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青の彷徨  前編 24 (終)

 三月決算も終って四月に入った。周吾は転勤になったことを担当先に伝えた。引継ぎの日程では四月十三日までで終了することになっていた。西谷医院の大送別会、森山医院の送別会、万丈北山病院薬局主催の送別会、大手門クリニックの送別会、万丈支店の送別会と続いて引継ぎも全て終わって、後一日、明日は寮の荷物を積み込んで帰るだけとなった時、万丈支店に電話がかかってきた。
 蒼井さん奥様からです、と商品課の浜野玉枝が言ってきた。周吾は何だろう。珍しいな、と思ったが、電話に出た。
 「アオ、私、ごめんね。お仕事中に」
 「ノッピどうした。何かあったのか」
 「違うの、アオ違うのよ、出来たの、出来たの、赤ちゃんが出来たの」
 「え、ほんとうか、間違いないのか」
 「いま産婦人科に行って来たの、間違いないの、嬉しくて、嬉しくて、ごめんね。電話して」
 「ありがとう。嬉しいよ、本当に嬉しいよ」
 「予定日はね、何日だと思う?」
 「ノッピ、そんなの解る訳ないでしょ」
 「十一月一日よ。アオと同じ誕生日」
 「そう、でもそれは生まれてこないことには解らないよ」
 「ううん、絶対にその日に生むの、私」
 「ノッピありがとう、僕はいつでもいい」
 「きょうは帰れないのよね、明日だったね」
 「ごめんね、明日で全部終るから」
 その翌日。
 周吾が万丈での最後の仕事を終えて会社に戻って来たら、
 「蒼井さん、大変です。奥さんが事故に遭われたそうです。すぐ帰ってあげてください。今大分の太陽会病院さんから電話がありました。太陽会病院に運ばれているそうです」
 周吾は頭が真っ白になった。
 ノッピが危ない。自分の命より大事なノッピが危ない。
 周吾は急いだ。赤信号が周吾をいじめる。いらつく。まだか。
 ノッピ助かってくれ。
 ノッピ助かってくれ。
 こんなに遠かったのか。ノッピと自分の距離が、長い道のりが果てしないほど遠くまで続いている。前に車が繋がると、気持ちが焦る。ブレーキランプが見えると、ノッピに危険が点灯しているように見える。
 周吾は急いだ。急いだ。急いだけれど、まだ遠い。ノッピ。ノッピ。ノッピ待ってくれ。祈る。神に祈る。普段縁もないのに祈る。
 熊野磨崖の不動明王に祈る
 阿修羅に祈る。
 ノッピを、ノッピを救ってください。
 周吾は祈りながら急いだ。
 急いで、急いで、長い時間をかけて、やっと太陽会病院に駆け込んだ時、千葉陽子と小野智美が待っていた。
 二人は顔を腫らしていた。
 周吾は二人の顔をみて、信じられない表情をした。
 二人は周吾の顔をみて、それを否定した。そしてハンカチで目を覆って泣いた。
 「ノッピは、ノッピは大丈夫なんでしょ、大丈夫なんでしょ」
 周吾は二人に迫ったが、二人は、こちらへ、と言って、周吾を案内した。そこは信じられない場所だった。
 ノッピは狭い部屋の真ん中に置かれたベッドに寝かされ、顔には白い布がかけられていた。点滴や人口呼吸器や酸素の設備もない部屋だった。
 ノッピは死んだ?
