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青の彷徨  前編 22

 一連の結婚以来の諸行事が終って、周吾もノッピも通常の仕事に戻り、今日はメーカーの会議後の飲み会で、寮に残ることになった周吾は、遅くなってノッピに電話した。
 「どう、変わりない?」
 「変わりないわ。明日は戻れるの?」
 「明日もメーカーの会議で夜、飲み会がある。明後日金曜日しか戻れない」
 「そう、仕方ないわね。今度の土日は休めるの」
 「大丈夫だよ。完全休日」
 「ねえ、どこか行こうか」
 「いいよ。秋深し、二人はどこへ、行く人ぞ、だね」
 「ねえ、また国東回らない?」
 「いいね、そうしよう」
 「そうアオさ、ニュースがあるの、小野智美ちゃん、知っているでしょ?由布院に来てくれた子」
 「薬剤師の人でしょ」
 「そう、彼女ね、アオの弟子とお付合い始めているのよ」
 「え、まだ何日も経っていないのに」
 「そう、あの次の日にもうデートしているの。弟子も凄いね」
 「ノッピその弟子は止めてよ。彼が勝手に師匠って言うだけだよ。でもさ、彼は梅ちゃんと一緒に福岡から来たんだ。あれから福岡に帰って、トンボ帰りで戻って来たのかな。どっちにしても、その次の、次の日は仕事だから、福岡に戻らないといけないはずだよ。凄いね。好きになると何でもないんだ。なんかわかる気もする」
 「まあ、でもいいカップルよ。いい具合に進むといいわ」
 週末の金曜日、早めに仕事を切上げて大分に帰ろうと思っていた周吾に訃報が入った。中根先生が今日午後四時過ぎ入院先の医大病院で亡くなった。明日万丈葬祭で通夜、明後日葬儀。
 周吾は大分へ帰る車の中でショパンの葬送を聞いた。涙があふれて途中何度も車を止めた。白衣を引っ掛け煙草を旨そうに吸いながら、莞爾として微笑むあの姿にはもう会えないのか。本の話、絵の話。海の話。尽きない話はたくさんあるのに、その時間は戻ってこない。
 周吾がノッピの元に帰りつく、
 「ただいま」
 「お帰り、どうしたの?顔へんよ」
 「ノッピ、中根先生が亡くなった。明日明後日は通夜と葬儀になった。六郷満山は延期だ」
 「そう、それは仕方ないわ。それで泣いて帰って来たのね」
 翌日周吾は昼前に万丈に着いた。中根先生の自宅に行く。奥様が出て着てくれた。周吾はお悔やみをのべた後、仏前にお参りをさせてもらう。通夜、葬儀について、人でのかかること、雑事一切引受けます、何なりと申し付けてくれるようお願いした。奥様の方からは、医師会関係の受付を依頼された。親戚関係は永沢清蔵がするそうだ。清蔵は友達ですから、仲良くやります。その他、弔電披露の順次、御花の順次などメモして引き上げた。会社には支店長、両営業課長、営業関係社員全員が待機して、周吾の来るのを待っていた。受付の人選、駐車場案内の人選、御花の順次など、細かい打合せをして、キョーヤク万丈支店あげての会葬行事が始まった。昨日訃報が入り次第、関係メーカーには弔電の依頼、会葬参列の案内など、卸としての義務は完了していた。夕方早めに葬祭場へ行き、事前の準備に取り掛かる。そうしている時に、永沢清蔵が来た。
 「周吾、さっき雅子さんに聞いた。お前が受付やってくれるんだって?」
 「そうだ。医師会関係は僕がやる。親戚は清蔵がするんだろう。よろしく頼む」
 「ああ、それはいいけど、駐車場の案内とか、御花の」
 「聞いたよ。もう手配している。うちの社員が待機している。心配ない」
 「そうか。周吾が一緒でよかった」
 「清蔵は見舞いに行けたのか」
 「いや、行ってない。会えないって、言われていた。声も出せないし。問いかけには聞こえるが返事が出来ない。惨めにみえるから、なんだろう。雅子さんが行くな、って」
 「そうか、お前も会えないなら、仕方なかった」
 「周吾、お前結婚したんだって」
 「そうだ。清蔵に来てもらおうと思ったが、入籍したものの単身赴任で、田舎は何もしないでおくと面倒なんで、田舎だけ披露宴を簡単にすました。だから結婚式自体はしてない。清蔵は子供抱えて大変だから、もしやっても呼ぶと悪いかな、とか思っていた」
