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青の彷徨  前編 19

 五月二日、二人は埼玉に行った。
 ノッピの実家に着いたのは四時頃だった。ノッピのお父さんは、にこやかに迎えてくれた。周吾は、信枝さんと結婚させてください、と言うつもりだった。挨拶もそこそこに、畳の居間に通され二人並んで座ると、周吾はもう一度挨拶しようと思って正座のまま緊張していると、お父さんが、
 「信枝、おめでとう。よかったな。よかったな」
 と言った。
 「ありがとう」
 ノッピは、お父さんに答えた。周吾は、自分がなすべきことを思い出して、
 「初めまして、蒼井周吾と申します。この度は突然お伺いして申し訳ありません。大分の医薬品卸会社キョーヤクに勤めています。不束者ですが、信枝さんと結婚させて下さい。どうかお願い致します」
 とお辞儀をした。ノッピもお辞儀をした。
 「いや、周吾さん。どうか信枝を頼みます。もう心配はしなくていいようだから、周吾さんに任せます。よかった」
 「ありがとうございます。私には勿体ない人ですが、ご縁があったことに恩を感じて、添い遂げたいと思います。もしよろしければ、仏間に挨拶させていただきたいと思います」
 「信枝、一緒に行っておくれ」
 周吾とノッピは、亡母の仏前に手を合わせた。ノッピをこの世に生んでくれてありがとうございます。このたび、ご縁があって、結婚させていただくことになりました。何卒、ご慈悲を持って見守り下さい。周吾はそう胸のうちで挨拶をした。
 ノッピの父は、中肉のしっかりした体つきで、顔立ちはノッピに似ていて、瓜実顔の眼は優しく鼻は高く、口元はきりりとした男前であった。ノッピほどの美人の親だから、当然だろう、と周吾は思った。
 再婚した母が、お茶やお菓子を出してきた。周吾はお土産の、実家のお茶と乾椎茸、それに今朝大分で買った、関鯵と関鯖が入った発泡スチロールの白い箱を渡した。
 「信枝。関鯵関鯖を持って来てくれたのか」
 「そうよ。お父さん。周吾さんは、お父さんと食べ物の好みがそっくりよ」
 「そうか、酒は飲めるのかな」
 「お父さんと一緒。底なしよ」
 「底なしはないですよ。信枝さんの方がいけますよ」
 「アオ、そんなこと言わない」
 「はい、すみません」
 「周吾さん。もう信枝に負けていたら、いけませんよ。あれもよう飲む」
 「でもお父さん。最近それが、大飲みをしないんです。知合った頃は、うわばみか、と思いました」
 「もう年だからじゃないか。あれももう三十を越したから」
 ノッピが義母の手伝いから戻って、お茶を入れ直して来た。
 「お父さん、このお茶は、周吾さんのお父さんが、手作りしたお茶よ。美味しいから飲んでみて。大きな釜で一日かけて作るらしいの。規模は小さいけど有名なお茶なの」
 ノッピのお父さんは大学の先生をしている。近くの私大の教授をしながら、他の私大の講座を掛け持ちしている。専門は地方文化だという。時代時代の地域の文化がどう開いたか、継承されているかを研究している。はやく奥様を亡くされて、娘を抱え大変だったのでは、と周吾が尋ねると、ノッピと義母がそばにいないのをみて、
 「そうみんな思うだろうが、それどころじゃなかった。情けないかもしれないが、私は死んだ妻が忘れられず、それこそ毎日思いに耽っていた。娘もそうだけど、自分の仕事のため、とか、生活のため、というのじゃなく、妻の思いに耽るために、生活を続けてきたようなものさ。おかしいだろう」
 「いえ。よくわかります。喪失が大きいほど、回復には時間がかかります。それだけ深かったのだと思います。思いやる心が」
 「知合って結婚して看取るまで十五年。再婚するのにそれから十六年かかった」
 「ご心情お察し致します」
 「ありがとう。情けない男だよ」
 「いえそんなことはありません。間違いなく強いからこそ、この年月が必要だったと思います」
 「あら、ふたりとも、なに深刻な顔をして、お刺身造ったからいただきましょう。お父さん、周吾さんもお魚が大好きなの」
 「そう、私もね、肉もいいけど、新鮮な魚が好きでね。大分は美味しいものがいっぱいあっていいね」
