まだ小学校低学年だった。稲を刈る最盛期に学校が何日か休みになった。いまでは信じられないが本当にあった。小学校に通う児童の殆どは農家の子供だ。子供の手も借りたいくらいの忙しさになる。稲刈りは専用の鋸状の鎌で稲を刈る。大人の男は片手に持った鎌で、もう片手に稲を五束以上刈っては持つ。並んで刈って行くので、自分にあった束数を守って行かないと、後で刈る人が困る。刈った稲は順次均等に並べて干す。腰は曲がったまま。刈った稲は稲藁縄で束ね、木で組んだ干し台に掛けて天日干しにする。乾燥機が入るまではこれしかなかった。稲刈りは人手も手間もかかった。何より腰が痛かった。小学校高学年になると、私は毎晩父の腰を揉まされた。
 子供ができる手伝いと言えば、こびり(小昼)と言う三時のおやつを運んだり、刈った稲を束ねる稲縄を配ったり、高学年や中学生になると、もう鎌を持たされて稲刈りをする。
 稲が乾燥すると脱穀機にかけて籾と藁とに分け、藁はまた束にして乾燥させる。田んぼに木を立て、束にした藁を挟んで円状に重ねていく。円錐状の塔がいくつも建つ。また長い木を人の字型に組んで重なる所を結び、それを三組から四組並べ梁を渡して結ぶ。梁から下段に横木を数段渡して結ぶ。人の字型の両側にある横木に藁を束ねたのを挟んでいく。人型の真ん中の下は空洞になる。両側に藁があって風が通らない。冬は隠れ基地になり、雨よけになり、暖が取れた。一人だけになりたい時によく入った。叱られて悲しい時、誰にも会いたくない時、よくここに入った。遊びでも入った。先客にたまに猫がいることもあった。猫も一匹になりたかったのだろう。
 稲の収穫が終わると神社の祭りが始まる。その前に田あがり、という集落の男が集まって一杯飲む行事があった。その後は三竈江神社の秋祭りである。狭い境内の隅に出店が並び、どこから人が集まって来るのか、と思うほど賑った。岩戸神楽が奉納されたこともある。夜遅くなって、いつもならとっくに寝る時間なのに神社の庭に座って、寒いのを我慢しながら大蛇が退治されるまで見た。また杖踊りも奉納された。杖を打ち合う激しさや体を回転させる動作が面白かった。
 我が家の氏神様は三竈江神社だが、母の実家は尺間嶽神社が氏神だった。毎年正月の行事が一段落すると、母は隣町の実家に年始の挨拶に行った。我が家に親戚はあっても、伯父や伯母は母方しかいない。父の姉がいたが、病弱で同居していた。母について行けばお年玉が貰えた。母は十二人兄弟で、三姉妹の一番下。上に兄が六人、弟が三人いた。兄の一人が戦死した。母方の祖父は怖かった。にこにこしている顔を見た覚えがない。いつ行っても叱られた。祖母は優しかった。いつもにこにこしていた。背の高い祖父と背の低い祖母だった。
 尺間山には春も登った。春と秋に大祭があって、それを目当てに登ったようだ。母に連れられて尺間山に行く時は、村をバスに乗って出る。私はバスが苦手だった。道が舗装されていなし狭いから、対向車が来たら離合するが、それが大変だった。どっちが下がるか、でもめたりする。そのためにバスが止まって気分が悪くなる。バスも止まらずに走れば佐伯まで酔わずに持つかも知れないのに、バス停ごとに乗客があるから止まる。離合のたびにまた止まる。一度バス同士で離合しなければいけなくなり、運転に慣れた運転手が、バスを変わって離合したことがあった。バスの後輪は片方二つあるが、外側のタイヤは路肩の外に浮いて離合したのだ。「ひとつ中にあるからかまわん」、ベテランはそう言って、また元のバスに戻った。
 佐伯の町まで行くとたいてい酔った。尺間山へは、町への途中、国道十号線に出ると降りて、大分行きへ乗り換える。乗り換えのバスは直ぐには来ないから助かった。それで酔いが覚める。尺間山の尺間嶽神社は歩いてしか行けなかった。登りに一時間はかかったと思う。社は山頂にあり、最後の四五度くらいある急勾配の石段が面白かった。拝殿に詣でた後は、二軒あるうちの決まった一軒の店に寄ってうどんを食べた。汗をかいて山を登ってついて来たのは、このうどんが食べられたからであった。お土産品やお神酒、蝋燭、線香などと一緒にお菓子や子供用玩具の小さいものがあった。いつも見るだけでだった。同じような店が二軒あるのに、必ず決まった店に行った。今度はあっちへ行こう。子供はそう言うが、寄る店はなぜか決まっていた。それでも、あのうどんは美味しかった。多分汗をかいてお腹を空かせて登って来たからだろう。 
