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青の彷徨  前編 18

 四月になると、ノッピが岩下病院からいなくなった。引継ぎ中の橋田祐太郎が気づいた。患者が減っている。ノッピは患者に人気があった。塩見太郎、橋田祐太郎、最後に黒田浩太が万丈支店から転出して行った。キョーヤクになって最初の月が終ろうとした頃、前年度の表彰者が決まった。最優秀営業員賞を周吾は受賞した。キョーヤクとして初めて全社表彰となって合同表彰である。京町薬品から一人、宮崎、熊本、鹿児島、沖縄から、それぞれ一人受賞した。     
他は、キョーヤク医療器、キョーヤクヘルスケア、キョーヤクサンコーからそれぞれ一人選ばれた。また同じように最優秀課、事業所も選ばれた。表彰式は五月になって別府のホテルで行われる事になった。周吾がこのことをノッピに話すと、
 「アオ、凄い、おめでとう。それで何か貰えるの?」
 「さあ、どうだろう。ペーパーくらいじゃないかな。表彰式の後で、会食があるくらい。大分以外の人は、別府に一泊する楽しみもあると思う。どうもね。僕は泊まりたくない」
 「泊まらなくていいの」
 「宴会が終ったら自由。ホテルの宿泊は予約してあるが、翌朝からは完全に自由になっている。僕は帰ってくる。一人ホテルで寝るなんて、万丈より近いのに」
 ノッピが言っていた、何か貰えるものがわかった。タイピンとワイシャツの仕立券だ。表彰の価値に対して賞品が貧弱でないか。と、どこかでクレームがついたみたいで金一封が出た。表彰式より先に五万円が手渡された。周吾はこれが嬉しかった。ノッピと美味しい物を食べに行った。二人で都町に出るなんて初めてだ。小さい座敷があって美味しい和食のコースを出す店に行った。ノッピは出てくる料理に感心しながら自分のメニューを増やしていくようだ。父親と二人暮らしが続いたから、高校生くらいになると、家事は全部ノッピがやっていた。手際もよく和食も上手なわけがそこにあった。ノッピはもう酒も大飲みしなくなった。周吾はノッピの本当の美しさが、荒れた外の皮が剥がれて輝くようになった。と、思った。女性の豊かさ、柔和さ、香ばしさが、内面からまた外面とも調和がとれて輝いていた。時折見せる、悪戯っぽい好奇心は、周吾の心を鷲掴みする。周吾の眼を、何も疑わない眼で見つめる。周吾はもうノッピの眼の中に溶け込んでしまう。
 「アオ、連休中に結婚の根廻しよう。アオの両親に会って、認めてほしいの。私の父にも会って、アオを紹介したいの。六月二一日以降なら、入籍できるの」
 「僕はいつだっていいよ。うちの親なんか、ノッピを連れて行ったらびっくりするよ。絶対大丈夫だ」
 「私ね。今、橘信枝でしょ。元に戻っただけだけど、いずれ蒼井信枝になれる、と思うと、何か落ちつかなくて、できるなら早く安心したいの。結婚式なんか、どうでもいいの。法律的にこの国の中で、アオと一緒に住めるという証明を持っていたい。それだけ」
 周吾は、ノッピの気持ちがわかった。
 「蒼井信枝で、お父さんは安心してくれるだろうか」
 「アオ、心配しないで。父は一目見たら、私がなぜアオを選んだかわかるわ。それに絶対に気が合うと思う」
 ノッピは四月から大分市内の太陽会病院に勤務した。上野のマンションから、バスで十分もかからない。歩いて行っても三十分くらいだった。ノッピはバスを使った。無愛想な運転手でびっくりしたわ。一人か、と思ったら、みんなそうなの。よくあれでお客を乗せるわね。それでも、バスの回数はあって、万丈に比べたら、格段の便利さだった。それに病院の規模が違うので、人間関係も近くなり過ぎず、いいと言う。周吾は安心した。まずはノッピが慣れてくれたことが嬉しかった。