 「そうか、でも親父は落ちついて来たし、再婚することにしたよ」
 「え、そうか。よかったな。子供も安心だろう。血が繋がっていても、父親はあまり役立たずだし、母親は必要だよ」
 「子供が懐いてくれて、それで決まった」
 「式はいつ」
 「もう極小さく身内だけで来月する」
 「そうか。おめでとう。こんなところで言うのも変だけど」
 「ああ、ありがとう。これでやっと落ち着けるか、と思う」
 訃報の最中に朗報もある。茶飯事とはこんなことか、周吾はそう思った。
 通夜、本葬、火葬場と中根先生の奥さんの雅子さんを見た。喪服姿の未亡人は清々しく美しかった。
 「蒼井さん、あなたうちを潰す気ですか」
 そう言われたことを反射的に思い出す。ほんとうに自分に原因がなかったのか。何か中根先生の死を早める後押しをしていたのではないか。
 通夜、葬儀とも滞りなく終り、周吾は火葬場を後にするまで付き添った。万丈の医師会はほとんど全員参列していた。森山先生も野崎先生も涙を流していた。キョーヤク薬品からは、京町健太郎社長、藤村営業部長に加え、周吾の前任者も数名参列していた。メーカーも多数参加し、取引高以上にその早過ぎる死が惜しまれた。
 翌週末の金曜日いつものように楽しく食事をして入浴も済ませた。水曜、木曜と戻って来られなかったのでノッピが余計に恋しかった。二人でベッドに行き、いつものようにキスをする。しばらくするとノッピが、
 「アオきょうはだめなの」
 「だめ?」
 「私生理なの」
 「え、だって薬は」
 「止めたの。欲しいもん。アオの赤ちゃん。だからピル止めた。そしたらね、昨日始まった」
 「そうか、そう」
 「ごめんね」
 「ノッピが謝ることじゃないよ」
 「アオは赤ちゃん欲しくはないの?」
 「それは欲しいよ。でも怖いんだ。僕は子供の時、姉と兄がいたのを話したことあるよね」
 「聞いた。でもそれはもう時代が違うの。心配することないわ」
 「ノッピが言うなら大丈夫だ。じゃあ、がんばるか」
 「よかった」
 周吾にはノッピとは別の問題がまだ残っていた。意欲満々の問題児があった。抱き合って寝ようとしているうちに、問題児がノッピにぶつかる。ノッピが周吾を見て笑った。
 「元気のままね」
 そういって、周吾の問題児を手にして弄り始めた。周吾はノッピの手に触れるだけで夢の世界に行くようだった。ノッピの手によって、ノッピの口によって、周吾は夢の中で頂点に到達した。ノッピは、
 「パパも息子もお休みよ」
 「ノッピ愛している」
 周吾はノッピを手枕で抱えて寝る。いつものことだ。ノッピのいい香りがする。周吾はこの幸せが不似合いではないよな、そう思いこもうとした。
 国東を回る。熊野の磨崖仏へ二人して、荒い息をつきながら登る。車を降りて三百メートルは登った頃、大きな磨崖仏が現れる。不動明王にしては何とも優しそうなお顔だ。
 「アオこのお方、かわいいでしょ。普通不動様は怖いお顔しているのにね」
 「でもやはり凄い。この岩を掘ったんだから。毎日毎日下のお寺からここまで登ってきて彫ったのか。それとも上の神社から下って彫ったか。彫ってまた登って行ったか。木で櫓を組んで岩にむかっていったんだよ。下の石の階段も、鬼が一晩で組上げたって言うけど、こんな明王が出来れば、下の石の階段も自然と出来てしまいそうだ」
 「平安の終りにできたけど、なぜこの地にできたか、不思議と思わない?」
 「そう奈良みたいに人口が多くて財力も集まっていれば、仏像が出来たり、お寺が出来たりするのもわかるけど、これ八メートルはあるよね。宇佐神宮の影響が大きいといっても、これは、大仏とは作られ方が違う。そんなに大勢の人はいらない。腕のある人がいればいい。その分執念みたいな、明王様をこの地で建てることによって、見返りが欲しかったんだ」
 「見返り?」
 「そう、聖武天皇や光明皇后が大仏に執念をかけたように、平安の終りごろも戦乱や疫病で疲弊していたから、救いが欲しかったと思う。人間どうしても、何をしてもどうにもならないと、神や仏に縋りたくなる。お百度参りとか、お茶絶ちとか、自分に苦役を与えても望みを叶えてもらうとする。石を彫る苦役をして不動明王を彫る。出来あがった暁にはこの地に平安の暮らしをお授け下さい。多分そんな強いリーダーが彫った、と思う」
