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天空路の一つ 

椿山 冠岳 楯ヶ城山
 
 昔は明治村(しばらく前は弥生町、今は佐伯市)の長畑という地区は、椿山の長い急斜面に段々畑が長く続いて、その隙間に人家が点在していた。
 今はその面影もないほど、ほとんど全ての家が便利なところに転居した。私の母の実家も昔はそこにあった。私のひいひいお婆さんも、母と同じ家から嫁いで来たのだ。
 そこからどうして因尾まで来たのか。今なら大阪本、畑木、小倉、中野、と来ればいい。そんな遠回りなどしていないのだ。裏の椿山を越え、風戸にショートカット。
 私の父たちが若い時、椎茸の栽培のために、長畑から椿山を越えて中野、因尾の山に通う人たちがいたのだった。
 祖母の話を思い出す。母の兄弟たちが親に連れられて椿山を越え、尾根道(天空路)を通って冠山から楯ヶ城山へ連なるあたりで、椎茸栽培の作業に駆り出されていた。そこあたりは明治村からやってくる人だけではなく、因尾からも人たちがやってきた。天空路を通じての交流が昔からあったのだ。ひいひい婆さんも、その辺の交流の中から縁ついたのだろう。
 また一つ、これも多分祖母から聞いた話だと思う。栂牟礼城に行くときも、楯ヶ城山から尾根を伝って行ったらしい。因尾から栂牟礼城に行くには番匠川を下ればいいが、難所が多い。井上から楠木の間にある囲ヶ岳のあたり。今は対岸に二車線道路があって全く不便はない。私が子供の頃は、囲ヶ岳の岩を削ってバスが何とか通れるようになっていたが、その前の時代はどうだったのだろうか。島津氏が大友氏を攻めて来たとき、因尾衆はこの難所を利用して島津勢を撤退させているから、その当時からも何とか通れる状態にあったのは間違いない。
 さらにその先、いま大水車がある風戸のトンネル。さすがに戦国時代にはなかったと思う。おそらく川沿いを下って来たとしても、風戸からは椿山を登って長畑に下ったのだろう。その方が栂牟礼城には近い。川沿いを行く。山を尾根沿いに行く。どちらにしても椿山がポイントになったに違いない。
 因尾を朝に出立し、汗をかきながら尾根を越え、椿山を降るころには、おそらく日が暮れるのでないかと思う。長畑の誰かの家に泊めてもらって、栂牟礼城に出勤したのだろう。
 

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