 周吾は真実を確認しようとした。布を捲る。ノッピが目を瞑っている。
 「ノッピ。ノッピ、僕だよ。やっと終ったんだよ。明日からもう、ずうと一緒だよ。どうしたんだよ。ノッピ何が起こったんだよ。なんでこんなところにいるんだよ。ノッピ。ノッピ。ノッピ」
 周吾はノッピの顔がきれいだったので、なぜそうなったか理解に苦しんだ。
 「ノッピ。赤ちゃん出来たって、昨日あれだけ喜んだじゃないか。ノッピ。どうしたんだよ。どうしてこんなところにいるんだよ」
 周吾は返事がないノッピを訝しそうに見つめ、ノッピに掛けられている毛布をゆっくりはがした。ノッピは左半身に大きな打撲があった。顔はこれだけきれいなのに、全身は相当な衝撃があったこと証明していた。
 千葉陽子が口を切った。
 ノッピが診察を終えて病院をでた後に、正面のあの先の信号で、横断歩道を渡ろうと待っていた時、子供が飛び出した。小学校に上がる前くらいの男の子だった。
 危ないと思って、子供を捕まえ回転して押し戻した。そこに車が猛スピードでぶつかってきた。子供は助かったが、ノッピは、ここに担ぎこまれた。一緒に病院を出た事務の子が見ていたそうだ 蒼井先生が事故に遭われました。救急車呼ぶより、病院から担架を運んだ。その方が早いから。
 ここに運ばれ救急外科に担ぎこまれたが、もうその時には、意識はなかった。外科の話では外傷性ショックだろう、ということだ。
 顔だけ見ればなぜそんなひどい目に遭ったのか解りません。私達も担ぎ込まれる時から見ていましたから。千葉陽子はそう言った。
 信枝先生は今日私に、赤ちゃんが出来たの、予定日がアオと一緒なの、ほんとうに嬉しそうに話してくれたんです。小野智美が言った。
 ノッピが事故に遭った?
 二人は何を言っているのだ。ノッピは僕のそばにいる。
 ノッピは何も言わない。顔には白い布が掛けられている。
 周吾はノッピが死んだ?うそだ。これは夢を見ているのだ。
 ノッピのベッドに肘をかけ、ノッピの腕に手を置いた。
 ノッピは冷たかった。
 周吾は信じたくない。ノッピ、なぜ何も言わないのか。
 「ノッピ。ノッピ。ノッピ」
 周吾の膝は崩れた。膝をついたまま、周吾は放心した。
 ノッピはきれいなままだ。しばらく放心したまま、周吾は立ち上った。ノッピの左半身を擦った。毛布の上から、優しく擦った。痛かっただろ。ノッピ痛かっただろ。腰を擦り、足を擦る。ノッピやっと一緒に暮らせるのに。周吾はノッピの頬に両手を添えた。ノッピきれいだよ。いつも美しいよ。周吾はそのまま立ちつくしていた。
 千葉陽子と小野智美はもうその部屋にはいなかった。二人は外に出て、周吾が出てくるのを待っていたが、それには長い時間がかかった。
 やがて、二人が待ちくたびれて、部屋の中の周吾に声をかけようか、どうしようか、考え始めた時、周吾の号泣が聞こえてきた。
 周吾は悟った。ノッピはもう返事もしない。これだけ痛い目に遭って、もう声も出せない。赤ちゃんだって産めなくなった。もうノッピは前の姿で、帰って来られないのだ。周吾は一人になったのだ。当り前の事実に気づいた時、周吾はノッピに戻ってきて欲しいと思って、涙をこぼした。あたり構わず叫んだ。
 ノッピ。戻ってきてくれ。ノッピ。
 ノッピ戻ってきてくれ。ノッピの胸に顔を埋めて周吾は泣いた。泣いて叫んだ。
 ノッピ愛しているよ。ノッピは僕の女神様だよ。
 ノッピ、ノッピ、戻ってきてくれ。また国東回ろうよ。奈良にも行こうよ。約束していたじゃないか。
 ノッピ、赤ちゃん産まれるんだろう。あんなに喜んでいたじゃないか。
 ノッピ、ノッピ。帰ってきてくれよ。ノッピ。
 その後どうなったか、周吾はよく覚えていない。太陽会病院の院長が周吾の出てくるのを待っていて、周吾も挨拶をした。何を喋ったか、覚えていない。院長が言うことは、今後の段取りについてだった。周吾は何を話したか、とにかくノッピを連れて帰ると言った。院長はお棺を用意させて頂きたい、それにご遺体を入れて病院の職員に運ばせるから、といわれたようだった。院長は、蒼井先生は病院から出られて、自宅に帰り着くまでの間に事故に遭われましたので、労災になります。病院でできることはさせていただきます。葬祭場に、蒼井様のご指定がなければ、太陽会で決めさせていただけませんか。周吾に依存はなかった。明日夜の通夜、明後日本葬でお願い致します。蒼井家と太陽会病院の合同葬儀ということで、よろしいでしょうか。そんな話だった。