 「そうです。他に自慢できるものはないですが、海の幸には恵まれています。関鯵、関鯖以外にも、関は鯛も、中津の鱧、国東は銀太刀、車海老、日出の城下鰈、別府縮緬、臼杵はふぐでしょう。津久見の鮪、万丈は鰤。海の食べ物だけは自慢できます」
 「凄いなあ」
 「お父さん、この前ね、周吾さんと万丈の鶴見に行ってご飯食べたの。そこのお店がね、漁師さん直営で、新鮮な魚貝が山盛り。私達普通の海鮮定食を食べたけど、それが凄いの。お刺身も山盛り。鯵の焼き魚もおいしいし、それにね、お刺身の残りを、専用のたれにつけて、熱々のご飯にのせて食べるの。あつめし、って言うのだけど、これは別腹。ほんと絶品だったの。それがさ、どう安く見ても五千円はすると思えるのが、千二百円よ。信じられなかったわ」
 「お前達は、私にそんな、旨い物を話ばかり披露してもしょうがない。私は思うだけでどうにもならんぞ」
 「そうね、お父さん。まあ今日はこれで、関鯵と関鯖だけど、絶品よ。お義母さんどうぞ。召し上がれ」
 「じゃあ、乾杯しよう。信枝おめでとう」
 みんなで乾杯した。ノッピは目を潤ませている。思った以上のお父さんだ。周吾は、最初の緊張を忘れ、お父さんと話が弾んだ。地方文化の研究で、今は山形を中心に調べている、と言う話になった時、周吾は自分も学生の時に山形に行って、主に教育運動を調べたことがある話をした。
 「その時は全く知らなかったのですが、真壁仁先生と、山形市教育会館の畳の部屋で、それこそ膝詰でお話を伺ったことがあります。野の教育論、というご本を出されていて、当時の北方性教育運動と絡めて、お話をしました。そんなに有名な方とは知らずに。いま思うと勿体ないことでした。せめて詩集を読んで行ったら、もっと深い話が出来ただろうとか。サインをもらっとけばよかったとか。世間知らず、若気の至り、なんでしょうが、残念です」
 「そうか、周吾君は真壁仁先生と会ったことがあるのか。それは凄いことだ。山形は面白いところで、真壁仁先生みたいに、独学であれほどになる何か、地方の力みたいものがあるのだと思う。それに天才みたいな人物もでる」
 「幕末の清河八郎ですか」
 「そう、周吾君は凄いな。あれを天才と見る人はそういない。でもな、あれは傑物を過ぎて、天才だと思う」
 「生家が裕福だったといえ、武家ではなかった訳ですから、学問にしても剣術しても、簡単に大成する。新選組を幕府転覆に利用するなんて考えは、無謀ではあるけど、身一つで国を変えたかも知れないわけですから。恐ろしい男だったと思います」
 「そう、彼の最後だけ見れば、幕末の脇役も脇役に過ぎないかも知れないが、彼の文学性は非常に高い」
 「何をそんな、研究室の中のようなお話をしているの」
 ノッピが口を挟んだ。
 「いや、研究室じゃないが、周吾君が色々物知りで楽しいよ」
 「そうなのよ、私の知らないこといっぱい知っているの」
 「そんなことはないです。たまたま、行ったことがあるところの話です」
 「いあ、その山形はね、文学者をいっぱい出している。茂吉も、丸谷才一も、井上ひさしも、最近藤沢周平って、出てきたの、知っている?」
 「ええ、〔溟い海〕なんて、あれは〔暗殺の年輪〕よりいいと思うし、最近は〔海鳴り〕で感動しました。時代小説という範疇を越えていると思います。ドストエフスキーの世界を垣間見るような、あれが新聞小説だったのが、信じられないです。今まで、山本周五郎の〔ながい坂〕が一番いい、と思っていましたが、〔蝉しぐれ〕もいいです。美しくて、人間が生き生きしていて、それでいて展開が流れるようで淀みもない。情景の美しさが浮かんでくるようです」
 「そうだろ、そうだろう。いや周吾君、藤沢周平はいい。今度鶴岡に行って見ようと思っている」
 「そうですか、いいですね。あの海坂のモデルの町中を歩いてみたいです。黄金村あたりにも、湯田川にも行きたいです」
 「一緒に行こう」
 「行きます。何としても行きます」
 「だだちゃ豆で一杯、やりたいねえ」
 「はい」
 「あきれた、もう二人でどこか行く話をしているの」
 「信枝、お前は大分に帰れば周吾君を独占できる。今日は私に貸してくれ。私は、今まで仕事で色んな人と付合って来た。しかし、あれもこれも、ざっくばらんに話して気が張らず。好き勝手に言いあってもまだ先に話が弾む。こんなこと今までなかった。大学と家の往復の間に、仕事の研究が付きまとうだけ、趣味だろうが、何かの噂だろうが、何でも気軽に話をする相手がいない。職業柄といえばそうだろうが、気がつけばもう何年もそんな生活をしていたな、と、今思ったよ。今の女房はそれなりにありがたいよ。随分助けられた。でもな、女は女で、男は男だ。今日はほんとうにありがたい」