 「アオなるほどだわ。不動明王は人々を苦難から救うのよ。助けてくれると思って造ったんだわ。だから食べ物に困らないくらいふっくらされている。優しいお顔もそのせいよ」
 「ノッピ僕はどんな苦役をもらってもノッピを守りたい。こんな幸せのままでいいのかって思う。おかしいかな」
 「アオ私はおかしいとは思わない。私はアオに出会うまで、苦役を受けて来たと、思っている。だからアオという幸せを今手にしている。当然だと思う」
 「でもノッピ、僕はノッピに会うまで、少しは寂しい思いはしたけど、そんな苦役みたいなのなかったと思う。これからだろうか」
 「アオ、そんな心配することなんかない。アオが気づかないだけで、毎日毎日一つずつ積み重ねて来ているのよ。それが大事だと思う。それはアオのお母さんみたいにあれほど苦労された方もいるけど、お母さんはお母さんよ。時代が違うと思う。それにお母さんがあれだけ苦労されたんだから、アオは幸せになれるとも思うわ」
 熊野磨崖仏から胎蔵寺、極楽寺、鍋山石仏、富貴寺と回る。紅葉の階段を登っていくと形のいい瓦屋根が見え、風格ある大堂が全容を現す。惜しいのは大堂の全容を写真に収めようとすると、正面手前の木々が大きく枝を伸ばして姿のいい屋根を隠すのだ。もう少し切れないものか。周吾はそう思う。
 「ここは絶対今の時期に来るべきだわ。紅葉が映えてとってもいい」
 「若葉の頃もいいけど、今が最高だ」
 「それにしても平安時代の建物でしょ。よく残ったわね」
 「形がいいし、丈夫だったんだね。大分にさ、大友宗麟って言うキリシタン大名がいた」
 「大分駅の前に偉そうに立っている人でしょ」
 「そう、西洋文化を積極的に取り入れて、随分いいこともしている。アルメイダ先生が西洋の外科手術を最初にやったのは大分らしいし、音楽とか色んな功績もあったのだけど、キリスト教は排他的でしょ。このあたりの神社仏閣も徹底して破壊したようなんだ」
 「へえ、そう。知らなかった。もしかしたら」
 「今比叡山や高野山には、仏閣建築が多数あるけど、昔ここにもたくさんの建築物があった筈なんだ。馬城山伝乗寺だったと思う。朝廷免除の荘園を持っていて、その財力で寺院が経営されていたから、全国から仏教を学ぶ修行僧が多数集っていた。今の大学みたいな機能だったのかな。そんな大学みたいなお寺が、ここだけじゃなくて千燈寺や高山寺やらこの国東に多数あった。大友宗麟は、秀吉の太閤検地と重なるかどうか、よくわからないけど、神社仏閣の荘園を欲しくて焼き討ちをかけたのだ。富貴寺が残ったのは、このくらい残しても体制に影響に与えないからだったと思う。仏像だって、おそらくもっとたくさんあったはず。真っ先に、仏教の魂みたいな仏像は破壊されたと思う。石仏は破壊できなかったのだと思う。それに宗麟が島津に攻められ、仏教排斥どころじゃなくなった。宗麟が死んだら豊後のキリスト教も終り。どっちがいのかね。もしかしたら、六郷満山のこれだけの寺院群で、木造や阿修羅像みたいに、脱活乾燥造り、みたいな手法で作られた仏像があってもおかしくないし、むしろいっぱい有ったと思う。石仏作るより楽でしょ。宗麟に反対する人が必死に守ったのが多分ここだと思う」
 二人は秋の国東をゆっくり回って六郷満山の一部を堪能した。ノッピは
 「また来よう。今度は今日行けなかったところに行こう。あと何回来れば全部行けるかな。巡礼コースで三三、今日は六つ、アオともう行ったところを除いて、あと四回は来ないとね」
 キョーヤク万丈支店では岩下病院の問題が浮上していた。患者が激減したこと。資金売りが逼迫しているらしいことである。入院患者は退院できる人は退院させ、それでも出来ない人は転院させ、外来だけにして、従業員を削減し、院長一人で外来を診るようになった。医大からの派遣は十月までで終了した。ノッピの後任もいなくなった。それでも患者は増えず経営困難に陥った。岩下吉樹院長は年内で病院の閉鎖を決め、売りに出した。自分は大分の母の所から、大分市内の病院の勤務医になるそうだ。この話をノッピにすると、経営意欲がないのだから、それがいいのかも知れない、そう言った。
