番匠川

 故郷を思うと、第一に川である。何しろ山だらけに川が流れているだけのところだ。
 子供の夏休みの遊びは川だ。番匠川の支流小又川に、子供が泳げる場所が決まっていた。妙見(みょうけん)という場所である。二つの集落の子供が集まり、天気の良い日は賑った。灌漑用水の引き込み口になって、コンクリートで堰が作られていた。堰に流れが止められ、石が溜まって浅瀬になり、上流に行くにつれて深くなっていた。深いところは二m近くあった。その両岸には大きな岩があり、岩の上から飛び込んで遊んだ。小さい子は浅瀬で泳ぎを覚え、深いところへ行くようになる。上流は岩と岩の間が狭くなって水流が早かった。急流を遡って泳げるようになると一人前になる。水は冷たく三十分もいたらコンクリートの上で日干しになるか、岩の上に登って日に当たる。堰の近くに石鹸の木があり、魚を触った生臭い手を、その実を潰して泡立て洗った。ムクロジという木だ。子供の頃はムクロジなんて知らない。大きい子供から小さい子供に、あれは石鹸の木だと教えられ伝っている。いまの子供はどうだろうか。泳ぐばかりでは面白くないから、ちょんがけの道具を作って魚を狙う。身長ほどの長さに女竹を切る。釣の竿ではないから、節を取った先端を鉛筆くらいの大きさにして、針を固定した長さ五cmほどの竹棒を差し込み、その竹棒にゴム紐を結び、竹竿の先端から少し中ほどに固定する。泳ぐ魚を竹竿の先についた針で引っ掛けるのだ。この地方の鮎取りの定番漁法になっている。魚が引っ掛かると、針のついた竹棒は竹竿の先端から外れるが、ゴム紐があそびになって針は外れない。水がきれいで、岩の上から魚が泳いでいるのが見えた。番匠川は当時透明度の非常に高い河川で、科学雑誌や図鑑のために写真撮影されることが多かった。魚釣りにしてもウキなどいらない。糸を垂らして魚が餌に食いつくのが見える。水中がきれいだからこそ出来た漁法だ。しかし、魚は簡単に引っかからない。どんこは石の上から石の上を飛んで行くので、石の上に止まっているところを狙って引っ掛けることが出来たが、鮎は無理だった。鮎は子供の泳ぐところにはめったに来なかった。
 山の傾斜が急で、波打つような山々の間だから渓流が多く、沢蟹は宝庫だった。山を歩けば蟹を必ず踏む。それだけいた。エノハと呼ぶヤマメもいた。エノハは毛ばりで釣れた。かなり上流に行かなければいけない。川釣りの狙い目はハエという魚だ。一般的にはオイカワと呼ばれるもので、小型が多かったが、白く美しく臭みが少なかった。揚げ物か甘露煮にして食べた。ハエより大きいのはイダと呼ぶ魚でよく釣れた。これが一般的にはウグイだと思う。大きいものは二十cm以上あった。台風や大雨で川が濁り水嵩が増した時は、餌なしで針の結び目が赤い糸なら食いついた。大型のイダが面白いように釣れたことがある。
 集落の橋の袂に三竈江神社があり、その鳥居の前に番匠川がある。三竈江神社の森の端にうどんくび(宇戸首)と呼ぶ岩があり、番匠川に突き出していた。ここは小学校の裏になる。この場所も子供の泳げる場所になっていた。小学校付近の子が来る。私なども時々ここにも来た。妙見もここも、距離は変わらなかった。ここは岩が高く淵が深くて広かった。飛込みには最高の場所だった。流れも速く泳ぐ水域も広かった。普段、番匠川は宇戸首から下流は水が流れない。川には石がころがっていて見えないが、宇戸首のすぐ下流から、川の水が地下に落ちている。そこから二kmほど下ったところまで川に水はない。水が出てくる場所は、前高神社の下流になり、三竈江神社から前高神社の間は普段水が流れない。台風や大雨は別だが、殆ど川は乾いている。三竈江神社の祭神は、いざなぎ神、いざなみ神に光世霊神である。源平合戦で平家の武者兄弟が落ちて来て、緒方三郎惟栄勢に討たれた。その後、緒方三郎惟栄に祟りが続いたので、兄の平光世を三つの竈を据えたような岩がある場所に神社を建立し、三竈江大明神として祭った。上宮三竈江神社である。弟の平光国は絶壁の岩の下に神社を建立し、見上げると前に高く岩が立ちはだかるので、前高大明神として下宮前高神社に祭った。逃亡中、近くの老婆にお茶を所望したら、水がないと、つれなく断られたので、その後、上宮と下宮の間の川に水が流れなくなったといわれている。