 「そんな、お父さん、僕もほんとうに、自分の好みをあれこれ並べるだけですが、好きな世界が少しでも共有できるのは本当に楽しいです。変な意味かも知れませんが、オタク仲間みたいな親近感があります」
 「それだよ。私と周吾君はオタクだ」
 「変な親子が出来たものね」
 「信枝さん。お父さんがこんなに、お喋りだなんて、私知らなかったわ。いつも私の言うことに、ああ、とか、そう、とか、しか言わないんだから。本当よ」
 「そうでしょ。私がここにいる時だって、用のないことは喋らないもの」
 「それで周吾さんも信枝さんも、結婚式など、どうするの?」
と義母が聞いて来た。ノッピが、
 「今私は大分市内の家から近い病院に通っている。周吾さんは万丈市内の会社の寮にいる。万丈までは一時間だから、通えなくもないの。今年で周吾さんは四年目になるし、来年は転勤かも知れないし。それにね、周吾さん、最優秀営業員賞をもらったの。百人いる内のたった一人よ。凄いでしょ。会社は土日休みだから、週末大分に帰って来て、月曜朝万丈に行く。月、火、水、木の四日、寮に泊まって、大分に帰る生活にしているの。営業の仕事だから、夜遅くなることも多いし、私だって病院で何が起きるか解らないから、お互い無理をしない範囲で一緒にいようと思っている。仕事が早く終る日は、大分まで帰って来てくれる。だから、入籍だけして早く落ちつきたい。結婚式なんて、私は二回目になるし、周吾さんが、来年四月どこに行くか、わかった時点で考えようか、って話をしていたの」
 「そうか、それで周吾君もいいのか?」
 とお父さんが聞いて来た。
 「はい、僕は信枝さんと一緒に居さえすれば十分ですから」
 「あらら、おのろけなの」
 義母が言う。
 「いえ、結婚式とか、ああいうのは苦手で、できたら避けたいです。信枝さんが望むなら、何だってしますが」
 「信枝。幸せだな。結婚式もお前の都合、周吾君の都合だけではいかんだろう。周吾君のご両親の意見も聞いて、来年でもいい。入籍の後でもいいから、けじめの意味でもした方がいいんじゃないか。私も凝々しいのは嫌いだが、地域ごとに習慣があって、簡単に変えられんこともある。長男が結婚したのに、披露もしないのか、となると、ご両親の恩に背くことにもなる。話をしてみるといい。私は何だっていい。お前達の決めた通りに随う」
 「はい、ありがとうございます」
 と周吾は頭を下げた。
 その後も話は、文学から音楽に広がり、お父さんは、かなり酒も召し上がった。しまいには、
 「今世の中、投資や投機に熱中しているが、私は、これは長く続かんと思う。今土地を買って高く売ろうなんて考えている奴は、おそらく痛い目にあうと思うよ。その後、地価は下がる。特に地方は下がると思う。そうなったら、私ももう大学からお呼びもかからないから、大分へ移って旨い魚を食べようか、と思っている。邪魔じゃないかな」
 「是非来て下さい」
 周吾は言った。
 「お父さん、お義母さんは?」
 「私も一緒に行くわ、私身寄りが全然ないの」
 「私もそうだ。親戚も兄弟もいないし、この家を売って、大分で、遺跡を見て歩きたいと思っている」
 「そうよ。お父さん。大分はね、国東の六郷満山の遺跡群はすごいよ。他にもいっぱいある」
 「ここもね。昔はまだ長閑だった。もう隙間もないくらい家が建って、いき苦しくて堪らない。人間、緑があって、空があって、風の通るところに住まないと」
 「待っていますから、是非来て下さい」
 「アオいや周吾、その時私達、転勤でどこにいるかしら?沖縄だったりして」
 「沖縄には仏の遺跡はあったかな」
 「周吾君は仏の遺跡も好きなのか」
 「お父さん、だからアオいや周吾さんは、全部お父さんと趣味が合うのよ。それに、その大らかな優しさ、慌てないけどしっかりしている。物に拘らない。性格までそっくりよ。でしよ?」
 「信枝さん、その通りよ。私もそう思うわ」
 

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