 師走も過ぎていく。周吾は万丈の全部の忘年会が終った最後の金曜日、早めに仕事を切上げて七時半までにはノッピの元に帰る。今日はノッピと外で食事をするのだ。二人だけではない。梅木康治が一緒だ。それに小野智美さんも一緒。発端は協和製薬の梅木康治が来年一月から太陽会病院も担当することになり、引継ぎでノッピのところにも行ったという。それももう今月三回も。忘年会をしよう。蒼井先生ご夫婦で、としつこい。周吾のところにも、万丈にくれば必ず言ってくる。周吾はもう連日の忘年会で開放されたいくらいだ。と言っても、いや内輪のことで、ノッピ先生も一緒に是非、是非と来る。仕方ないからノッピに話をすると、ノッピのところにもうるさく来て、アオに聞こうと思っていた。と言う。小野智美にも声をかけ、小野智美は信枝先生が行くなら是非行きたい。と言うことになっていた。ノッピもそれじゃ四人で忘年会しようか、となった。
 約束の八時に間に合って周吾とノッピが指定された場所に行くと、
 「師匠冷たいじゃないですか?何で僕に声をかけてくれないんですか」
 何と今村裕史と小野智美がいるではないか。
 「今村さんどうしたの?」
 周吾が聞く。
 「どうもこうもないですよ。みんなで忘年会やるっていうのに、僕に声かけてくれないの、ひどいじゃないですか」
 「そんなんじゃない。これは元々協和の梅ちゃんが太陽会の担当になって、来年から、なんだけど、それでノッピを忘年会名目で誘ったんだ。ついでに小野さんも僕も、ということ。で誰から聞いたの?」
 「小野さんです。それで僕は梅木さんに電話して入れてくれって頼んだんです。いいよって。簡単です」
 「ところでその元凶はまだみたいね」
 ノッピが言う。
 「まあいいけど、ということはもしかして二人は、もう出来ちゃった?」
 「アオそうなのよ。おめでたか、どうかは知らないけど順調みたいね。ね、智ちゃん」
 「はい、すみません」
 「そうか、今村君も仕事以上に順調でよかったね」
 「師匠その仕事以上って止めてくださいよ。仕事も順調です。万丈で講演会やってもらったでしょ。一月に。あれから凄く順調です。師匠があの講演会に入れてくれたおかげでほんとうに良かったです」
 「そうなんです、彼、凄く喜んでいます。同期入社の中では売上トップ。新製品だけでは全社トップですって。師匠がいいからだって」
 「よしてくれよ。僕のせいじゃないよ。今村君自身の問題だよ」
 そんな時、
 「すみません。言いだしっぺが遅れてすみません。お待たせしました。どうもどうも、今日はありがとうございます。さあさあ、始めましょう。頂きます」
 すっかり梅ちゃんのペースになった。
 「蒼井先生、もう聞かれたか知りませんけど、今村君が来ました。僕もびっくりしたんですが、そういうことならいいかな、ということで・・」
 「いいじゃない。梅木さんだけお一人で悪いわね」
 ノッピが言う。
 「あはは、そうです。そういうこと。うちは黒なすび二つかかえて大変。若いのはいいです。いえちょっと若かった人もいいですね。カップルに鮮度がピリピリしています」
 「梅ちゃん、うちはちょっと若かったカップルか、それは今村君と小野さんに比べたら年食っているけど、鮮度は全然落ちないよ」
 「蒼井さんって、ほんと素直でいいですね。信枝先生もそうなんですよ。ご主人と飽きたりしませんか、って聞いてもね。全然ですって。毎日毎日楽しくてほんとうに幸せなの、っていうんですよ。素直なんです先生も」
 小野智美が言う。
 「それ全くお惚気じゃないですか、いまだに新婚生活やっているんですか」
 と梅木康治。
 「おかしいか?」
 周吾が聞く。
 「おかしい。普通二ヶ月もしたらマンネリ化するでしょ」
 「梅木さん、私はね、絶対アオは変らないと思うわ」
 ノッピが言う。
 「ぼくもそうだよ」
 周吾が言う。
