳が痛くなるような夜もあった。朝起きると、たいてい水道が凍結して水が出なかった。夜冷え込みそうなときは、少しずつ水を零すようにしておく。そうしないとどうにもならなかった。石油ストーブなどまだなくて、囲炉裏炬燵があるのは居間だけで、他の部屋には何もない。玄関脇の和室に電気炬燵を置いて、大勢来客があると火鉢を置いた。
正月も大晦日の年越しが終わると、子供は退屈だ。元旦はどこも休みで、子供のいく店は三日まで休みだった。田舎には初売りも福袋も関係ない。それに、使うところもなかったが、元旦にお金を使ってはいけないといわれた。
 祖父は元旦から絵を描いたり、字を書いたりして、それをみんなに見せた。意味のあることをなにか言ったと思うが、覚えていない。板木に淡味是真と字を書いて彫り、墨を入れ台所にかけてある。紙に書いて貼ったのも多く、残っていない。ご機嫌なときは、何か書いてよく貼った。子供が遊んで襖を破ったときなど、何か書いたのを持ってきて貼った。正月には必ず祖父の薀蓄話があった。祖父は年賀状を出さない人だった。用があれば毎日でも葉書を書くし、手紙も書いた。父は年賀状を印刷して宛名だけ書いて出したが、来る年賀状は祖父の方が分厚かったし、毛筆の達筆が多かった。
 元旦、二日となると来客があった。年始の挨拶だ。そのたびに酒席を用意する。母は大変だったに違いない。あの頃子供はそんなことは考えない。酒の燗を運んだり、徳利を下げたり、そんな手伝いをさせられた。年始客は三日、四日と続いてあったから、大晦日、元旦の二日で一斗飲んでしまえば、母が怒るのも、いまになってわかる。
 正月行事は七草粥に、鏡開きのぜんざいを食べるまであった。小豆の豆の形がそのままのぜんざいが我が家のぜんざいで、焼いた餅を入れた。
 一、五、九月、正月の月は慎重に事故のないようにしなければいけない。一月によくないことがあると、五月も九月もよくないことがある。毎年正月はそういわれた。


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