食べ物事情

 我が家では、何か知らないが宴会がたくさんあった。二間続いた八畳の和室の襖を外してつなげ、折りたたみの長テーブルをコの字に並べて外と内に人が座った。多かったのは葬儀関係だった。私が覚えているだけでも、曽祖父母、姉、妹、弟、伯母、祖父母の葬儀、四十九日があったし、少ない集まりだが、葬儀後四十九日までの間、七日ごとにたんやという法事もあった。それ以外にも集落の集まりで人が集まった。
 台所は土間で、近所の主婦たちが立ち働いた。厩の前の土間には大釜があって、味噌用の豆を煮たし、蒟蒻や豆腐つくりのためにも使われた。それ以外にも臨時の竈がいくつも並べられた。葬儀のときは、集落の同じ組の人たちが手伝う決まりだったので、我が家は同じ組の人に何度も助けられた。働き手は主婦たちだ。協働して会葬の食事を作る。配膳をする。後を片付ける。葬儀は完全に精進料理だから、手間隙がかかる。何しろ葬儀の数が多かった。母は娘二人息子一人を亡くしても、泣いて座っていることはできなかった。同じ組の主婦たちに献立を伝え、材料や調味料、鍋釜の用意に食器の手配もしなければいけない。集落ではこのようなために、共同で食器などを揃えていた。それを借りるか、自前の分でするかは、母の決めることだった。和室二間で宴会があると、子供の私と弟も手伝いをさせられた。酒のおかわりを運び、空の徳利を回収した。時には酒燗番をさせられた。
 春は独活の味噌和えがよく出た。子供はあの苦味が嫌いだった。蕨やぜんまいの山菜も子供の好物ではなかったが、筍は私の大好物だった。家の裏山に孟宗竹が生えていて、食べきれないくらいあった。
 山奥の集落だから五百m程のところに魚屋が一軒だけあったが、その魚屋さんが自転車で魚を売りに来た。朝早く自転車で佐伯の港まで魚を仕入れに行き、自転車の荷台に積んで、途中販売しながら帰ってくる。今みたいに舗装された道ではない。凸凹道を片道三十㎞ほどかけて通う。大変な仕事である。我が家の購入権限者は祖母だった。祖母は毎日魚さんから買い物をした。鯵の塩焼きが夕食に出ても、一匹の三分の一あれば多いほうだ。刺身といえば殆ど鯨だ。冷凍の溶けかかった状態で、冷たくて味が良くわからなかった。時々蒲江から塩海物を持って売りにきた。鯵や鰯の干物、味醂干しなどは貴重な食品だった。中学のときは弁当持参だったが、米に押し麦を混ぜた麦飯に、鯵の丸干を二本焼いたのが新聞紙に包まれてあった。麦飯は米がなくて麦を入れていたのではない。米は売るほど作っていたし、麦も自家製だ。健康のために麦飯がいいからだが、中学生の私にとっては麦飯は恥ずかしかった。その上、おかずは新聞紙に包まれた鯵の丸干だ。恥ずかしい思いをした。母も忙しいし、おかずもなかったに違いない。田舎は自給自足が原則だ。弁当のおかずに肉が入ることはまずなかった。たまに卵焼きがあれば、それこそ堂々と弁当を食べられた。たいていは野菜の煮物。煮汁がこぼれて困った。中学も三年になると、悪くなるのか、横着になるのか、いつの頃かはっきり思い出せないが、弁当を持っていかなくなり、昼休みに自転車に乗って帰ってくるようになった。自転車で帰ってきて、昼飯を食べて自転車で行っても、時間はたっぷりあった。そうなると、おかずは何でもいい。よく醤油実をご飯にかけて食べたり、茶漬けにしたりした。母の作る醤油実は好評で、中学二年の夏だったと思う。土曜日だったから弁当は持っていかない。友達三人と川遊びにいく話が決まった。他の三人は私の集落より先にあったが、帰り道私の家によって、私が着替え昼飯を済ませるのを待って一緒にいく話になった。母にその話をすると、友達も一緒に家で飯を食べさせてくれた。そのとき醤油実が三人に気に入られて、食べ盛りの中学生だ、丼飯をお代わりして、みんな三杯以上食べた。よくそんなにご飯を炊いていたものだと、いまになって感心する。飯を食べて三人の家がある集落に向かう道すがら、醤油実が美味かったと話にでたのを覚えている。親戚や知人から、醤油実を作ったら分けてくれと要望もあった。ただ、塩分が多いので、汗をたっぷりかいて仕事をしたならいいが、そうでないものがたくさん食べる食品ではない。
