コマ チビ トムよ

 子供の頃、家には人以外にたくさん動物がいた。大きいのは馬だ。厩があって餌箱が角につけられていた。馬の餌は、藁をはめ切りと呼ぶ支点が先端についた大きな直刃を手前の柄で持ち上げ、草を下に入れて下ろし切る道具を使った。藁も草も面白いように切れる。下手をすると手も落ちるくらい良く切れた。藁を小さく切って草と混ぜ、糠も入れてやると馬は旨そうに食んだ。
 耕運機が来るまで馬は大事な働き者だった。時々馬を庭に連れ出して日光に当て、毛にブラシを当てる。また蹄鉄も替えてやらねばならない。厩の掃除は不可欠だ。敷いた藁が糞便混じりになると悪臭がする。肥料場へ運び肥料にする。その作業も大変だ。耕運機が来て化学肥料が売られるようになる。山で木を切って運び出すのに馬を使う仕事はまだあったが、田でしか馬を使わない家にとってはお荷物になった。
 終戦後数年たった頃かと思う。父がまだ結婚する前のことだ。家から町までは二十km強あったが、その帰りに馬車ごと道の下の水路に落ちた。父も落ちた時に腰を打って、以来なにかあると腰が痛いと言った。馬は大きい体の割には臆病である。何かあるとすぐ驚く。
 厩に行って覗けば顔を出してくる。長い顎を撫でてやると気持ち良さそうにする。いつも厩に入れたままだから、時おりでも話に行く。どこか行こうよ。そろそろ出してくれよ。小さい私は馬がそう言っているように思った。時々馬が啼く。寂しいのだ。顔を見せて顎を撫でると啼き止む。私は午年生まれのせいもあって馬が好きだった。大きくなったら馬に乗りたいと思った。婿入りしてきた祖父の実家は昔造り酒屋で、曽祖父は酒を造りながら飲む酒豪だったらしい。その曽祖父が馬乗りの名人で、酒を飲んだまま、日が暮れかかって裸馬に乗り、尺間山(標高六四五m)の山上にある尺間嶽神社まで山道を登って、お参りをしてくる人だった。その話を聞いてかっこいいと思ったのだ。
 耕運機が来ても馬は何年かいたように思う。理由は父が馬を好きだったからだ。お荷物になっても苦労して働いた同志なのだ。それで手離さなかったのだが、いつの日かいなくなっていた。いなくなったのに気が付いた私は悲しかった。代わりに牛が来た。牛はもう労働者ではない。肉牛だ。私も時々牛の草を刈りに行かされた。葛蔓や茅萱、蓮華、ススキ、蓬など適当に刈ってくるが、量が半端ではない。大きな竹籠に一杯押し詰めてくる。
 中学生の頃は山羊がいた。何故山羊を飼ったのかわからないが、山羊の世話をさせられた。学校から帰ると草を刈りに行く。春は蓮華があって便利だ。蓮華を刈るにもコツがある。鎌を、手首を使って上手く動かせるようになると、ある程度刈って、まとめて鎌でかき寄せ籠に入れることだってできる。蓮華は直ぐに一杯になって楽だった。それに、田んぼで作業ができる。犬と寝転んだり遊んだりして、蓮華を刈った。夏は水田になるから山に行く。刈る草はいくらでもあるが、蛇がいたり蚊に刺されたりして嫌だった。山羊はいくら大事にしても言うことを聞かない。牛や馬は愛情の交流もできるが、山羊はどうにもならないと思った。学習能力がない動物だ。牛や馬に比べると小屋も小さいので、糞尿の片付けも楽だが、山羊には馴染めなかった。山羊の乳を搾って買ってくれる人のところへ毎日持って行った。 
 ごく小さい頃、テツと言う名の犬がいた。喧嘩が強く、人に噛み付いて困った奴だった。その頃タマというキジ猫もいたが、猫は好きではなかった。テツの次はカヤだった。カヤという名は西郷さんが連れている犬と同じ名前だと言っていた。当時家にポニーと言う車があった。デイーゼルエンジンの四輪車だが、屋根もドアもなかった。二人乗りで後ろに荷物を少し載せられた。エンジンは後輪の近くに置かれたミッドシップだが、パンク修理の時にジャッキアップする長い鉄棒に似た、もっと長いハンドルを後ろから差し込んで、手回しでエンジンをかけた。平道は難なく走るが、坂の登りにかかると、同乗する者は降りて押し上げなければならない。このポニーに乗って山へ行く。カヤはポニーの後ろを走ってついてくる。