 「おかしい。アンビリーバブルです」
 「でも梅ちゃん。それでも黒なすび二つできるから、それなりにいいんでしょ」
 「師匠もノッピ先生も多分ほんとうに楽しいと思いますよ。食べるものも、遊ぶにしても気が合うと思います。それにお二人とも恥かしがらずに、平気で言いますよ。家の中でもそうでしょ?」
 今村裕史が言う。
 「あら、よくわかるわね、毎日そうなの」
 ノッピだ。
 「師匠もそういうところでほんとうに素直ですよね」
 「僕はいつだって、ノッピが愛しい。何していても美しいと思うし、かわいいと思う。全然変らない。いつもノッピに感激している。ほんとうに幸せだよ。何も隠す必要もないし、嘘を言っているのでもない。夫婦に成れたから遠慮せずに言えるから嬉しいくらいだ」
 「ああ、寒い年末が暑い年末になったよ。でもそれって、大事だよな。気取らず平気で相手の好いことを言っている間は、絶対大丈夫だよね。要は好きになるのが大事なんだ」
 梅ちゃんがつぶやく。
 「それはそうと、後藤倫子先生のお相手が決まりそうですよ」
 梅ちゃんがニュースを出した。
 「え、梅木さん、なぜ知っているの?」
 「僕は別府山手病院にも行っていますけど、後藤倫子先生から聞いたんじゃないです。後藤先生には、由布院以来何度も行って、仕事も順調です。でも僕の宮崎の同僚から電話があって、宮崎医大の第二外科の先生が来年三月で宮崎医大を辞めて、高鍋の後藤病院に行く。お見合いしてとっても気に入ったので婚約した。その相手は高鍋後藤病院の一人娘の後藤倫子先生で、今別府山手病院にいる。お前知っているか、って。ぼくはよく知っているよ。この間も由布院に一緒に泊まった、っていうとね。お前、何してんだ、だって。いや結婚の披露宴で一緒だった。二人だけじゃない、って言ったけど。わかってくれたかな。その後藤倫子先生のお相手は坂田謙司先生と言っていました。さっき電話があって、それで少し遅れたんです」
 「そう、帰ったら電話しよう。良かったわ」
 ノッピが言った。
 良いことも悪いことも突然やってくる。良いことなら、どんなに突然でもいい。周吾はそう思った。ノッピは友人の朗報に気を良くしたか、珍しく二次会の誘いも断らずに行った。話も進んだが、歌を歌おうと梅木康治が声をあげてシャンソンを歌い始めた。顔に似合わずいい歌を歌う。周吾もみんなも聞き入っていた。今村裕史と小野智美は二人で歌い、周吾もノッピ先生もどうですか?周吾は歌が下手なので、ノッピがアオの分も一緒に歌うと言って、セイコちゃんをやった。店中の人から大喝采を浴びた。梅ちゃんも今村裕史も小野智美さんも口を開けたまま手も叩けないでいる。
 「ノッピ久しぶりだね。もう丸一年以上やってなかったよね」
 「ああ、ほんと、もう疲れるわ」
 「信枝先生凄いです」
 小野智美が言った。
 「そう、もし僕が失業して、ノッピが医者辞めたら、僕はノッピの付き人になって、全国回るよ。やっていけるでしょ」
 「師匠やっていけます。凄い歌唱力、表現力プロです」
 ノッピはその一曲だけでいくら薦められても歌わなかった。随分ノッピも変った。周吾が見たいと思っていたノッピが、いつも見られるようになった。あの万丈で最初に見た輝かしさは今も変らない。美しさもかわいらしさも全然変らない。時々見せる悪戯っぽい好奇心も変らない。変ったのは、歌を歌いまくったり、酒をあおるように飲んだりしなくなったことだ。若々しさは変らないように思うが、優雅と言うのか、気品と言うのか、落ち着きと柔和さが見えるようになった。これはどうしてだろうか。周吾は自分と結婚したことによるのだろうか、と思った。それほど人を変える力はないはずなのに、自分のせいだろうか。それとも、周吾にもっとしっかりして欲しいがために、必然としてそう振舞っているのだろうか。それならどこかに無理があるはずだ。そんなそぶりも見えない。周吾はノッピ以上に自分は幸せだったし、ノッピもそうだと思っている。
 楽しい時を過ごして帰る。

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