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青の彷徨  前編 20

 大分に戻っていつもの生活が続く。五月の母の日に、ノッピは周吾の実家に行こうと言う。何か用でもあるのか、と聞くと母の日だから、と言う。私は、周吾の大事な人は私の大事な人。特別に気を使うの。こんな時しか気を使えないでしょ。だから行こう、と言う。電話もかけないで行くからびっくりさせたが、母も父も喜んでくれた。周吾が埼玉の母には何かしなくていいだろうか、と聞くと、もう送ってあるから心配しないで、と言う。埼玉での話をすると、
 「信枝さん、ありがとう、こんな息子を認めてもろうて、ありがとう。結婚式は、何もせん訳にもいかんが、ごくごく小さくしたらどうかの。うちも親戚が多い訳でもないが、兄弟に知らせん訳にもいかん。どっちにしてん、夏以降の話じゃろ。まあ、名前を書いてみとく」
 父の日もノッピはまた周吾の実家に行こう、と、誘った。
 「信枝さん、あんないいもん、もろうち((頂いて)どげえしゅうか(どうしようか)、おおきに、おおきに、お父さんや、今度はあんたん番じゃが」
 ノッピは父にプレゼントを渡した。
 「こりゃすみません。ありがとうございます。志乃も先月は、いい物をもろうて、ありがとうございました」
 「おとうさん、そんなたいした物じゃないですから」
 母はまた野菜をどっさり持たせてくれた。父母が結婚式に呼びたいリストを作るという。
 会社では、橋田祐太郎の後任の千原信二と矢田課長が頭を抱えていた。
 「蒼井、お前どう思うか。岩下病院だが、四月も売上が低迷、五月はまだ低迷、六月になってもまだこんなもんだ。他の卸に取られたようなものがあるでもないし、患者が急に減っているらしい。何が原因か、解るか」
 「課長、それは気の毒ですが、副院長です。副院長がもういないでしょ。四月以降医大から後任が着ているはずですが、今まであの病院は副院長で持っていたんです。スナックで騒ぐ印象からすると信じられないでしょうが、診察はしっかりしていて、患者さんの心はがっしり掴んでいましたよ」
 「でも蒼井。岩下病院は夫婦でやっていただろう。何で副院長がいなくなるのか」
 「課長、岩下は親子でも別々でやっていますよ。それにもう夫婦ではありません」
 「何!離婚したんか。何でお前が知っている?」
 「あっちこっちから、情報が入ります。それに、岩下病院は回収の注意をした方がいいですよ」
 「何で?」
 「院長が不動産投機を狙っているみたいで、由布院の土地を買っているはずです。これが売れないと、大変ですよ。病院の規模といまの内実では厳しいと思います」
 「何そんなことか。今土地を投機にする動きが多いから、気をつけないと、もう簡単に売れんぞ」
 「課長、それじゃ、この目標は高過ぎやしませんか」
 千原信二が正す。
 「蒼井の話が本当なら、そう言うことになるな」
 「それじゃあんまりですよ。毎月百万以上も不足したら、他で取り返しようもないですよ」
 千原信二は落ち込む。
 「解るが、いまさら目標は変えられん。少しでも不足を少なくするしかない。他で増やすしかないだろう。野崎はどうか。あれは蒼井が新規開拓したんだ。キョーシン製薬の分は来ているだろう」
 「はい、月に三十万近くあります」
 「そんなにあるの」
 周吾は言った。野崎に行っても仕事の話はしないから、そんなことは知らなかった。
 「もしかして、それキョーシン以外にもあるんじゃないですか」
 周吾が言う。
 「あるよ。大日製薬もきている」
 千原信二が答える。
 「そう。課長は野崎医院訪問していますか」
 「いや、行ったことない。変り者、なんだろ」
