霧の中 11

 香澄が鍋を食べよう、と言って、つい吸い寄せられてしまった。美味しいし楽しい夕食だった。まさか家族のことを話すなんて思ってもいなかった。鍋に寄せられて香澄に近づきたかった。こんな自分でもいいのかと思っていた気持ちは、香澄の笑顔にかき消されてしまった。つい自分の負の荷物について話をしてしまった。これでいいのだ。ぼく自身は隠しようもないこんな男だ。香澄が嫌ならこれからはないだろうし、ぼくも負の荷物を隠してまで香澄と付き合いたいとは思わない。
 香澄も父親を亡くし、母親とは離れて暮らしているのか。少し似た境遇だ。ぼくは香澄がとても大事に思えた。こんなに可愛い愛おしい人を目の前にしてご飯が食べられる。こんなに幸せに感じた時間は初めてだった。戸惑いと幸福と、さらに欲望が渦巻いた。香澄を自分のものにしたい。抱きしめてキスしてセックスをしたいと思った。薄いピンクのワンピースから形の良い白い足が見え、香澄が笑ったり動いたりすると胸が揺れた。ぼくにはもう隠し事もないし、香澄も隠していることもない。裸になってもいいのではないか。でも今日初めて、ついでにデートしただけじゃないか。ここでいきなりキスしてセックスしようとすると、香澄を傷つけてしまう。香澄を悲しませることはできない。鍋を前にしたまま、楽しい時間が過ぎていく。十時を過ぎたら帰るべきだと思った。一緒に片づけをして温かいお茶を飲む。暖かいお茶なんて、ここにいなければ飲めない代物だ。ぼくは香澄に感謝した。ぼくが帰ろうとすると、香澄は泣き出した。どうして、なにか悪いこと言ったか?悪態をつくほどお酒は飲まないし、飲んではいない。香澄の気持ちがぼくと同じ思いなのに、ぼくは体中が熱くなるほど嬉しかった。香澄を抱きしめた。大事な人だ。この思いを壊さないようにそっと優しくしっかり抱きしめる。欲望は高まる一方だが、ぼくは我慢した。香澄を大事にしたかった。香澄の瞳が見え、吸い寄せられキスをした。ぼくは香澄を大事にしたい、という挨拶のキスをした。今日はここまでだ。道路に出て振り返って香澄の部屋の明かりを見た。暖かくて嬉しい明かりがどこよりも明るく見えた。
 お弁当が残ったらメールするから、そう言ってくれたが、約束の日曜日まで弁当は残らなかった。香澄の惣菜屋に新しくパート勤めの中年女性の大谷さんが入って、残った弁当をもらって行くのだそうだ。中学生二人、小学生一人の男ばかり三人の子供を抱え、夫は癌の手術を受けて退院したが、家でまだ療養している。家計を助けるためパートを二件掛け持ちしている。早朝から老人保健施設や病院などに食事を届ける会社の調理場に出て、午後三時過ぎてその仕事が終わると、夕方からひまわりデパートの惣菜屋に立つのだ。夜遅く帰ってから、明日の夜のご飯を作って、子供たちは温めて食べられるようにしておく。それでも食べ盛りの年頃、弁当のお土産は何より喜ばれる。処分に困るのなら、いくつでももらいたい。そう言われると、香澄も同僚の芳江さんも店長の杉野さんも、否とは言えず、毎日大谷さんが持って帰るようになったのだ。
 私もそれで、おうどんにするか、コンビニで何か買って帰るかになったの。ごめんなさいね。香澄からそんなメールが来た。残り物の弁当に期待はしたが、無くて恨むものではないのでぼくは構わなかった。でも香澄に会う機会が無くなったのが残念だった。日曜日が待ち遠しかった。香澄からメールが来た。日曜日仕事が終わったらメールして、駐車場に空きが無いので私が迎えに行く。ぼくは返信メールを送った。歩いて行っても一五分、走って行けば十分もかからない。仕事では一日中走っている。それより、ご飯をお願いします。わかった。気をつけてね。安全運転で交通事故に遭わないように。待っています。食べたいものある?普段コンビニ弁当で食べていなものなら、何でもいいよ。好き嫌いはない。できれば魚が食べたいかな。カスミンにお任せする。費用は折半しよう。