 盆には、母が鮎の昆布巻きを作った。山菜を炊き込んだおこわも母の定番だった。我が家は、誰かの誕生日は必ず赤飯が炊かれた。小豆も自家製だ。ケーキはなかった。母が作ってくれたおやつは、米粉を練って中に餡を入れ蒸したもの、小麦粉にイーストを加えて中に餡を入れるか、豆を混ぜてふっくらと蒸したのが多かった。薩摩芋を切って乾燥してその粉で作った黒いもちもあった。かんくろ餅といって美味しかったが、手間隙がかかり過ぎるのか、めったになかった。秋は山芋で作ったとろろ汁が美味しかった。山芋は天然物だ。他所の人から分けてもらったり、犬を連れて山を歩いた祖父が掘ってきたりした。私なども祖父と一緒に山で掘ったことがある。大きなすり鉢に山芋が擦り下ろされるが、弾力があってぷりぷりしている。そこへ具たくさんの出し汁を少しずつ入れて連翹で鉢をする。擦らなければ芋の弾力が強くて混ざらない。それをご飯にかけて食べた。
 クリスマスのとき、靴下を枕元においておくと、サンタクロースがプレゼントを持ってきてくれる。そんな話を聞いたので何年かしたが、私には一度もサンタクロースは来てくれなかった。
 お節料理は元旦に食べるらしい。それを知ったのが大人になってからだ。我が家とご近所、近隣の集落を含めて少なくとも我が家の生活台においては、大晦日に食べるのが習慣だ。年越しといって、年越しは済んだか?という挨拶があって、一年を無事締めたかという意味である。夜に年越しをする家が多かったが、我が家は大晦日の昼に年越しをした。朝から父や祖父も一緒に掃除をして、炬燵を片付け囲炉裏に炭を熾す。これは暖のため。囲炉裏の角に炭を分けて五徳をかけ薬缶をおく。これは酒の燗をするため。大家族の熱気に炭火、酒が入って寒くはなかった。昼食から飲み始めて夜寝るまで飲めたのだ。ただ、いつまでも飲みたい人は父だけで、父は寂しかったようだ。私と弟が、酒が飲めるようになるのを楽しみにしていた。私と弟が成人し、父と三人で、大晦日と元旦にはお客さんもあったが、二日で一斗飲んでしまった年があった。母から飲み過ぎだと叱られた覚えがある。いくら正月でも過ぎたようだった。我が家の御節である年越し膳は、高脚膳が年に一回だけ出され、白飯、吸い物、素焼きにして煮込んだ尾頭付きの鯛が必ずついた。あとは自家製の椎茸、大根、人参、蒟蒻、昆布(これは買った)などの煮物、煮豆に大根と人参の酢の物、茹でたフカの酢味噌かけ、蒟蒻と自家製豆腐の白和え、茶碗蒸し、鰤、蛸、烏賊、などの刺身、握り寿司、それにつぼ汁という根菜類を四角に切って椎茸や野菜をたっぷり入れ、味噌味ではない具たくさんの汁物が必ずあった。かまぼこや伊達巻風の卵焼き、海老の天麩羅もあった。当然食べきれない。子供にとっては、大人と同じ一人前に膳がある。それに、普段は食べられないご馳走ばかりだ。正月はこの年越し膳が何より楽しみだった。私の好物は金時豆煮だった。ひとの分までもらって食べた。それに杯が必ずついていた。味見程度の酒が形ばかり子供にも振舞われた。家長の父から注がれ、お返しをしなければいけなかった。それが家族全員からあった。形ばかりとはいえ嘗めるだけでお返しをした。そのとき、一言が添えられた。励ましと感謝の言葉だった。子供もそれなりに言葉を返す。「ひいばあ、今年は足が良くなるように」などだ。いま日本酒を飲むときは、ぐい飲みほどの大きさの杯が多く使われているが、あの頃は小さい一口サイズの杯が使われた。一口で飲めてしまう大きさ。嘗めてしまえばなくなりそうな大きさだ。その杯が何十個も使われた。自分が飲んだその杯を人に差し出し、酒を注ぐ。その酒を飲んだら返杯する。飲めない人もいるから、杯の数は人の五倍、六倍くらいになった。なみなみと酒を満たして並べられた杯が何個もあると、もう遠慮したいという意思表示になるし、手元に杯がなくて、酒も満たされていなければ、誰か杯を回せ、ということになる。

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