 「副院長から、ただの内科医になったけど、やっていることは一緒なの。お給料ちょっと減ったけど、交通費が減ったので実入りは増えたかな」
 「よかったよ。ノッピが診療できる場所ができたから。岩下病院の患者さんには悪いけど、今度は大分の患者さんの番だ」
 「そうならいいけどね。今度の病院はね、障害者や福祉に、とっても熱心なの」
 「知っているよ。有名なところだよ」
 「営利優先じゃない、って。いいわ」
 二人は五月の連休を根廻にしようと計画を立てた。
   周吾は連休の土曜日に、ノッピが診察日だったのもあって、実家に帰って、結婚の話をした。年上だが、生まれは埼玉県で、母親は小学校六年の卒業前に亡くなったこと。父親は三年前に再婚したこと。大分には医大に入学して以来住んでいること。今は大分の太陽会病院に勤務していることを説明した。
 「正月も、そん人と一諸だったんか」
 と母が聞いて来た。
 「そうだ」
 「やっぱしの、まあいいわえ。いっぺん連れちこな。式はどうするんかえ」
 「式はまだ考えておらん。向うの親に話をして入籍を先にしようと思う。僕もまだ、仕事がこっちだし。半分単身赴任だから。来年、転勤になったら考えてもいいかと思う」
 ノッピを周吾の実家に連れて来たのは、四月二十九日になった。途中車の中で、ノッピに、
 「あまりに田舎過ぎてびっくりするよ」
 と言った。が、十号線から奥の方に進むにつれ、
 「アオ、ほんとうに家あるの、もしかしてアオの家、一軒だけ?」
 と心配してきた。それでも実家あたりは集落が点在していて、学校も見えれば、役場や、公民館や農協などあって、人が住めるところだと、理解したようだった。診療所もあり、自治医科大学の卒業生が今住み込みで診察している話をすると、
 「そうなの、でその方は結婚しているの?」
 「結婚しているらしい」
 「そう、奥さんお買物なんか、どうするのかしら」
 「車で行けば市内までそんなに遠くないし、演歌流して毎日移動販売車が来るよ」
 「そう、面白い。それ来たら、行ってみたいな」
 「ノッピ、お客さんはみんな、おばあさんか、おばさんばかりだよ」
 「あら、私毎日おじいさん、おばあさんばかりの相手をしているのよ。慣れたものよ」
 「そうだけど、ノッピみたいな若い美人が、そんなところに行ったら、売りに来た車の運転手、ちゃんと帰れないかも知れないよ。目を丸くして、夢の国に来たんじゃないか。って」
 「ありがとう。それで、そのお店。何を持ってくるの」
 「主に魚かな、肉、加工品、インスタント食品、パン、牛乳、あと日用品なんかも」
 「今増えているコンビ二みたいね」
 「そう向うから来てくれるコンビニみたいな物、でもね、お年寄りは助かっている。値段は少し高いだろうけど、便の悪いバスに乗って、一時間もかけて万丈まで出て行くのを考えたら安いものだよ」
 周吾はノッピに、離婚や子供がいた事は伏せてもいいのではないか、と、言った。親権は向うだし。前夫とトラブルがあったわけでもない。ノッピも隠しことはしたくないけど、聞かれないなら、黙っていよう、となった。
 周吾の親はノッピを見るなり、まさしく吃驚した。こんな田舎でこんな美人を見るなんてなかった。それに、医者だ。相手が医者だと、事前に聞いてはいたが、これほどの美人とは思いも寄らなかったようだ。
 「信枝さん。あなた、本当に周吾でいいんかえ。あなた、お医者様なら、他にいい人はいっぱいおるじゃろうに」
 「そいで、どこで知りおうたんね」
 「私が医大から、北山病院に派遣で来ていましたから、そこで」
 「そうかえ、北山病院かえ、そうかえ」
 結局母が一人で質問をして、父は頷くばかりだった。
