青の彷徨  前編 11

 十一月下旬、周吾は中根先生に、突然驚愕の宣言をされた。年内で休業すると言う。理由は、個人的所見だが、という前置きで、
 「咽喉にしこりがあって痛い、二~三日前から気がついたが、痛みが収まらない。自分でX線を取った。咽喉の専門ではないが、間違いなく癌だ。急いで調べて、どうなるかわからないが、治療を受ける側にならないといけない。月に一度は来られる患者さんがいるから、年内は休めないが、時々臨時休診にして、医大で検査を受けるから。その積もりで頼む」
 「復帰はいつですか」
 「わからん。詳しく検査してみないと、なんとも言えない。場所が悪いと、もう終りだ」
 「だめです。そんなことないです」
 「もしうまく癌がとれても、声帯が残らんと思う。まだ良くはわからんが、復帰はむつかしい。戻れたら、京町で使ってくれ。警備の当直くらいできるぞ」
 周吾はその日、車の中で泣いた。泣いて運転もできないので、万丈白鶴高校先の、養心寺の門前に車を止めて泣いた。中根医院は流行っている診療所ではない。無口で患者あたりは決してよくないからだろう。でも患者を診る姿勢はまさしく真剣で、じっくり丁寧に診る。胃部X線を撮る時も、バリウムを飲んで苦しい患者に、胃壁にバリウムがくっつくまで、上へ、下へ、右へ、左へと回転させる。いくら診断上、必要なのだと言っても、患者の理解は得られない。他の診療所や病院で取られたX線フィルムを解析するのも専門家としての仕事だった。自分で見る時は、絶対見落としがないように、細心に細心を重ねて対処する性格だ。だから、十人も診察すると、ぐったりするほどで、患者の回転は当然悪い。だが、他の診療所でわからなかったことがわかったり、他で言われたことと違っていたりした患者は、もう中根先生から離れなかった。新患は少ないが、他へ流れていく患者もいない。周吾の、医薬品の売掛も、毎月請求金額全額きっちり支払いしてくれた。医薬品の代金は、診療報酬の流れでいくと、三ヶ月後でないと入金されないから、債権月数は三ヶ月以内であればよしとされていた。中根医院は全額翌月回収先であった。京町薬品一社独占のお取引で、回収は翌月全額即金。こんなありがたい得意先はまずない。最上のお得意先を来年からなくす。と言うより、周吾は中根先生と別れなければならないのが悲しかった。
 月に一度、万丈医師会は学術講演会を医師会館で行った。外部から講師を呼んで、最新の学術情報を学ぶ。企画は医師会の学術担当理事の中根先生だ。中根先生から、次は、何を、どこの講師に依頼しよう、という企画を周吾がまず聞く。周吾は講演の内容から、推奨できるメーカー名を挙げる。そのメーカーが中根先生の了解が得られれば、ある程度幅のある日程の中から、講師の先生が万丈に講演に来てもらえるように、メーカーに交渉を依頼する。中根先生が直接交渉することもあるが、決まった場合、講師の講演料や交通費は、その依頼されたメーカーが負担する。メーカーにしてみれば、迷惑な話に見えるが、講演の内容に最もふさわしい最新の薬剤を、紹介できる時間を作るので、迷惑ではなく、ありがたい話になる。メーカーから、次は是非弊社に、講師には、有名なあの先生をお呼びできますから、と、言ってくる事が多い。中根先生は、それらを考え、年間を通してテーマが偏らないように、なるべく全診療科が対象になるよう、決める。参加者は万丈北山病院の若手の先生方が聴講に来れば四十名近くになるが、普段三十名は越えないし、少ないと二十を下回る。
 中根先生は周吾の高校の同級生、永沢清蔵の従兄弟だ。周吾の祖父と、中根先生のお父様が友人だった。診療所も万丈白鶴高校の近くで、周吾も昔、中根先生のお父様に診てもらったことがある。そんな繋がりもあってか、周吾が毎日訪問しても、この医薬品をお願いします、今日はこのキャンペーンで、など、卸側の都合をセールスすることは絶対にしなかった。京町薬品独占の得意先だ。最新の情報は必ずどこより早く正確に伝えるが、卸の都合の販促は一切無視した。使用薬剤は先生が決めたものをお届けすればいい。もちろん相談にはどこよりも丁寧に真摯にのる。この姿勢がなければ、卸一社で続くはずがない。一社であるがゆえに責任ある厳しい対応をしなければならないと、周吾は思っていた。毎日夕方四時、患者さんがきれる頃、お得意先にとって一番都合のいい時間に訪問。診察室は二つあり、診察は手前の部屋で、奥の診察室は休憩用となっている。周吾はいつも奥の診察室に行く。机の前に、先生用の椅子があり、その後にベッドが壁際について置いてある。中根先生は椅子に座り、煙草を吸う。周吾はベッドに腰掛け、話を聞く。毎日ほぼ一時間。時にはかなり超過する。
