新茶と自転車

 毎年、五月の連休前になると、行楽地の人出予想とか、渋滞予想などが報道される。このニュースを耳にすると、大人になって故郷を離れて暮らしていても、非常に違和感を覚えてしまう。山が新緑に燃え盛る頃は、我が家は休む暇もない毎日が続いている。子供の頃は、ゴールデンウイークの子供の日にはどこか行けるかも、と思ったこともあったが、それは一度としてなかった。
 まずお茶だ。釜でお茶を作った。作ったお茶は売った。静岡、宇治、知覧、八女などに比べるとはるかに規模は小さいが、規模は小さいが因尾茶として認知されていたし、我が家では貴重な現金収入になった。
 父は早朝から夜遅くまで、一日中釜の前に座っていた。母たちはお茶摘みだ。一週間は続いた。八十八夜のお茶は縁起物だが、当時は寒かったので、八十八夜のお茶は摘み始めのお茶だった。祖母は縁起物が好きでせっせと摘んだ。どこか他所に出かけるとか、試験を受けに行くとか、そんなときに祖母は八十八夜のお茶を必ず入れた。祖母にとってはなくてはならないものだ。まだ摘むには早かろうが関係ないのだ。八十八夜が過ぎると一気にお茶の葉が広がっていく。人海戦術をしても、お茶の葉を摘まねばならなくなる。近所の親戚のお婆さんが毎年手伝いに来てくれた。祖母と一緒に一日中お喋りをしながらお茶の葉を摘んだ。子供はその茶摘みの現場にこびり(小昼=おやつ)を運んだ。持っていった饅頭やお菓子をそこで食べられるのがお手伝いのご褒美なのだ。摘んできた葉は、陽射しを避けて、蔵や室や厩の、セメント張りの床に敷いた筵の上に均等に干す。一晩そうすると葉の水分がかなり無くなってくる。茶の葉の伸びるのは早いから、雨が降っても摘まなければいけない。雨に濡れた茶葉は、筵干中何度か手を入れて上下を入れ替える。そうして一夜干した葉を一釜分の分量に分けていく。はじめの頃は一日摘んできた茶葉の量も少ないが、日が経ってくると、どんどん量が増えてくる。葉が成長するからだ。
 お茶は最低五回釜に入れる。直径一m最深部五十㎝くらいの丸釜を斜めに据えている。製茶にはこの斜めの角度が不可欠だ。こうすることで茶葉を均等に火にかけられるようになる。人が座る前が低く、向こうが高くなっている。茶葉を釜の中で回すのが便利になる。最初は燃え盛っている釜に、分けておいた一釜の半分ほどの生茶葉を入れる。小枝などをたくさんくべ、すぐ燃えて火力が一時的に強くなるようにする。このときの火加減が一番難しいのかも知れない。一気に水分を飛ばしてしまわないといけない。素手では無理、顔も火照る。又になった箸より長い木を、それぞれ左右の手に持って、釜の中で茶葉を混ぜ返す。釜の底に置いたままだと焼けてしまうか、焦げてしまうから、釜の中で混ぜ返さなければならない。水分が蒸発してしんなりしたら、専用の大きな団扇ですくいだす。すくいだすときの火力は、小枝などが燃えてしまっているから落ちている。茶葉の量と、火力の薪の量とを推し量ってやらねばならない。この最初の釜入れで、茶葉の量は随分と少なくなる。最盛期には、この最初の釜を八回も十二回もする。
 二番釜は、最初の釜に比べると火力はやや劣るが、まだ素手では無理だ。薪では中径木が真っ赤になって数本あるくらいの火力か。この段階でぐっと茶葉がしまってくる。二番釜から出すと、筵の上で揉む。この作業をするため、釜の中から燃え盛る薪を取り出す。それでも釜は余熱で触れない。茶葉を揉んで収縮を促進させる。
 三番釜は、前に取り出した薪を釜に戻す。二番釜に比べると一気に火力が落ちる。素手で茶葉を回せるようになって、釜の温度は低くなる。それでも素手で釜に触れると火傷する。茶葉一枚の上に手を置くから素手でもいい。ここでお茶の形を作る。両手を合わせて擦り合わせるようにすると、茶葉が細長くなる。
 四番釜になるともう緑茶になる。温度は少し高くする。少し高くするが、素手で茶葉を回していて、気が付かないうちに手が熱くなると、茶葉の温度が上がりすぎたことになる。そうなるとお茶になったとき、色が黄色で香りがいいが失敗作になる。一瞬として気が抜けない作業が続く。この段階でもまだ葉の収縮が足りない。
