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豊穣の国 一

 東から日が昇る。水平線の向うから海と空を黄金色に輝かせ、大地を照らして昇っていく。毎日、日は昇る。その当り前の真実を体感する喜びに魅せられ、牧村は毎朝の散策が日課になっていた。部屋を出て長く緩やかな屋外階段をゆっくりと降りる。松林のあたりもまだ何も見えない。冷たくて清々しい空気を吸い込む。土と潮の臭いがする中、緩衝材でできた遊歩道をゆっくりと歩く。歩道には手すりのある柵がある。蛍光塗料が塗ってあり、少し暗い内に出て来ても困ることはない。楡の広場を過ぎブナの森を通る。森の木々を抜ける風音が間断しながらもざわめく。やがて欅の広場を通るころには、広場におかれたベンチも休息小屋も、少し見えるようになる。のんびり歩きすぎたか、そう思いながら先を急ぐ。希の池の中橋を渡る。望洋台を一段降りたところに、海を真正面にした法面に一坪程の平地が切られてあり、ベンチがひとつだけある。ここからは日が昇る躍動感を体感出来るのだ。
 妻を亡くして大きな喪失感を抱えた牧村は、この豊饒の国へ越して来た。越して来たというか、逃げて来たというか。妻を忘れられない日日を、この日の出を見ることで乗り切ろうとしていた。
 牧村はゆっくりと、三メートル程緩やかな階段を下った。下ったところで指定席に先客が一人いることに気づいた。ここまで来て戻るのもどうか。少しばかり逡巡したが許可をもらって隣に腰をかけた。三十メートルほど下の海から足下を刺すように冷たい風がゆっくり吹き上げてくる。
 牧村は毎朝、雨でもなければ必ずこの場所に来ている。三月の半ばはまだ寒い。防寒着に隠れた先客の様子もよくは見えない。しかし女性であることははっきりわかる。牧村は一日の始まりをしっかり見ることで、その日一日の自分の命を繋がせてもらっている気がするのだ。新鮮な生まれたての太陽の力を自分の命に繋ぐ大切な儀式を、毎朝迎えている場所である。
 波の打ち寄せる音が響いてくる。視界の中心にある水平線が光を放ってきた。光は先ず点になる。水平線に引っ張られるように楕円になり、さらに球形になっていよいよ昇ってきた。日が空に伸び、波を走って海を覆いはじめる。やがて眼を刺してくる。頭を下げ、手を翳してよける。瞳孔が萎む。拝み上げるように海の向うの耀きを見る。
 一挙に日は空にかけ上がって行く。

 「私はここに来るのが日課になっていまして、この日の出を見ないと、命も繋がらないように思います。地球的なエネルギーというよりもっと大きな、自転、公転をコントローする宇宙的な意志で、太陽は昇ってくるように思うのです。海にも空にも大地にも、石にも草にも動物にも、寝ていようが起きていようが全ての人に平等に日は射し、闇の世界を瞬く間に白日のもとに晒して行く。冷たかったものを暖かくして行く、凄まじいエネルギーです。それが海の向うから毎日昇ってくるのです。この当り前のことに気づかなかった。私もあの日の力で生かされているのです。そんな思いで毎日、雨でもなければ来ることになってしまいました」
 「ここは日の出を見るにはいいところです。毎日来られる理由がわかる気がします」
 「私はここで、毎日生きる力をもらっている気がするのです。太陽が昇りまぶしい光が射してくると、ちっぽけな自分も小さな生き物と同じように、素直にその日を過ごせるように思います」
 「私が日の出を見たのは、もう随分昔のように思います。でも何か鮮度が違う気がします。この場所が海にちょっと突き出た舞台のようで、真正面から巨大なスポットライトを照らされるのですから。物凄い視線で迫られているようで絶えられないくらいです」
 「そうです。ここは特に、海の向うの水平線から日が昇りますから、一際鮮度がいいと思います」
 「私は今日偶然早く目を覚まし、何も考えずにふらふらやって来ました。日の出を見ようとも、ここに来ようとも、思ってもいなかったのに、いい日の出を見ました」
 「今日は天気も良く、それほど風も強くありません。今時分なら最高の日の出観賞です。いい時に見えられました」
 「私がここにいて、驚かれたのではないですか?いつもはお一人でいらっしゃるのでしょ?」
 「ええ、少しびっくりしました。でもここは私専用の場所でもありませんし、一人より二人の方が楽しいではありませんか」
彼女は私を見つめていた。私は初めてフードの中の顔を見た。僅かな時間をおいて、澄んだ黒い瞳は正面の海に逃げた。