 「全然。いい先生ですよ。僕は仕事の話はしませんから。でも信じてもらえたら爆発して取引が増えますよ。課長も、もうそろそろ訪問してください。向うから自主的に注文を増やしてくれているんです。こんなサインを見逃したら絶対だめです。僕は今までどおり、遊びだけで伺いますから。仕事は二人で、ミスしないように攻めてみて下さい。サインですよ。大日製薬分がきているのは。去年まで全くなかったのですから」
 六月の、離婚後半年が過ぎた頃、ノッピが
 「アオ、もういいの、結婚できるわ」
 と言った。
 「いつでもいいよ。ノッピが良ければ七月一日にしないか」
 「私の誕生日ね」
 「そう、絶対忘れない」
 「あと一週間か、そうね、それがいいわね」
 「僕は住所変更をして、免許証の住所も移して、七月一日は休みだし」
 「私も、一緒に行こう」
 ついに周吾は橘信枝と入籍した。ノッピは蒼井信枝となった。周吾の新住所はノッピのマンションになった。住民表の写しをもらって、翌日周吾は会社の事務に、人事諸届書と一緒に、本社人事課へ送ってもらうよう頼んだ。
 「ええ、蒼井さん結婚したんですか」
 事務の渡辺美恵子が騒いだ。商品課の他の女たちも寄ってきた。深田課長も、矢田課長も、野々下光も、
 「蒼井、お前水くさいな。全くそのそぶりも見せんし。どうした、子供が出来たか」
 「相手は誰か」
 「大分太陽会病院勤務になっていますけど」
 渡辺美恵子が言う。
 「おい個人の秘密を簡単にもらすなよ」
 「蒼井、どっちにしてもちょっと、話を聞かないといけないな」
と矢田課長につかまって、五味支店長の元へ行く。周吾は昨日二人で入籍したこと。両家の親は承知してあること。披露宴は今のところ考えていないこと。妻は大分太陽会病院に勤務する内科医であること。しばらくは万丈の寮に単身赴任すること。など説明した。
 蒼井周吾が結婚したことは八月の社内報に、祝結婚、大分万丈支店営業一課、蒼井周吾、信枝(旧姓橘)、大分太陽会病院勤務、七月一日入籍、と記載された。他にも結婚した社員は多数いたし、子供が生まれた時には、出生日と子供の名前も掲載された。周吾の記事もその中の小さな情報であった。周吾はその社内報をノッピに見せた。
 その雑誌が社員に届き渡った頃、沖縄の塩見から電話があった。
塩見は周吾の結婚を祝福してくれた。相手が太陽会病院勤務だとわかって、まだ単身で寮にいる話をすると、奥さんは仕事続けるのか、と聞いて来た。周吾は、妻は内科医で、夫婦にはなったが、仕事は辞められないと言うと、一人で寂しいだろうと言った。今までもそういう付き合いをしてきたが、やっと結婚したのに単身生活は、いくら近いところにいると言っても寂しいと答えた。塩見はすっかり沖縄に慣れて、帰りたくないのだ。自分はここが良いし、妻もそういっている。出来れば母を呼ぼうかとも考えている。人間何がどう変るかわからない。日常は変化して進化していくよ。なんくるないさあ。
 この話をノッピにすると、声をあげて笑った。塩見のリズムが沖縄にあっているのだ。楽しんで仕事が出来れば最高さあ、だ。
 お盆に、ノッピは周吾の実家に行こうと言った。入籍して初めてだし、先祖もだけど父母に会っておきたい。その時に披露宴をどうするか意見を聞こう。ノッピの問題を前向きに捉えて、それをチャンスに変えていく行動力に、周吾は感心した。ノッピは特別に気を使うことが大事なの。少し手際が悪くても、こちらから仕掛けること、こちらが声を先にかけることが大事なの。と言った。周吾はノッピの言うままでよかった。  
 盆には周吾の実家に初めてノッピも泊まった。親戚も近所の人も何人か盆参りに来て、ノッピを見てびっくりして帰って行った。田舎の大きな家に、老人二人しかいない筈のところに、いきなり目を張るような美女がお茶を運んでくるのだから。