五番釜は仕上げになる。温度は人肌よりやや高い。お茶の色が青白くなってくる。時には六番釜をすることもある。黒に近い緑のままだとまだ青臭いお茶だ。釜の火は朝入れたら夜しまうまで消さない。最初は生茶で何釜分もあったのが、最後は一つになる。お茶は火力が足りないと、薄い黄色で生臭い香りがするお茶になり、火力が強すぎると濃い黄色で香ばしいが旨みのないお茶になる。釜間の時間、天候などと、火加減のバランスが難しい。 
 出来上がったお茶は祖母が大きなアルミ製の茶缶に入れて佐伯まで売りに行った。馴染のお客さんがあって、新茶の時期が近づくと注文を取りに行っておく。私が覚えているのは着物屋さんに陶磁器屋さん、それに自転車屋さんだ。祖母の馴染のお客さんだった。子供の私も荷物持ちの手伝いについていったことが何度かあった。ある年、子供用の自転車が欲しくて、祖母に何度も頼んでいた。お茶を持っていくときは、自転車を買ってもらえるときでもあった。バスに酔うのが嫌だったが、酔いが覚めてしまうと現金なもので、ランチを食べさせてもらうのが楽しみだった。祖母は孫に甘く、ミルクセーキとかフルーツパフェとか食べさせてくれた。しかし、話が長くて子供の私は直ぐ飽きた。まだその頃は、佐伯の街中に、戦争帰りの負傷軍人さんがいて、街頭募金をしていた。片足がない人や、片腕がない軍服を着た人が道の端に座って募金箱を前においていた。茶を売りに行って、祖母は着物用の反物を買ったり、祖父のために植木鉢を買ったりした。
 私の自転車もお茶を買ってくれる自転車さんから買ってもらった。私は都合三台買ってもらった。最初は小学校の低学年だったと思う。自転車を買っても、持って帰る手段がなかったから、その頃車で商売をしていた馴染の魚屋さんが運んでくれた。
 中学は自転車通学だったが、途中交通事故で一台壊してしまった。雨の日に傘をさして自転車に乗って、前を見ずに走り、止まっているバスにぶつけてしまった。田舎の狭い道だが珍しく長い直線のところで、バスの運転手が向こうから傘が走って来るのを見て、バスを止めていたらしい。バスと人は無事だった。不幸中の幸いだった。雨に濡れた以上に寒い思いをした。最初の子供用の自転車に乗っているときも怖い思いをしたことがある。三竈江橋を渡るには、やや右カーブの坂道を登らなければならない。普通に行くなら何の支障もない。その頃まだ舗装がされていなかった。道の路肩は石を積み上げているから、端だけ三十㎝程セメント張りになっていた。自転車はここなら走りやすい。それに狭いコースを走る楽しさもある。しかも登り坂のカーブだ。挑戦して駆け登ったが、三十㎝のコースからぐらついて外れ、道の脇下の畑に落ちてしまった。二m、自転車に跨ったまま落下した。落ちながら自転車のハンドルを持って、自転車の横に着地した。このときは人も自転車も無事だった。そのまま自転車を押して三竈江神社の角地の畑から出ると、神社の中を戻って道に戻った。結局遠回りをして橋を渡った。小さい頃から山中の急斜面を駆け回って遊んでいるから、少し高いところから落ちても怪我はしなかった。
 自転車に最初乗れるようになったのは、大人用の大きくて重い自転車だ。まともには乗れないから、自転車を斜めにして、前輪と後輪の間の、三角のフレームの中に足を片方入れて漕ぐ。子供の体も斜めになる。V字走行だ。よく初めて乗る自転車を、しかもこんな乗り方でやったものだ。坂口安吾は、親はあっても子は育つ、といったが、まさしくそうだった。私は自分の子が自転車に初めて乗るとき、後ろを支えてへとへとになって走ったのだ。私等が子供の頃は、自分の自転車をよく掃除をした。油をさしてパンクの修理も自分でした。中学に通う自転車を買ってもらったときは嬉しかった。だから大事にした。まさに愛車だった。

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