 母が年に何回か尺間山に登るのは、信仰だけではなかったと思う。朝早くから夜遅くまで、家事や仕事に追われ、曾祖父母、祖父母、それに障害のある子供を三人も看取って来た。その息抜きだったのでないかと思う。尺間山から降りると、そこは生まれ在所だ。兄弟もたくさんいるし知人も多い。実家に寄る。直ぐ近くに姉の嫁ぎ先が二軒あり、そこに寄る。子供はもう飽きるのだ。大人が何を話そうが面白くない。母はたまにしかない休暇で息抜きだと言うのに、子供の私は、「もう帰ろうよ」と言う。
 稲の収穫が終わると、祖父母は時々、入湯と言って温泉に行った。一週間から十日はいたと思う。私も小学校に入る前に、何度か連れて行ってもらった。祖父母が行くのは湯平温泉である。はじめの頃は自炊も出来る宿にいたが、祖母は料理が得意ではない。祖母の料理で忘れられないのは煮物と散らし寿司だ。煮崩れした煮物に、べっとりした寿司はまだ思い出す。あの頃は米を持って行って泊めてもらった。米は貨幣も兼ねるところがあった。料理の評判が良くなかったのか、祖母が面倒と思ったのか、後からは三食付いた旅館に変わった。二階の部屋から谷川が見えて、温泉街の雰囲気は最高のところだった。温泉饅頭や蜂蜜饅頭など大好きだった。飲む温泉も飲まされた。湯平へは、村をバスで出て佐伯駅に行く。蒸気機関車の普通列車で大分駅まで行き、久大線に乗り換えて湯平駅に降りる。バスは佐伯に出るだけでも酔うので大変嫌だったが、汽車は大好きだった。佐伯に上岡駅があって、そこならバスを乗る時間が短縮できるので、「ここで降りよう。ここから汽車に乗ろう」いつもそう言って祖母を困らせた。多分汽車の始発は佐伯だったと思う。あの頃はそんなことは知らない。汽車に乗ると元気になった。私は、「線路は続くよ、どこまでも」と歌っては騒いだ。汽車の中では、茹で卵や蜜柑を売りに来た。祖母はその二つが好きだった。隣や、前後の客に蜜柑を分けたり、お菓子を貰ったり、汽車は楽しいのだ。バスとは違った。
 温泉宿に何日もいると子供は飽きる。「帰ろう」が始まる。祖母は湯に何度も浸かり、祖父はスケッチブックと鉛筆があればいい人だ。散策に出て絵を描いた。それについて行く。坂を登って行くと景色が違うし、湖まで行ったこともあった。お婆よりお爺の方が面白いのだ。子供にとっては長い温泉が終わって家に帰る。留守の父母や弟達にお土産を買うのは祖母だ。祖母は必ず食べ物を買う。お菓子類、漬物など。
 我が家にはお土産の癖と言うか、定番みたいなものがあった。歯医者など、何か用が出来て佐伯まで行くと、誰が行っても何かお土産がある。一番頻繁に出かけたのは祖母で、祖母のお土産は志きし餅だった。時々他の饅頭もあったが、志きし餅は必ずあった。多分自分が好きだったと思う。母は尺間山に行くと、岩おこしがお土産だった。父は六方焼だ。祖父は必ず牛肉を買って帰った。祖父が佐伯に行くと、決まって牛肉を買って帰るので、その日はすき焼きの用意をして待つ。甘いすき焼きだった。牛肉の美味しそうな匂いが漂うと、お爺は大好きだと思うのだ。肉の量は多くはなかったが、甘さと匂いで薄く切った大根が美味しかった。お婆でなくて、お爺が町に行けばいいのに、そんなことを思ったりした。でもお爺もバスが苦手だった。だからすき焼きもめったになかった。父はまた祖父に雑誌「芸術新潮」を買って帰った。祖父がこれだけは楽しみに待っていた。また祖母は必ず盆栽用の鉢を買って帰った。祖父へのお土産である。

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