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豊穣の国 六

 電話が鳴った。でると志野だった。
 「もしかしてお帰りになっているかなと、思って電話しました。志野です。先程お話した久住の件で、今本を出して見ていました。ご相談にあがりたいと思いまして、ご都合は?私が伺ってもいいですし、こちらにお越しいただいてもいいのですが」
 「そうですか、早いですね。私も今日はなんとなく絵が進まなくて、さっき帰って来たばかりです。本でお調べになっているなら私が伺いましょう。私も潮騒館に行く用もありましたから、後でうかがいます」
 「すみません。お願いします。お待ちしております」
 志野はほんとうに楽しみにしているのだ。

 牧村が東山の志野の部屋に行くと、もう本や地図を広げメモを取って眺めている志野が待っていた。意気込みが凄い、と牧村は思ったが、そう生き生きとする志野を好ましく眺めた。
 「呆れてまして?」
 「いえそんなことはありません。私もあれから考えました。どこかへ出かけるなんて、ほんとうになかったですから。若い時分に戻ったようで、わくわくしています」
 「それなら嬉しゅうございます。私はここも初めてですし、九州だって初めてです。本や地図を見ると、話に聞きテレビで見たりしたところが一杯あって、ここからどのくらいで行けるのかしら、なんて思っていました」
 志野は、九州は初めてだという。久住や九重。阿蘇も知らない。長崎や宮崎、鹿児島も知らないという。別府も行ったことがもちろんない。牧村は九州の名所を簡単に話した。この一番近いところ、国東半島に点在する六郷満山の仏教遺跡があること。宇佐八幡があること。紅葉で有名な耶馬溪、青の洞門もそのままあること。臼杵の石仏。佐伯の海。熊本は阿蘇、熊本城、人吉。鹿児島は桜島、開門岳。宮崎は高千穂、日南海岸。日向には景勝地馬ヶ背に、ひょっとこ踊りという面白い踊りがあることを話した。
 「その面白い踊りはどう面白いのですか」
 志野はそう聞いてきた。牧村は困ってしまったが、志野が、非常に興味があるのだと思って、自分で踊って見せた。
 「男と女は少し違いますが、男踊りはユニークです」
 牧村はそう言って、
 「てんてこてん、てんてこてん、てんてこてんてこ、てんてこてん。てんてこてん、てんてこてん、てんてこてんてこ、てんてこてん」
 伸ばした片手を肘から直角に手前上に曲げ、もう片手を伸ばす。これを左右繰り返す。腰を屈め、腰を前に突き出す、引く。膝を曲げ、右足、左足と少しずつ進む。この動きをひたすら繰り返す。おかしな踊りを見せた。
 志野は牧村の踊りを見て大笑した。志野が大笑いをするのを初めて見たと思った。
 毎年八月の暑い頃だったと思う。男はひょっとこの面をかぶり赤い浴衣に白い褌姿で、女は浴衣におかめの面をつけて踊り、日向の市内を金の音に導かれて練り歩くのだと説明した。
 その話をすると、志野は、
 「ごめんなさい。おかしくて、すみません。牧村さんお願いです。私を日向に連れて行ってください。お願いします。私どうしても、ひょっとこ見たいです」
 そう言って頭を下げた。
 牧村は踊りをやめて座ると、志野とは長い付き合いになりそうだ、と思った。
 志野とはその後、いろんなアイデアを出し旅の相談をした。志野の夢が一気に膨らんだため、優先順位を整理しなければならなくなった。日向なのか、久住なのか。日向となると日帰りは難しい。ひょっとこを見たいのであれば、ひょっとこ踊りがある日に行かなければならない。志野は本を見て日向市観光協会に直ぐ電話し、ひょっとこ踊りの日時を問い合わせた。八月の第一金曜と土曜日だった。つまり明後日である。それから二人の大雑把なかつ大胆な旅行計画が決められた。泊まるホテルだけを押さえていったのだ。すべて志野の思いをそのまま受けてあげたい気持ちからだった。志野は自分のわがままからお願いしたことだから費用は全部任せてほしい。行きたいところは並べるが、行けないところがあっても構わない。他はすべて牧村に任せる。牧村は費用に関しては折半をと言ったが、自分にはまだ使い切れないくらい残っているから、と言って固辞された。とりあえず牧村は九州の南を大急ぎで紹介する旅にしようと思った。通り過ぎるだけでもいい。志野に九州の土地を見せたいと思った。


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