 父母は自慢の説明を始める。七月一日に入籍は済ませ、仕事の関係で式は後回しになっている。何と言っても信枝さんは医者で、大分の太陽会病院に出ていなさるから、息子の仕事は万丈だし、まあ式は先にしようと相談中です。そんな話をさぞ嬉しそうに話している。
 ノッピは、埼玉の父も披露宴はどうするか、周吾の父母の立場もあるから相談するようにと言われてきたことを話し、どうすればいいか、意見を聞きたいと言った。父母はここで生活している以上、親戚や近くの人に披露したいから、呼ぶ人数は少なくていいので、どんな形でもいいからやって欲しい。そんなやり取りをして、いっそこの場所限定で早くしよう。凝々しくせず、質素に、田舎風の形式でやろう。周吾の友達や会社関係は極々親しい友人だけ、個別に二人が招待する。田舎の披露宴は公民館の大広間を借りて、食事は仕出屋に頼むことにする。話しはすんなり決まった。費用は周吾の親が持つことになった。費用と言っても、料理くらいで、祝儀を差引いたらたいした出費にもならない。ホテルなどでするよりこの方がお互いに喜ばれる。埼玉の父も是非出ると言っているので、日程は秋頃の九月二三日秋分の日に決まった
 ノッピも周吾も依存はなかった。両親が安心して貰えるなら、花嫁衣裳でも割烹着でも着ると言う。参加人数は、これなら父母が決めればいいことで、呼ばれる人も気を使わずにすむし、着飾って行く必要もないようにすればいい。案内文は周吾が書いて、宛名は父が書くことに決まった。
 ノッピは周吾の実家での経緯を埼玉の父に電話で伝えた。父は、二人の結婚は二人だけのことではないし、親のためにもならないといけない。会社や友人や親戚はそれぞれコミニテイが違うから、それを一緒に片付けようとするから無理が生じる。コミニテイごとに必要最小限にするのが一番いい。自分も行く。父は地方文化の研究者だから、興味があるのだ。楽しみにしているはずよ。
 周吾は難問が解決していくのがわかった。
 蒼井周吾は七月一日橘信枝と入籍しました。これまでのご恩に感謝し、ささやかではございますが結婚の披露宴を催したいと思います。ご多忙中とは存じますが、万障お繰り合せのうえ、何卒平装にてご参加くださいますようお願い致します。
 案内の葉書は父によって宛名が書かれて送られた。
 九月二三日秋分の日。田舎の公民館二階大広間に、仕出屋から料理が運ばれ酒が持込まれた。親戚は母の兄弟が十名、父方の親戚と近所の人で十名、蒼井家二名、橘家二名、新郎新婦で二六名になった。父母もこれだけ声をかけ、集まってもらえば大満足である。平装でと言っても、普段着慣れない背広にネクタイをしたり、入学式で着たような服にアクセサリーをぶら下げてきたり、多種多様であった。新郎新婦は平装とはいかない。周吾は濃紺のスーツに白のネクタイをして、ノッピは桜模様の艶やかな訪問着に末広、箱迫、懐剣などをつけた。ノッピの華やかさは一人だけ突出して輝いて、座の誰もが瞠目した。周吾と信枝は末席に着き、招待客に周吾が挨拶をした。
 「本日はお忙しい中お運び頂きまして有難うございます。この度私蒼井周吾は橘信枝と結婚致しました。このご縁に感謝し末永く沿い遂げる覚悟でございます。皆様方におかれましては、今後とも、ご厚情賜りますようお願い申し上げます。本日はささやかではございますが、ご酒を用意致しました。ごゆっくりご歓談いただきますようお願い致します」
 乾杯が終ると、周吾は座の全員を紹介した。ほとんど顔見知りではあるが、橘の両親は誰も知らない。その後周吾と信枝は揃って座の全員にお酌して周り、一人ずつ挨拶をした。ノッピは周吾に、今日の主役はお父さんとお母さんよ。私達は盛上げ隊だからね。のんびり飲んでいる暇ないのよ。一回りして、ノッピは衣装直しに立った。ピンクのワンピースに着替えて真珠のネックレスをつけてノッピが出てくると、あちらこちらから溜息が漏れた。二人はまた座を回った。相手から返杯を受ける回数が増えてきて、遠慮はしながら二人で受けて回った。ノッピの飲みっぷりに、また驚きの声が上がった。田舎の老人の話に耳を傾け、適当に相槌をうち、それでも完全に気持ちを掴んでいく。ノッピの手並みのよさに周吾もあっけに取られた。ノッピの父は地方文化研究者だから、田舎の人にも慣れている。誰かと話しこんでいるようだ。