 土曜日の夜、部屋に帰ってコンビニで買った弁当を食べようとしていたら、純也先輩から久しぶりに電話があった。次の仕事が決まったのかな。それとも明後日休みなら釣りに行こうか、そう誘われたら困るなと思って電話に出た。意外な内容だった。
 翔太元気か、生きているか。
 当たり前じゃないですか。生きているから電話にだって出ますよ。
 そうだな、実は俺、いまY町にいる。
 温泉ですか。いいですね。
 違うんだよ。派遣が切れたからだ。俺は女房も子供もいるし、休みの日に必死に探したよ。いま、こんな世の中だろう。派遣すらない。正規の社員なんてなお更だ。日雇い仕事も公共工事が無くて殆どない。どれも経験者求むだよ。Y町のホテルが住み込み従業員を募集していて、ここに入ったのだ。派遣より収入は大幅に減った。女房子供に渡す分は減らせないけど、俺は食事も風呂もお金はかからない。家に帰るのにガソリン代がかかるだけだから、何とかやっていけると思った。週一日、隔週二日休みがある。そのときに家に帰るけど、毎日子供の顔を見られないのは辛いよ。女房とも、夫婦だから一緒にいたいよ。この生活になってまだ一ヶ月経っていない。女房が子供を連れて実家に帰ってしまった。同じ市内だし、女房の実家は両親だけが住んでいて、兄は都会へ行って家族と暮らし、戻ってくるのは正月くらいだから、娘が孫を連れて一緒に住んでくれるのは歓迎してくれた。何より部屋代が掛からなくなった。女房の両親は嫌いじゃないよ。隔週女房子供に会うのに女房の実家に行くしかないのは辛いよ。原因は俺にあるから不平は言えない。だが、向こうの親の機嫌が良くないのだ。俺の仕事に不満を持っているらしい。それはそうだろう、自分の娘の亭主が温泉ホテルの住込み従業員だからな。結婚させたのが間違いだったと思っているのかもしれない。収入がたくさんあればそんな問題もない。実家に戻すこともないけど、どうしようもない。子供の将来を考えたら少しでも貯金をしたいと女房は考えて実家に戻ったのだ。俺は女房と子供に少しでも良いようにしてやるしかないよ。翔太はいまの仕事をいつまで続けられるのか。正社員になれないのか。
 わかりません。あくまで臨時社員ですから。でもまだ、健康保険も年金も雇用保険も入っているから助かっています。国民健康保険や国民年金を自分で払うようになると実際は払えないですよ。給料が良い社員になれないのだから、収入は減っているのに高い負担をしなければいけないのは無理な話です。
 そうだよ。俺だって、保険や年金に入れてもらってはいるが、その負担分を引かれると、月二十日以上一日十時間拘束されて一日あたり七千円にならない。一昔前の最低時給に、保険、年金などがついているだけだ。他にあればいいけど、いまは無いよ。金持ちになれるとも、なりたいなんて思わないけど、もう少し多くもらえて、将来に不安のない仕事ならどこだって行くけどね。最低年収三百万欲しいよな。もう随分前に年三百万で暮らす、なんて本が売れたことあったが、あれは都会の話だろう。こんな地方の町じゃ年三百万なら、ありがたいほどだよ。翔太はいまの仕事は実入りがいいだろう。年収三百万あるか?
いえ無いですよ。
 そうか、厳しいな。翔太、暇になったらまた釣りに行こう。温泉は暫くやめておこう。
 純也先輩はひとしきり喋ると電話を切った。話の内容は深刻だったが、いつもと同じように明るかった。


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