家族のこと

 最盛期私の家には十二人いた。曾祖父母、祖父母、父母、伯母、姉、私、弟、妹、弟である。このうち姉と妹、一番下の弟は障害児で寝たきりの被介護者だった。
 曾祖父は、体は小さかったが財テクに成功した。我が家の最も隆盛したのは曽祖父が現役の頃で、以降は衰退するばかりだ。酒は飲まず刺身が好物で、冷蔵庫もない時代でも、一度に食べてしまうのはもったいない、何日かに分けて食べる変わり者だった。役場に勤めていたが、出勤前後に野良仕事をしたらしい。田んぼと山を増やした。町の土地を買う話があったが、米を作るか杉や檜を植えるしか念頭にないので買わなかった。先の先はさすがに読めなかったようだ。その当時は、家族以外に家で働く人が何人か一緒に住んでいたようで、蔵の二階に四畳半の畳の部屋があって、そこに寝る人もいたという。晩年の曽祖父は着物姿で、キセルに煙草を詰めて吸う姿が思い出される。頭はもう薄かったが坊主にして、卵形の顔立ちに形のいい頭だった。目が少したれて笑顔の似合う人だった。私が小学校に入学した年に、明治八年生まれ八六年の生涯を全うした。
私が覚えている曾祖母は、足が悪く正座ができなくなっていた。左の足を曲げられず伸ばしていた。歩くのはそれほど問題ではないが、畳の部屋で起居する時代だ。足を曲げられないのは辛かったと思う。今ならテーブルに椅子で楽に過ごせるのに、あの頃はそんなことを考えることもなかった。確か夫より一つか二つ年上だった。曽祖父が亡くなってから、晩酌に焼酎をコップに半分飲むようになった。美味しそうに焼酎をちびりと飲む顔はいつも笑顔で、「ありがたい、勿体ない」そういいながら晩酌を楽しんだ。当時の焼酎は二五度が普通で、三〇度もあった。今みたいに薄めて飲むなど、勿体ないことだった。八十過ぎて働けなくなると、いつも縁側に座って外を眺めた。我が家は集落の大きな道の前にあったが、家と道の間に井瀬と呼んだ用水路があって、家は石の渡し橋を超えて、石段を登るようになっていた。家の縁から道を見下ろすように眺めると、道を歩く人が良く見えた。曾祖母は、道行く人誰にでも、「お茶を飲んで行かんな」と声をかけた。知らない人が誘われてきて、それから薪に火を点け、湯を沸かすのだ。挨拶代わりに言うのか、真意なのかわからないが、人懐っこいにこやかな顔をいつもしていた。晩年は、お茶を出して色々話をしたのに、誰だったかわからないこともあったらしい。
 祖母は仰天することをした。一緒に歩いていると道端に止まって、「ちょっと待て」と言って、道の真ん中を向いて頭を下げたかと思うと、着物の裾を上げて小便を飛ばした。あっという間のことだ。お辞儀が終わると、また手を引いて歩き出すのだ。祖母は一生懸命になると、口が開く癖があった。野菜を刻むとか、針に糸を通すとか、そういう時は口が開き、舌が見えた。決して器用ではなかった。料理も上手ではなかった。一人娘で大事に育てられ、女学校を出て学校の先生をしていた。それも家庭科の先生だった。教え子だったお婆さんたちがよく寄って来たが、そんなに下手だと思わなかったと笑っていた。私は、お婆ちゃん子だった。一緒に寝てくれるのはお婆だけだった。私たちは、母屋とは別棟に二人で寝ていたが、蒲団に入る前によく飴とか持ってきた。飴を嘗めながら寝るなど、歯には良くないが、当時そんなことは知る由もない。孫には甘いお婆だった。育ちのよさか、祖母は誰からも好かれた。人がいいのだ。よく人のために出歩いていた。また祖母を慕って来る人が多かった。祖母は神様、仏様が好きな人だった。祖父は神頼みなど絶対にしない人なのに、祖母はすぐ神頼みをした。三竈江神社で、お百度参りも何度もした。毎朝仏前に膳を上げ、水を替えた。灯明をつけ線香を立て、経を唱えた。一日に何度も仏前に座る。夜、風呂から上がると必ずお参りをした。寝るときは別棟に行くのでまたお参りにいく。心配性だった。家族の誰かが出かけて、昼食事にいないと、必ずその人の湯飲みにお茶を少し入れた。泊まりで夜帰ってこないようなときは、ご飯に汁物を少しだけ注いで箸を添えておいた。帰りが遅いと、とにかく心配した。まさしく老婆心そのものだった。