 「あんた、別嬪さんじゃけんど、気さくじゃな、そいで先生ちな、周坊はまあいい嫁さんをもろうたもんじゃな。もう大分に行かんと、ここで開業せんな。病院はお父さんが建てちくるるで」
「まあ、ひぃったまげたもんなあ。こげな別嬪さんがこげんところにおっち、お医者さんじゃあちなあ、まあ周坊はたいしたもんじゃ、うまいとこやったもんじゃなあ」
 「ほれえ、みちみいな、うちんじいさんは、普段は腰も曲っち、背中も曲っちおるくせして、信枝さんが前に来たら、ぴんとしちょるが、あれでんちいいたあ、若こうなりてえんじゃろうか。もう間に合わんがなあえ」
 「日頃考えもしちょらんことが突然起こる。周坊があげん嫁さんを連れち来るなんち、考えもできんことじゃ。世の中何が起こるか、わからんちゅうが、ほんとうじゃな」
 ノッピが行くところはすっかり人だかりが出来、笑い声が沸き起こっていた。周吾の父母も座を回って挨拶をしていた。周吾はノッピの父のところにいて、地元の史跡や歴史など話から、万丈の街が国木田独歩にゆかりがあることや矢野龍渓も出身であることなど話していた。宴会は長々続いたがすっかり日が暮れて収束した。最初に周吾が挨拶した以外に何もなし。飲んで騒いでおしまい。公民館の後片付けを近所の人たちに手伝ってもらって終らせ、周吾の実家に、ノッピのご両親を連れて帰ったのが六時過ぎていた。ノッピのご両親は周吾の実家に泊まってもらい、明日周吾とノッピが送っていくことにしていた。
 親との柵の問題が解決した。
 空港にノッピの父母を送っていった帰り、車の中で周吾は田舎の披露宴が無事に終ったこと、父母が喜んでいたことをノッピに感謝した。ノッピは、それは当然のことだ。親達はあの時代にあの仲間たちと苦難をともに生きてきた。私達はその人たちに育てられて、いま平和ぼけして暮らしていける。親達のいま一番の楽しみは何?息子や娘の晴れ姿を、ともに苦労して来た仲間と共有して喜びたいことだわ。私達があのくらいの披露宴に出ることくらい当然よ。そのくらい感謝しないといけないと思う。それにもう夫婦だから、夫の親は私の親なの。喜んでもらえて嬉しい。
 周吾はノッピの着物姿を見るのは初めてだった。最初ノッピを見た時のセイコちゃんからは創造も出来ないほど淑やかに見えてとてもきれいだった。あの着物は母の形見で、普通の結婚式なら白無垢、色内掛けを着るが、そこまで堅苦しくするのもおかしいし、訪問着なんて着る機会がなかったから、着られて良かった。母にも見せられたような気がする。ノッピはそう言った。
 課題がひとつ解決すると、次の課題も早く片付けてしまいたくなる。周吾やノッピの勤務先、友人関係をどうするか。二人は車の中で話しあった。周吾は、
 「極々親しい友達だけ誘い会費制にして、みんな泊り込みで楽しんだらどうかな。普通の披露宴やって二次会に繰出したら結構お金かかるし、一箇所に泊まってゆっくりした方が、同じお金使うならいいのではないかな。由布院に一戸建ての宿があって、宴会もできるし、戸建ての中にもキッチンがあって、食材を持込んで自炊もできる。車で集まれるし、時間だって適当でいいし。平服で、何日の夕方集合でいい。どうだろう?」
 「アオ、それ賛成。私ね、せいぜい五人くらいかな。呼びたい人。大学の友達に今の病院の友達くらい。どうせ披露宴やるとなったら、一人二万円も持っていかないといけないでしょ。それに女は着る物だっているし。平装で宴会やって温泉入って泊まって騒いで、翌日車で帰れたら最高だわ。安く上がって思い出にもなるわ。それに、アオの友達と、私の友達と、交流にもなる」