 看護婦さんや事務の人は、毎日奥の診察室に先生と籠って、一時間もいらっしゃって何をお話しているのですか。そんなことを尋ねられたこともある。
 何を話したか。ほとんど意味のない話に違いない。それでも周吾はその時間が楽しかった。中根先生の愛読書は吉川英治の「宮本武蔵」で、もう七回は読んでいることも聞いたし、医者などになりたくなくて、絵描きになりたかったが、親父に説教されてあきらめた、とか。奥さんは同じ市内で開業している山崎医院の娘だが、しっかり尻に敷かれている話も聞いた。周吾の同級生、永沢清蔵が、学生結婚みたいに、卒業と同時に結婚式を別府のホテルでした時も、中根先生も周吾も出席していた。その時会っていた記憶はどちらもなかったが、結婚した永沢清蔵が三年持たずに離婚し、息子二人抱えて大変だ。など、共有する話題も多かった。周吾は一番気を使わずにいれる先生だったが、一つだけとんでもない悪癖があった。アルコール中毒みたいになることだった。普段は怖い奥さんに管理されて、好きなだけ飲むことなど絶対にない。月に一度、学術講演会が終ったあとは、講師やメーカーなどと会食があるから、責任者として飲まないといけない。と言うことになっている。それに必ず周吾が付合う。会食といっても、医師会館を使わずホテルを使用する時は、立食式の会食がある。医師会館では何もない。何もないから、そのままスナックに行く。中根先生が行く店は一軒だけ。つけのきくところ。学校などのレントゲンの集団検診や予防注射などの報酬は、唯一直接、自分のところに、封筒に入って届けられる。これが中根先生の財布兼小遣いになる。診療報酬など、銀行経由の物は全て奥様の許可なしに自由にならない。小遣いもない。小遣いを与えると飲んでしまうから。
 スナックで飲む時はウイスキーをストレートで飲む。周吾はロックだが、氷を入れたら薄くなる、という。つまみは何も要らない。四杯五杯六杯。周吾は控えているのに、いつも二人でまず一瓶は空く。これだから酔いも回る。いつも周吾がタクシーに乗せ、家の中まで送って行くが、タイミングを少しずらすと、もう歩けなくなる。
 玄関でブザーを鳴らし、肩を担いで家の中まで入れると、中根先生は、
 「じゃまた」
 と最後は元気を絞って声を出すが、まともに歩けない。
 いつか、先生を家に入れ、帰ろうと門に向かったら、
 「蒼井さん。あなた、うちを潰す気ですか」
 と奥様に追いつかれて、言われたことがある。毎月のことだから、よほど自分は悪い事をしているように見られていたのだ。そう思うと寒気がした。こちらは下請けなのだ。無理には逆らえない。中根先生は、周吾にとって特別好きな先生だから、他の先生には言えないようなことも言えた。その飲み方は絶対に良くない。飲む前にもっと食べよう。そんなに早く飲まない。もうこれで終り。など随分はっきり言ってきたのに、それでも相手はそれを叱りも怒りもせず、楽しく飲み続けるのだ。酒と煙草があればよかった。人に絡む酒でもなく。人をけなす酒でもなく。心の寂しさをぽろりと出して笑う。そんな愛しい酒だ。飲みすぎた次の日の朝は時々、会社に電話がある。商品課の女子社員が、
 「中根医院から、注文です。先生用の点滴を頼まれました。蒼井さんに言えばわかるそうですが、商品名は何でしょうか」
 「了解。伝票なし。クーラーボックスで僕が持っていくから」
 「なんですか。それ?」
 「いいの。いいの」
 周吾は、会社の小さいクーラーボックスに氷を入れて車に積む。途中、缶ビールを二本買ってクーラーボックスに入れ、クーラーボックスのまま、中根医院の受付に届ける。
 「このまま先生にお渡しください」
 中根先生は診察中だが、昨夜のアルコールが切れかかって苦しいのだ。ビールで、ウイスキーのアルコールが切れていくのをソフトランディングさせるのだ。夕方定時に訪問した時、クーラーボックスも空き缶も回収する。そうしないと、奥様に見つけられると、大変なことになる。京町薬品取引停止、その前に、蒼井、出入り禁止。
 長江ラーメンも好きだった。中根先生も周吾も、高校生の時からのファンだった。無愛想な店で、水を入れるコップも汚く、セルフだったし、何よりラーメンを盛った鉢の中に、時々指が入って配膳された。それでも、腹をすかせて行った時の、とんこつ味の、濃厚ななんとも表現不能な、こくの深い忘れられないスープが、うどんに似た白くて太い麺と、薄いチャーシューにしみて、愛想のない店主なんかそこのけで、記憶にとどまる絶品の味なのだった。この味を共有できるのは、万丈に生きたものしかない。その長江ラーメンも、週休四日、しかも不定期休となって、今日は店が開いていた、という情報を聞いて行くと、もう閉まっていたとか。めったに味わえない味になっていた。いつか一緒に行こう。そういつも話をしていた。ラーメンなら、女房だって、文句もないから。中根先生はそう言っていた。
