点描点心

 お茶の前後は田植えの準備がある。連休があっても全く関係なかった。この習慣が身についているのか、山が若葉に溢れ、ニュースでゴールデンウイークと伝えられるようになると、なぜか落ちつかなくなる。遊びに行く気分には全くなれない。
 梅雨が始まる前に大掃除が毎年行われた。母屋だけだったが、家中の畳を上げ、庭一面に筵をしいて日干しにする。畳と畳を上部で合わせて山形に立てるから、どこかがずれて倒れると将棋倒しになった。子供は年に一度のことで珍しく楽しいから、畳が干されている間を走り回ったりする。それで畳を倒して叱られた。畳をあげた後は板張りで、それも珍しくて駆け回った。中学生になると畳を運んだ。床下には薬をまいた。この大掃除は我が家だけではなかった。他所の家も同じようにした。おそらく決めてやったことだ。
 夏は自転車に乗ってアイスキャンディ売りがきた。これは楽しみだったが、一夏に数回しか来なかった。ぽっかんがよく来た。ポン菓子屋だ。穀類膨張機にLPガスの小さいボンベをリヤカーに乗せ、それを単車に引いてきた。米や玉蜀黍などを圧力釜に入れてガスで温め、釜の蓋をあけると、ぽっかんといって、玉蜀黍はポップコーンになって飛び出してくる。米もふっくら膨れておやつになった。これは子供だけでなくて大人も楽しみに待っていた。それぞれぽっかんして欲しいものを持ってくるのだ。
 盆は八月十四日の朝、墓に行く。墓の前で松明を燃やし線香をそれぞれ墓にあげ、さらに線香の束に火をつけ、帰るぞ、といって家に帰ってくる。家の玄関脇には松明が焚かれて迎え火になっている。もって帰った火のついたままの線香の束を仏前に立てる。先祖を盆の間連れ帰る風習だ。先祖様が帰ってくると、小さい高脚膳に小さい食器で盛られたご飯に汁物、煮物などの惣菜をのせてお供えをする。朝、昼、夜、家の者が食べるものをほんの少しだがお供えする。先祖様は一泊二日で墓に帰る。十五日の夕方に、仏前で線香の束に火をつけ、送り火を焚き墓に行く。墓では同じように松明に火をつけ、火のついた線香の束を分けて、それぞれ墓に立てる。迎えは早く、送りは遅く、といわれている。それでも、どこの家も同じ時刻になっていた。集落の共同墓地は二ヶ所あり、新しい墓地は山の中腹にあって、いまは車で行けるが、子供の頃は歩いて登った。三十分ほどかかった。古い墓地は裏山にあって、ここは五分くらいのところにあった。我が家は禅宗だが、随分古い昔に養子にきた人がいて、その人の実家が浄土真宗で、どうしても禅宗の墓には入りたくないというので、別のところに一つだけ墓があった。それが古い墓地と、新しい墓地を真っ直ぐ結んだ真ん中にあって、そのお陰で山の細い道を登ったり降ったりしなければならなかった。天気のいい日はいいが、雨の盆になると大変だった。他所の家は傘をさして行けるが、我が家はその一の墓のためにかっぱを着て行かなければならない。線香の火を消さないように、濡れた山道で滑らないようにしたが、それでもよく滑ってこけた。先祖も一緒にこけた。ぽつんと一つある墓から新しい墓地に降っていくところは急斜面になった杉山の中で、よく滑るので、子供はダンボールとか、厚手のビニール袋を持って尻に敷いて、橇にして滑る遊び場だった。
秩序だってあるものをめちゃめちゃにするのは面白い。それが喜ばれることなら格別だ。しかしそんなことは通常ありえない。しかし椎茸栽培ではあり得た。椎茸は秋深まって椚などの原木を切り倒す。切り倒した木はそのままにして乾燥させ、枝を落として長さを揃えて切る。一mくらいで切るところが多いようだが、我が家の一帯ではそれより長く切った。山が急斜面で短いと扱いにくかったのだと思う。翌春までに木に穴を開けて種駒を打ち込む。種駒を打ち込んだ木は、日当たりがよくて風通しがいい場所に組んで枝や葉っぱのある枝木を傘にしてかけ、直射が当たらないようにしておく。そうして更に翌年春か秋に、圃場に秩序立てて並べるのだ。交差する支点が上部の八から九割くらいのところになるようX型に原木を組んで、杉山などの直射があたらない、湿気がある場所においていく。