 宇戸首からさらに上流、中学校の前の川に行くと、轡井堤(くつわいで)というダムみたいな堰が作られ、灌漑用水の取水口になっている。ここから宇戸首の山側を通り、三竈江神社の裏を抜け、家の前を通る用水路が通っている。この用水路を夏の夜、懐中電灯を持って歩き、モクズ蟹を大量に取ったことがある。轡井堤にある大きな貯水槽はプール代わりになった。深さ二m、奥行き十m、幅五十mはあり、上級者専用だった。ここでもよく泳いだ。宇戸首から轡井堤までは、鮎のちょんがけ漁の好ポイントで、毎年いつも川猟師が入っていた。このプールから上流に行くと、左から鹿淵川が注いで、蛍の乱舞が見られた。道から向こうの山に数万という蛍が舞い上がるのを一度見たことがある。年に一度のチャンスだ。宮本輝氏の「蛍川」にある乱舞の光景である。
 中学校の正面、轡井堤の側に、本宮岳という垂直に切立ち、三方を削ぎ落とした八十m程の岩嶽があり、山の稜線に突き出して番匠川に対峙している。山の稜線を伝って登れば頂上に行ける。祠があるが、三人立てば狭い広さしかない。眺めはいい。絶景である。中学校は丸見え。上流は鹿淵が、下流は堂の間津留から、日平、松内と、番匠川が山間に曲がって見えなくなるまで、いわゆる村の中心地が一望できた。石鹸工場のような小学校や役場、農協などが見えた。この本宮岳には大蛇がいるという話がある。人の話は大きくなるが、母も見たことがあるといった。直系十cm長さ一m以上で真っ黒い蛇だった、と話に聞いた。もっと大きいとか、いや青白いとか、噂話は色々あるが、自分では見たことがない。
 宇戸首から本宮岳の中間地点にある梅木平では、初夏になるとイタドリが大量に取れた。子供達は塩を持って行く。山から小さい谷水がしみだして、小石混じりの所が狙い目だ。イタドリは一般的な呼び名で、サドと、みんな呼んだ。サド取りに行く。細くて硬い、食べられないのもあるが、これはヘビサドといって無視した。太くて大きいサドを狙って取る。地面から出たあたりをぽきっと折る。胡瓜を割るより簡単に取れた。皮を剥ぎ塩につけて食べる。水分が豊富で美味しかった。この近くの家の山に、枇杷の木が何本か有り、毎年枇杷を取りに来た。枇杷も大木になると、竹竿くらいでは届かなくなる。身の軽い子供は木を登って枇杷を取る。日当たりのいいところにある枇杷は美味しそうに見える。まして手の届きそうにない枇杷ほど甘そうに見えるのだ。身の軽さを信じて取りに行き、枝が折れて四、五m落下したことがあった。大怪我はしなかったが、木登りは枇杷ほど甘くはなかった。
 さらに上流に進むと左から支流の上津川が合流する。上津川の上流は日本でも珍しい梅の自生地で、昭和十五年に牧野富太郎博士が、「恋人に会いに来た」と梅の観察に来た。番匠川一帯はシダ類の宝庫でもある。珍種が多く見られる。
 もう昔の話になる。小半鍾乳洞の直ぐ上流に石灰石の砕石場があって、この山が崩れた。崩れ落ちた石が番匠川を堰き止め、湖が出来た。報道番組の取材陣も殺到した。堰き止められたのは水だけではなかった。仕事や学校に通う道が閉ざされた。迂回して行くと倍以上の時間がかかった。数ヶ月して迂回路がつくられ、やがて湖は幻のものになった。
 小学校の高学年だったと思う。台風で大雨が降り番匠川が氾濫したことがあった。堂の間津留の堤防が一部損壊し、日平の集落で因尾橋の袂にあった家が、多分厩か納屋だったと思うが、増水した川に呑み込まれるのを家の縁から見たことがある。川の恐ろしい一面を初めて見た。川は時に増水するので、番匠川には沈下橋が多い。大水の時は渡れない。水が引くのを待つしかない。待つ、という生活があの頃にはまだ一杯あった。

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