 会社の同僚の結婚式に呼ばれると出ない訳にいかないけど、本音は出たくない時もある。毎回最低二万はかかるし、それが転勤で次いつ会えるのかわからないのもいる。塩見みたいに、また会いたいと思っているのもいるし、今まで結婚式には出たが、そのあと付き合いもないのもいっぱいいる。呼ぶほうも呼ばれるほうも、それはおかしい。僕も五人くらいだよ。一生付き合いたいと思えるのは。ノッピは早速手帳を見ながら、十一月三日は金曜日で文化の日、次は土曜日。三連休の前二日借りてやるのはどう?十一月三日夕方集合、夜泊まり、四日ゆっくり帰ってもらえばいいわ。これで決まり。
 二人は参加者の決定から、宿泊の予約、宴会の内容など、暇を見つけては細かい打合せを行なった。参加者は周吾もノッピも結局四名ずつになった。周吾は永沢清蔵を呼ぼうと思ったが、彼は離婚後小さい子供二人抱え、父親が入院中で手が離せないだろうと思って声をかけないことにした。それに永沢清蔵は高校からの友人だが、他の人は医薬品業界の人間だ。話題に一人だけついていけない思いもあった。ノッピも同じだった。高校からの親友だが、今札幌に行っているという。ちょっと遠いわね。それにアオと一緒で、今の仕事の仲間とは異質だし。かわいそうだわ。だから、結局二人とも、今の仕事を中心にした交友に絞ることになった。知らない世界ではなし、お互いにいいのではないか。
 周吾が呼んだのは会社の同僚では薬師寺尚哉一人。塩見太郎は沖縄にいたいさあ、だろうし、黒田浩太は本社に行ってから交流が途絶えていた。あとの三人はメーカーの営業だった。
 大日製薬の今村裕史、彼は周吾を師匠と呼んで慕ってくれていた。結婚式には必ず呼んでくれとしつこく頼まれてもいた。あと協和製薬の梅木康治、彼とはとにかく会話が途切れない。飲みに行ったら終らない。仕事の話ではなく、全く関係ない話で盛り上る。星の話。魚の話。東京農工大卒業の研究者肌の人間がどう間違ったか、研究室ではなく営業に回されてしまった。人事の間違いか、彼の性格か。それが成功している。とにかくにこやかでしつこいが、いやらしくない。人懐っこい。楽しくなる。酒屋の息子で酒が強い。四人兄弟の一番下。上の兄は大学の工学部の先生、医者、通産省の役人とみんな優れ者だった。酒屋を継いだら飲んで潰してしまいそうだから、酒の元を造っている会社に入った、そんな冗談を言った。盆や正月にビールをケースごと運ぶのが大変だったのと、今酒屋も大手のショッピングセンターに押されて先行きが不透明であったし、親も自分の代で廃業を考えている。兄弟の中でも、長崎の実家に一番近い福岡に住んでいるので、嫁に小言を言われながらも、時々帰って、親孝行でビール箱を抱えているのだ。まさか、四人も男がいる中で、一番下の自分がビール箱を運ぶなんて考えもしなかった。何がどうなるかわからないよ。梅ちゃんはそう言っていた。
 最後は宮崎で一緒だったキョーシン製薬の和田昇だ。四月の転勤で大分県担当になった。三年前、周吾が転勤で万丈に行く時は、二人でお別れ会をやった。和田昇の次の転勤はまず間違いなく九州以外になるはずだった。それが突然隣県になった。京町薬品が合併してキョーヤクになり、キョーヤクの本社所在地の大分とも、キョーシンが取引を開始したため、急遽京町の兄弟会社の宮崎にいて、内実に詳しい和田昇を関西に行かせる予定をやめて大分担当にしたのだ。また一緒に仕事ができると、二人で喜んだ。人生何が起きるか、わかりません。和田昇は、万丈に突然やって来た時にそう言った。周吾も、考えもしないことが突然起きる、と思った。