 伯母は心臓が弱く、よく寝込んだ。生まれた家から出たのは大分の女学校にいたときだけだ。縁談の話もあったが、病弱な体が許さなかったようだ。薄幸な人だった。祖母の娘に似合わず手先が非常に器用だった。針仕事もミシンのような仕事をした。家が椎茸の栽培をしていたので、採ってきた椎茸を乾燥機に入れるとき、横六十㎝、縦百二十㎝位のエビラという網状の入れ物に襞を下向きにして並べる。大きいものは大きいもので、中型のものは中型のもので揃えて並べる。椎茸のことをなばといったので、なばひろげ、という作業をする。これが滅法早かった。その上均等に並べる手際のよさは群を抜いていた。伯母は椎茸を採りに山には行けないので、せめてなばひろげは手伝おうとするのだが、作業が終わるときつそうだった。椎茸は春と秋の最盛期に雨が降ったときなど、雨茸(あめこ)といって大量に収穫されることがある。雨水を含んで重いが、乾燥すると軽くなる。エビラで百枚を超えることもある。そんなとき、伯母の労働力は貴重だった。伯母は物知りで、子供の私にとってはありがたい存在だった。なぜか、ええばんと呼んでいたが、わからないことは、日中両親は日中ほとんど家にいなかったし、祖父が山を歩いていないときなど、ええばんに聞くのが手っ取り早かった。私は高校のとき、日本史が得意だったが、それは間違いなくええばんの影響だ。あっちの家に、歴史の一コマを絵に描いた本があって、それを見ては話を聞いた。源平合戦から、南北朝、応仁の乱や戦国時代のことなど、耳学問であった。あっちの家には祖父とええばんが寝ていたが、ときどき私はあっちに家に外泊した。どこか新鮮なようで面白かった。夏はこのあっちの家の風呂をたまに沸かして入った。母屋の風呂よりきれいで広かったので、大人の思惑など考えない子供は良くせがんだ。
 椎茸乾燥は、いまは乾燥機が自動でしてくれるようになったが、私が小さい頃は、薪を燃やして乾燥させた。薪は普通の薪ではない。直径が丼くらいの丸太で長さ一mほどある大きなものだ。これを何本もくべる。竈は半階の地下にあって、地下の竈のあるところは一畳半くらいの広さがあった。ここに当夜くべる分だけ薪を入れておいた。竈の鉄製の蓋を開けると、真っ赤に燃え盛る火が見え、怖い思いがした。二晩、三晩続けて燃やすから、乾燥室のある室(むろ)と呼んだ建物に父が泊り込んだ。母屋から下の道に出て直ぐだから、家とは目と鼻のさきの近くにあるが、夜ぐっすり寝るわけにはいかない。大きな薪をくべて火持ちを良くするが、それでも幅約二、七m、奥行き三、六m、高さ二、七mほどの部屋二つ分を乾燥させる二つの竈に、薪をくべ続けるのは大変な仕事だったはずだ。椎茸を乾燥させているときは、室のなかは冬でも暖かかった。雨が続いて学校の体操着などが乾かないときは、ここに持ってきて干した。人間が居続けると、咽喉が渇く。父は夏みかんを大量に持っていった。
 大家族だったのに冬は一つの炬燵にみんなが入った。三度の食事は炬燵のテーブルだ。本間サイズの半畳の炬燵だから、大きくとも知れている。曽祖父夫婦、祖父夫婦、父母、伯母、それに私と弟である。他の姉と妹と弟はいつも寝かされていた。それでも、みんなが食べる前に、祖母や伯母が手伝って食事を与えられた。テレビが来る前は、おおきな真空管製のラジオがあったが、山間の谷底みたいなところだから、いつも雑音が入っていたように思う。囲炉裏炬燵はかなり後になるまで、炭を入れて使われた。炭も父が山で焼いていた。深掘り炬燵ではなかったので、いつも足を曲げておかなければいけないのが難点だ。足の悪かった曾祖母は不便だったに違いない。そんなことまで子供の私は知る由もなかった。炬燵は五月連休が過ぎて、茶摘みが終わってからしまわれた。家の中にいて座ったままの老人は朝晩が冷えたし、茶の新芽が出る頃は、時々霜が降ることもあった。
 夏、炬燵が取り除かれて、囲炉裏に蓋がされ畳が敷かれると、炬燵のテーブルの倍以上ある大きなテーブルが置かれた。開放感のある風景に変わって嬉しかった。座卓の下に潜り走り回ったりした。

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