原木が何百本も何千本も整列してあると、それなりに美しいものだ。組んだ木が倒れると、起こして戻しておかないと後で困る。それをめちゃめちゃにする仕事があった。しけ打ち、といった。立って組んであるのをわざと倒していくのだ。それも雨の中。ストレス解消にはいい仕事だ。雨の降る中、倒すことで原木は刺激を受ける。椎茸は刺激が欲しい。収穫したいときは、こういう荒業をした。中学生の頃だと思うが、雨の日にかっぱを着て山に連れて行かれた。椎茸の圃場に着くと、父に好き勝手に倒していい、そういわれた。右に左に倒して行く。倒しておいて雨に打たせ、何日かしたら、また起こして組んでいく。これはまた大変な作業だが、それで不思議と椎茸がでたのだった。
 秋になると、稲の穂が垂れ黄金色に三角州が染まって行く。彼岸花が赤い花を揺らしている。彼岸花の地下球根は毒があるそうだ。もぐらやねずみなどが田んぼの畦の中に入らないよう先人が植えたのだ。
 小学校の低学年の頃には、稲刈り休みがあった。児童の家は殆ど稲作をしていたから、小学校も高学年や中学生は戦力になった。私が、稲刈りができるようになったときには、もう稲刈り休みはなかったが、学校が休みの日は専用の鎌が与えられ、稲刈りをさせられた。当時はコンバインなどないから、稲刈りは手で稲を持ち鎌で刈っていく。刈りながら稲を五束から六束を片手に束ねた。刈った稲は揃えて置いていく。後から稲藁でまとめて括っていく。それを木にかけて天日干しにした。稲は晩生の品種だったから、稲刈りの頃は、空がくっきりと青かった。天高く馬肥ゆる秋だ。夕方になると風も冷たくなった。稲刈りが終わると、田んぼは解放され、子供の遊び場が広くなった。
 家の庭に柿の木が数本あった。中学生になると、家に帰りつく頃にはお腹が空いて、食べ物が欲しくなる。いまのようなおやつなどなかった。薩摩芋を蒸かしたのがあればいいほうで、何もないことが多かった。秋になると柿がなった。私は柿が好物だ。最初に食べられるのは御所柿で、日当たりの良いところにあるのは良く熟れて甘いが、外見だけ美しいのを取ると、意外に渋かったりした。井戸の近くに富有柿があった。甘くて大きくて一番好きな柿だ。これを二つ三つ食べると満足した。あっちの家の前には次郎柿があった。裏山に行けば筆柿があり、小ぶりだが、真っ黒に見えるほどごまがあって甘かった。いくつでも食べられた。室の前には釣鐘状の大きい百目柿があり、良く熟れていないのは渋かったが、ごまが多いのは甘く、二つも食べるとお腹いっぱいになった。干し柿はさらに好物だった。白い粉がふいた硬いのが好きだ。柿皮を剥いて紐に二つ結び、日当たりのいい蔵の壁に竹竿をかけて段違いに吊るした。お腹が空いて、白い蔵壁に赤黒くなった干し柿が見えると、我慢ができず取って食べた。出来上がって全部取り入れる頃には、所々に隙間ができた。
 佐伯の町まで凸凹道を一時間もかかって行ったのが、いまは三十分もかからなくなった。家の前から見える山は変わらないが、田んぼは一変した。区画整理がされ、田んぼは大きく、堂の間津留も平坦になって、石積がなくなった。通学路にあった氷柱のできるところも、道が大きくなり跡形もなくなった。三竃江橋も新しくなり、家の前にある旧道の向こうにセンターラインのある新しい道ができた。大きなエンジン音を響かせてバイクの集団が走るようになった。住人の数は半減し、学校は建物もなくなり、数人の子供はスクールバスに拾われていく。路線バスはただ走るのが目的になり、運転手一人だけの大きい車両が、日に数度定時になると姿を見せるようになった。
 猪や鹿の被害を防ぐために裏山には高いフェンスが作られ、集落を山から区切った。それでも猿には役立たない。猟友会は老人クラブと変わらないようになり、猪対策に檻の罠が勧められている。子供が外で遊ぶ声に変わって、車やバイクの音が時おり聞こえ、市の防災情報網を使って流れてくる訃報連絡が良く響くようになった。

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