 「お茶と椎茸くらいしか、この村にはないですけん」
 そういいながらも母は、お茶と、握り鮨に稲荷寿司、巻寿司を出した。握り鮨は、母の弟が魚屋をやっているので、そこから持ってきてもらったのだ。
 「もう親がどうのこうの、言う年でもないですから、二人が決めたら、それが一番。信枝さん。よろしくお願いします。あなたなら、もう本当に申し分ないです。周吾にはもったいないです。どうか、よろしくお願いします」
 父はそう言って、頭を下げた。
 「お父さん、そんな、どうか、お顔を上げてください。私なんかでいいのか、解りませんが、どうかよろしくお願い致します。お母様、どうかよろしくお願い致します」
 ノッピは、手を突いて頭を下げた。
 「信枝さん、もういいですけん。どうか、お上げになって」
 母がノッピの手を取って握った。二人が頷く。
 「お父様、お母様、どうか仏間に挨拶させて下さい」
 周吾が仏間に案内して、ローソクと線香に火をつけ合掌した。
ノッピが早く母を亡くして、家事をしながら父を助け、非行に走ることなく勉強して、医大に入った苦労を父母は褒めた。それでも、
 「信枝さん、それでどうして大分医大に入ったんな」
 と母が聞く。ノッピは、
 「東京には医大はあるのですけど、国立でないと、お金がかかるし、東京の国立は、東大でしょ。あそこは無理だし。大分なら、まだ住みやすいかな、と思って」
 周吾はノッピが大分を選んだ理由がもう一つあるのを知っている。国東半島の六郷満山の仏教遺跡や臼杵の石仏など、県内多数に点在する史跡を見られる楽しみを持っていたからだ。
 二時間ほどいて、二人は周吾の実家を出た。母はノッピに、お茶や乾椎茸、乾筍、野菜などをどっさり持たせてくれた。そんなに、一人ですから、食べきれません、といっても聞かない。余る物は周吾が寮に持っていくことにして車を出した。両親とも見送りに出てくれた。予想通りだった。ノッピを見て嫌う人はいない。周吾が車を出して行くと、近所のおばさんたちが立ち話をしていて、二人を見た。ノッピは両親が見なくなるまで頭を下げていた。
 「ノッピありがとう。いろいろ気を使わせてすまない」
 「アオ、何言ってるの。私の親になる人よ。私は特別に気を使う。だってアオにとって大事な人は、私にとっても大事な人よ。他の人とは違うの。気を使うべきだと思うわ。でも、気を使う、と言っても、今、何ができるわけでもないけど」
 「ノッピありがとう。父の言葉が全てだと思うよ。こんな息子にとんでもない立派な嫁が来て、今ごろ、夢じゃなかろうか、って二人で話をしていると思う」
  「認めてもらってほっとしたわ」
 「あまりに田舎で、吃驚したでしょ。さっき帰る時に、道におばさんが立っていたの、見た?」
 「いいえ」
 ノッピは頭を下げていたのだ。
 「でもね、車に乗る時からいたので、きっとノッピを見ているよ。明日からあの辺は大変だよ」
 「どうして」
 「周ちゃんが、えらい別嬪さんを連れて帰ちょった。どこんし(どこの人)、じゃろうか。ってね」
 「アオ、面白そう。私もそこに入ってみたいわ」
 「ノッピ。大好きだよ」
 「?」
 「普通さあ、田舎の噂話が出ると、みんな敬遠するよ。でも、ノッピは自分が噂の主役なのに、仲間になろうとする。田舎のコミニテイは異質に見えるけど、生活には重要な役割を果たしている。ノッピはそれを認めてくれて、卑下しない。僕も田舎の生まれで、そんなのが恥ずかしいと思う時がある。でも母達は、あれを無くしたら生きる元気をなくすと思う。ノッピはそれを認めてくれるから、大好き」
 

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