 周吾はノッピと別々の車で、ノッピの家に帰った。ノッピと二人になって、周吾は何をするか、考えた。ノッピをきれいにしてあげないといけない。風呂にお湯を溜め始めたら、ブザーが鳴った。出ると病院から連絡を受けた葬儀屋だった。旅たちのご衣裳をお届けにあがりました。それから、手続きの方は当方で。何をどう返事をしたか覚えていない。葬儀屋が帰ってから、風呂の湯を見に行った。止めなくてはいけなかった。周吾は、ノッピの着ているものを全部脱がせて、体をお湯で絞ったタオルで丁寧に優しくふきあげた。タオルを何枚も使った。痛かっただろう。ノッピ痛かっただろう。僕が代わりになれるなら代わったのに、ノッピ痛かっただろう。周吾は涙をこぼしながら、ノッピに下着から全て着せ替えた。ノッピこれでいいだろうか。ピンクのワンピース、僕が一番気に入っていた服だ。白装束なんかノッピには似合わないよ。いいかな。指輪も拭いてはめ直した。結婚指輪だ。安物だったけど気にいってくれた。ありがとうノッピ。そうだ、ノッピ、あのネックレスもつけないと、真珠のお気に入りのやつだよ。周吾はノッピの化粧台の中にあったのを見つけて来て、ノッピの首につけた。さあ、お顔をもう少しきれいに。周吾はノッピの化粧品から、ノッピがよく使っているのをもってきては、あれこれとやってみた。うまく行きそうでいかないこともあったが、いつものきれいなノッピになった。最後に髪を梳いた。それから周吾は実家と埼玉の家に電話した。もう落ちついていた。目は腫れていたに違いない。リビングに横たわったノッピの棺に寄り添ったまま、周吾はじっとノッピの顔を見つめた。
 翌朝周吾の実家の父母が来た。昼前には埼玉から父が来た。午後になって葬儀屋がノッピを斎場に運んだ。周吾は一緒に行った。周吾はノッピの棺から離れなかった。通夜は夜七時になっていたが、夕方になると、小野智美と今村裕史が来た。何か喋ったかも知れない。薬師寺尚哉も、矢田課長も万丈の支店の人たちも来ていた。梅木康治も和田昇もいたような。決められた時刻に近づくと、見知らぬ人が押しかけてきた。生花も並んでいた。太陽会病院、キョーヤク株式会社、大日製薬、協和製薬、キョーシン製薬など、メーカー関係もあった。西谷医院も森山医院も、大手門クリニックもあった。周吾はそれを見てまた涙をこぼした。
 通夜も葬儀もいつの間にか終った。ノッピも実家は仏教で周吾と同じ禅宗の臨済宗妙心寺派だった。そんな細かいところまで一緒とは。埼玉に行った時そんな話もした。周吾の菩提寺の和尚が来ていた。父が声をかけたのだ。
 火葬場で荼毘に付す。ノッピとはもう会えなくなる。周吾は最後にもう一度ノッピの顔を見た。
 「ノッピきれいだよ」
 周吾はつい口に出た。
 ノッピが骨になって周吾の手に帰ってきた。ノッピさあ一緒に帰ろう。やっと二人だけになれる。
 明日から月曜日だが周吾は一週間会社を休む連絡をした。実家の父母も埼玉の父も心配は要らないからと言って帰した。二人になりたかった。
 ノッピをリビングのテーブルの上において、二人で夜景を見た。ノッピほら、今日もいい天気で星がきれいだよ。国東の小さい明かりが見えるよ。ノッピ今日からもうずうっと一緒だよ。もう万丈に行かなくてもいいよ。毎日ノッピの元に帰ってこられるよ。
 周吾はノッピの骨壷を抱いて一緒にベッドに入って寝た。
 翌朝周吾はノッピをまたリビングのテーブルにおいて、トイレに行ったり、顔を洗ったりする以外は、いつもノッピのそばにいた。ノッピを隣に座らせる。いつもの場所だよ。
 マンションの部屋から見る春の空は青かった。周吾はノッピを抱えて一緒に空を見た。
 それから周吾は骨壷の中から小さい骨を取出して口に入れた。
 「青い空に雲。私大好き。雲って、何もないところに出来て、くっついたり離れたりして、いつか消えていく」
 ノッピは雲の上の人。僕はあの空になりたい。ノッピがいつだって自由でいられるように。僕はいつだってノッピを抱きしめていられるように。
 アオだよ。僕はノッピのアオだ。
 ノッピの青い空だ。 
                             終

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