 彼はとにかく真面目で、正確な日程で訪問をする。面白い話をしたり冗談を言ったりするわけでもなく、メーカーの医薬情報担当者としての仕事を几帳面にこなしていく人である。周吾が彼を好きだったのは、仕事ぶりに裏表がないこと、人間が朴訥で穏やかであったことである。和田昇とは仕事以外のこともよく話すようになっていた。延岡に和田昇が泊まる時は、寮の周吾の部屋に上がり弁当の晩飯を食べ、時々二人で飲みに出た。静かに穏やかにそれでも途切れず話が続いた。
 ノッピの友達は医大の同級生。榎裕子は歳生会病院眼科。同じく後藤倫子は別府山手病院循環器科。太陽会病院の同僚で千葉陽子は消化器科。小野智美は薬剤師。
 当日周吾とノッピは朝から出かけた。食材の買出しなど準備があった。
 由布院の宿は広大な敷地の中に大きな古民家を移設して内装を作り変えたものだ。こういう大小の家が十棟以上あった。二人が予約した家は、ツインの洋室が三部屋、八畳の和室が一部屋、六畳の和室が一部屋あり、キッチンに、リビング、また大きないろりがある板敷の居間があった。家の中にも温泉が引き込まれた内風呂があった。施設の本館前には広大な露天風呂がいくつもあり、本館では食事も出来た。施設内には食器類が二十名分は揃っているので、お客は食材だけもって行けばいい。
 ノッピは料理を作ろう。宿からは由布院の地鶏と由布院牛を仕入れ、お米や椎茸などは周吾の実家のものを持込み、なるべく手料理でもてなそうと言った。刺身もその場で作り、メインは寄せ鍋。ノッピの鍋は絶品だった。だしがどうしたらこんないい味になるのか、周吾はさっぱりわからないが、周吾の一番好きなノッピの手料理だ。鍋ができるまで、由布院牛を焼き、地鶏を焼こう。酒も全部持込みにして、好きな銘柄を選ぼう。招待客にも持参歓迎と言ってある。
 魚、野菜、酒など買いこみ、途中昼食をとって由布院に着いたのが二時頃だった。食材などを運び込んだら二人で部屋割りを決めた。蒼井夫婦は洋室のダブル。
 「ノッピ、きょうは我慢しよう」
 「何を?」
 「セックス」
 「どうして?」
 「声が施設全体に聞こえるかも」
 「いやあ」
 周吾は恥じらいすねるノッピがたまらない。抱きしめてキスをする。
 「ねえアオ、私って、そんなに声大きいの?」
 「大きい」
 「うそ」
 「ほんと」
 「だっていいんだもん」
 「ぼくも。ノッピはもうとってもいい」
 残りの部屋割りを決め、ノッピは野菜を洗って下拵えを始め、周吾は炭を起こし鉄瓶に湯を沸かした。本館に由布院牛と地鶏、それにたれ等仕入れて戻ると、ノッピもほとんど下拵えは終っていた。まだ四時前だった。本館に行った時に露天風呂を見たら誰もいない。露天風呂は今なら混浴だった。周吾はノッピを誘って露天風呂に入った。少し寒かったが、空はまだ明るく青い空が見えている。コバルトブルーの温泉にゆったりつかって、周吾は女神様と一緒にいる。女神様の薄いピンクの透き通った肌がすぐ隣に並んでいる。尻を底につけると頭も湯に沈む。中腰にしないといけないくらいの深さがある。温泉は白濁して残念ながら形のよいノッピの胸も見えない。
 周吾の女神様は中腰で佇んでいる。
 周吾は晩秋の空を見上げる隣の女神様を見つめている。
 「青い空に雲。私大好き。雲って、何もないところに出来て、くっついたり離れたりして、いつか消えていく」
 「ノッピは雲の上の人。僕はあの空になりたい。ノッピがいつだって自由でいられるように。でも僕はいつだってノッピを抱きしめていられるように」
 周吾は明るいところでノッピの裸を初めて見て、美しい、観音様より神々しい、と思った。この優しい、豊かで柔らかく美しい愛しい人を何としても離したくないと思った。
 

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