 その後、ブナの森の広場ではほとんど毎日、希の池でも何度も出会い、二人は半生を長い時間をかけて話した。しかしこの場所で日の出を一緒に見ることはなかった。

 彼女の名前は志野と言った。夫は五歳年長の大事業家で、一代で十数社を経営する大物だった。子供は二人、娘が四四、息子が三九歳。長女が今グループ全体の会長になっている。夫の気質をそのまま受け継いだのは長女だった。息子も幾つかの会社の社長はしているものの、五歳年長の姉の指示に従うだけで趣味の写真に没頭する生活をしていた。孫は息子夫婦に男の子が一人いた。四年前小学生になったばかりの夏、林間学校に行って川で溺れて亡くなった。以来息子は益々写真に没頭し仕事から離れて行くようになった。夫もしばらく落ち込んではいたが、いつの間にか以前のように仕事人間に戻った。そして半ば公然と女遊びをするようになった。志野はただ一人の孫を亡くしてからは外に出ることもなくなった。着飾ることもなく、部屋にこもって本を読むだけの生活になった。夫がいつ出かけたのか。いつ帰って来たのか。わからないことも多かった。夫も顔でもあわせない限り声もかけてこなかった。孫の死から、完全に戸籍だけの夫婦になっていた。
 夫は古希の祝いの夜死んだ。古希の祝いをホテルで盛大にやってもらったあと、スイートルームで休んでいた。志野の方は人前に出ることは厭だったが、夫の古希の祝いに妻が全く知らないというのも出来なかった。主立った方の挨拶の間はどうしても顔を出さねばならず、その後は一人家に戻っていた。ホテルから家まで三十分もかからない。だから泊まることもない。こういう時、夫はホテルに泊まり、女を呼ぶのだった。志野もそれがわかっていた。翌日正午を過ぎた頃、ホテルから電話がかかってきた。夫が死んでいるので至急ホテルまで来てくれ、警察へも発見上知らせたと言う。身元を確認するために、だった。普通の御客様なら十時までにチェックアウトしなければ、部屋を開けてもらうために内線電話をかける。しかし何分大物なのでまだかまだかと待っていたらしい。それも昼近くなっても出てこないので、支配人が内線電話を鳴らした。返答がないため部屋に行きノックをして呼んだ。返事がないので部屋を開けたら、全裸のままでベッドに仰向けに寝た老人が死んでいた。救急車とパトカーの非常灯が点滅する中、志野はホテルの中に入った。刑事の質問に何回か頷いたし、何度かは首を傾げた。
 その後検死が行われ死因は冠不全となった。原因はストレスか過度の興奮によって、冠血管が攣縮して、心筋梗塞をもたらしたらしい。死因が何であろうと、相手の女が誰であろうとよかった。夫の死によって自分に生が戻ってきたように、志野は忙しかった。快楽の絶頂から苦痛の中、死の渕へ落ちて行った夫には、不思議な程何ら感情も湧かなかったが、老人を見捨て、慌てて逃出して行った女に、なるべく罪をかけないように、あらゆる努力を惜しまなかった。今までこれほど出歩くことがあっただろうか。事情徴収、検死から遺体の引取、葬儀、火葬、納骨。細かい作業は全て社員達が働いてくれはしたが、引きこもってはいられなかった。事務的でありながらも行動することで、次第に志野は自分を思い出していた。夫はいた。戸籍上も家庭にも。夫は志野を大事にはしてくれたのだろう。部下はよく殴った夫も、志野に対して暴力を振るうことはかった。概ね優しかった。最初を除いては。志野の人生を略奪する強引な結婚だった。その後の生活に不満があるか、と言えば、どうだろうか。金銭や経済的な面での不自由はなかった。生活はだんだん豊かになり、家も大きくなったが、自由がなかった。家の中にはお手伝いさんがいたし、庭には一年中花が咲いていて、水をやるにも専門家がいた。志野は眺めるだけで良かった。いや眺めるしか出来なかった。夫は志野を眺めていればよかった。これくらい自分で出来る、と夫に言ったことがあるが、適材適所で人は使うのだ、任せることが良くすることだ、と話にならない。
 志野は空気のような存在だった。いるだけでよかった。昔夢見た王妃の生活だった。なぜ夫は志野を妻のままにしておくのだろう。愛情を持っていない女を妻にしておく理由もないはずだ。自分は勝手に女を作って遊んでいる。目障りな妻を飾っておく理由もないように志野は思った。何度か離婚を申し入れた。夫は取り合ってくれなかった。志野は自分に必要だ、夫はそう言った。志野が理解できる理由は言ってもらえなかった。お飾りが必要だったのだ。志野は飾るに相応しい美人だった。家の門を大きくし、車を高級車にするのと同じように、美しい妻を傍におくことが必要だった。
 志野は羽をとられた鳥になり、夫は仕事だと行って、外に羽ばたいて飛んでいった。外で遊ぶ謝罪のためか、たまにその羽を休める時は優しかった。金婚式迄にあと六年なかった。志野にとってはおぞましいものが一つ消えた安堵があった。忙しさが終って寂しくなる、と言われていたが、夫が家にいないだけのことで変りはなかった。ただ子供達はそれぞれ家を建て、この大きな家は志野にとっても子供達にとっても、不要なものとなった。
 羽根が戻った鳥は、夫の死から三ヶ月後に、豊饒の国へ飛んだのである。娘と息子は母からこの話を聞いた時、電話口で何度も聞きなおし、豊饒の国なるもののデータをとって調べさせた。仕事以外では少なくなった会話を姉と弟とで交わし、母に後の始末をする約束をして送り出した。自分の意志で何も動かなかった母が、ある日突然、何不自由ない生活と地位と名誉と財産を手放し、未知の世界へ行く決断をしたのだから、子供達は当然ながら驚いた。そして母の自由を認めてくれた。処分した財産の内一億円を豊饒の国へ寄付し、一億円を預託し、志野は終身永住者となった。

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