 ヨットも友だちと共有で持っていた。最勝海の湾に係留してあったが、一人では海に出せず、友達とは日程が合わず、自分だけ一緒に行けない、とこぼしていた。ヨットを見に行くのに、車の免許を持っていないので、周吾が訪問した時に、会社の軽社用車ミラに乗せて見に行くことが何度もあった。ヨットを見たあと、もう少し津久見寄りに行くと、万丈支店の中で唯一取引のない野崎医院があって、中根先生は周吾を連れて、野崎医院に寄った。中根先生とは友人だった。京町薬品と取引せよ、と言ってくれた。
 野崎先生は、
 「蒼井が来るなら来てもいい。注文を出すかどうかはまだわからんが」
 と言ってくれるようになった。野崎先生はオーデイオが趣味で、そのための部屋がつくられていた。最上の音響機器から奏でられるクラッシクは、音響専門の部屋に響いてすばらしかった。周吾と野崎先生はクラッシクで話が弾んだ。ただ、周吾が担当するには遠過ぎたし、野崎医院には取引がないものの橋田祐太郎が担当になっていた。橋田は医師会関係や新薬、業界の情報だけ届けていた。野崎医院がなぜ京町薬品と取引を止めたか。野崎医院の近くに小窪医院ができ、その開業に京町薬品が前面的に手を貸したから、という。実際は違って、小窪医院は他卸が率先して開業させ、実取引も他卸が多かった。一方的な理由だが、一旦止めたものを、違っていましたから、といって簡単に戻せない。これが真相だった。
 その後年末の休診日に向けて、辛い訪問の日日が続いた。
 「蒼井なあ。俺も自分でこの病気を見つけた時は、ほんとうに、ぞっとしたぞ。医大で検査を受けるまでもない。大体でわかる。場所が場所だからな。その後は、いろいろ考えたな。女房のこと。娘は今年から教員になったからいいが、息子が医大に入ったばっかりだからな。女房に話したら、俺が仕事を辞めても、卒業くらいさせられるらしい。俺の飲み代は経営が厳しいからない、とい言っていた奴が、子供には残していたらしい。どこまでほんとうか知らんが、信じるしかない。そのうち、決まったことだから、じたばたしても、どうもならんとわかると、すっきりして、したいことをすればいい、と思うようになった」
 「何をなさっているんですか」
 「オーヘンリーの最後の一葉じゃないが、最後の一絵という奴か。やっぱり好きだったんだな。もう医者やらんでもいい。となると、酒飲んで、絵でも描くか。映画のビデオでも見るかしかしたいこともない」
 周吾は終りの日に近づくような訪問は辛かった。中根医院では、なぜ先生は休業するのか、いつ復帰するのか、という常連の患者に対する説明に苦労していた。
 「今まで飲み過ぎて、きつい思いをしたことが何度もあったが、あんな思いをするなら、何で絵でも描いていなっかたのか、と思う」
 「それは、先生が医者にならず、絵描きになりたいと思っていた時、強制的に断念させられたから、医業をやっている間は習慣的に抑圧されていて、医業を休めるとなった時、必然的に絵を描く気持ちが沸き起こってきたのでしょう。無意識の意識みたいに」
 「そうだな。なくなっていくものがあると、必ず生まれてくるものがある」
 中根先生はそう言った。それから、
 「医師会の仕事のことだが、今月の講演会は予定通りでいい。俺が仕切るが、来年から学術担当を森山にしてもらうことにした。今日決めた。一月の講演会は、蒼井が言っていた、大日製薬でいいだろう。感染症をテーマにやれば全診療科が対象になるし、新年最初のテーマにはいいと思う。森山には電話しといたから、相談にのってくれ。森山は同級生だから有無を言わせん承知してもらった。医師会長の大川先生にも、副会長の西岡先生にも了解を取っている。みんな蒼井が担当だから、助かる。講演会については蒼井に聞いてくれ、といっているから、頼む。とくに森山は蒼井を頼っているから、待っている筈だ。あとで森山のところに寄って話をしてやってくれ。あれの弱いところは心配性で、小さいこと、先のこと、いろいろ考え、悩むところがあるから、講演会の参加者が少ないと、頭を抱えるだろうな。まあ、蒼井に任せるから、うまくやってくれ。頼む」

 

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