平道は置いて行かれそうになっても、山に入るとカヤが待ってくれるようになる。運転席と助手席に父母が載り、私と弟は後ろの荷台に座って、カヤを抱えて乗せるが、走り出すとカヤは直ぐ飛び降りて一緒に走り出した。子供は乗っている方が楽でいいのにと思ったが、犬はそう思ってくれなかった。カヤの次はジャックという名の雌のビーグル犬で、親戚から貰った。ビーグルでは大きい方で血統書付の犬の子供だった。白地に茶黒の斑点があり百一匹わんちゃんに出てくる犬と似ていた。祖父が猟銃を持っていて一緒に山に行った。一度兎を追い出し、それを祖父が撃ったのを見たことがある。ジャックはさすがに優秀な犬だった。コマと言う家で生まれた雄犬がいた。多分ジャックの子だったと思うが、十匹くらい生まれた中三匹残して、後は多分誰かが処分したのだ。三匹のうち二匹は他所へ貰われて行き、コマが残った。白地に茶の斑模様があった。生まれてから見ているので、とにかくかわいくて仕方なかった。コマは成長するにつれ悪さをした。靴を銜えてどこかへ持って行くのだ。片方しかない時はコマの仕業である。スリッパを噛んでだめにする。歯固めの時期らしい。それでもコマはかわいかった。生後一年頃、コマは突然いなくなった。私は小学校三年か四年くらいではなかったかと思う。悲しくて、寂しくて探しまわったことがある。結局コマは帰ってこなかった。そのことを作文に書いて表彰を貰った。
 次はトムだ。雄のビーグルの雑種だった。小学校から家まで二百mか三百mだったが、学校を出て口笛を吹くと、トムが走って来てくれた。真っ黒で、精悍でかっこいい犬だった。大きくもなく一番の遊び相手だった。トムの両前足を持って歩くと、トムは後ろ足だけでどこまでもケンケンして来た。ボールを投げて取って来こさせたり、じゃれあったり、とにかくトムとは良く遊んだ。高校に行って下宿生活になると、週末しか戻って来られなかったが、バスを降りて口笛を吹くと、トムはやはり二百m強を走って来た。もうかなり年を取っていた。それも長くは続かずトムは死んだ。私の成長に一番長く付き合ってくれた犬だった。トムの死は辛かった。成長をともにしてきた仲間であった。トムが老衰し動けなくなっても、家にいる日は必ず側に行って撫でて話しをした。トムは尻尾をやっと振ったが、きつそうだった。目ヤニがでて私は拭いてやった。餌ももう食べなくなっていた。かわいがった犬が死ぬのは寂しい。犬はもう飼いたいと思わなかったが、私は普段家にいないし、飼うのは祖父母か母である。同じ村の親戚の家から、柴犬の雑種で茶色の小さい雄犬を貰ってきた。名前はチビだ。大人しい犬だった。週一度くらいしか会わないのにしっかり懐いてくれた。チビは、高校を卒業し大学を卒業した後もなお生きてくれた。初めて家に連れて行った妻になる人にも、最初から馴れて歓迎してくれた。妻が戌年生まれのせいもあったかも知れない。
 テツは人に噛み付いたから頑丈な鎖に繋いでいたが、後の犬は、小さいコマを除けば、基本的に離し飼いにしていた。朝夕の食事時には必ずいたし、水は餌と一緒にやったが、庭にも水はあった。夏暑い時は、縁の下に潜るか、納屋の隅に行けば人より涼を取れたし、冬寒い時は、風呂の竈の前で寝た。風は吹かないし、暖かさでは最高の場所だ。座敷には上げないが、昼の食事や、夕方仕事帰りにお客さんが来て軽く一杯やる時は、土間の台所にある長卓につくから、その椅子の脇に犬がちょこんと座っておこぼれを待つことがよくあった。こぼしたものを片付けてくれたし、犬は何より意思疎通ができた。山羊はどうしようもないが、犬は大事にすれば必ずこちらの気持ちが通じた。犬の餌はご飯に味噌汁をかけ、水で薄めてやるのが殆どだったが、文句も言わずに、いや、時には嫌な顔をしても食べてくれた。時々猪や鹿などの肉もそのまま与えた。犬だって美味しい物を食べたい。人も毎日肉など食べなかった。あの頃は、犬にとって一番いい環境だったかも知れない。

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