焼酎飲み

 村には居酒屋もスナックもなかった。酒屋はあって量り売りもしていたが、家にはよく焼酎飲みが来た。
 私が小学校高学年になる頃には、家でただ一人焼酎を飲む曾祖母が亡くなった。曾祖母は晩酌に五尺、そのままで飲んだ。曾祖父母は共に働き者で、曾祖母は曾祖父より少し体が大きかった。曾祖父は役場務めをしていたが、役場に出る前に田や畑の仕事をし、役場から戻るとまた田畑に出た。曾祖母は家事炊事を済ませて田畑に出た。おそらく人を雇って作ったのだろう。曾祖父は家の財産を一代で築いた人だった。小さい体でよく働き、質素で酒は飲まない。魚が好きで刺身が好物だった。好物を大事に食べる。冷蔵庫もない時代で、腐る心配もあったのに、刺身を何回かに分けて食べる。高価だったと思う。それも自分だけ。曾祖母は食べない。曾祖母が、夫にだけに出したと思うが、腐れかけていたのも食べていたそうだ。腹を壊したことはなかったらしい。その二人が町に出て昼食を食べる時、曾祖父は必ず定食に酒一本。曾祖母は素饂飩が定番だった。          曾祖父は酒が苦手なのに見栄を張ったに違いない。少しだけ口に含むと後は曾祖母が飲んだ。曾祖母は夫が生きている間は晩酌をしなかった。夫が亡くなって家族から勧められ、大好きな焼酎を五尺飲むようになったのだ。銘柄は地元産の無敵二五度。米焼酎で香りが良く旨かった。その曾祖母が亡くなって、焼酎飲みがいなくなると、もう焼酎はいらなくなるのに相変わらず焼酎はあった。祖父も祖母も酒は飲めなかった。祖父は養子で実家は造り酒屋。その父は大酒飲みだったが自身は病弱の潰瘍持ちで、酒を飲める状態ではなかった。父は専ら日本酒党で、夏も燗酒を飲んだ。
 現役を引退した曾祖母は、縁側に座って外を見る習慣になった。家の前の道を通る人がいると、必ず「茶を飲んで行かんな」と、声をかけるのが癖だった。知っている人、知らない人、関係なし。客が来ると、それから湯を沸かす。給湯器も保温器もない。湯を沸かすのも薪を焚くのだ。湯が沸くのを待ちきれず、帰って行く人もいたそうだ。そのせいかは知らないが、よく人が寄って来た。親戚や知り合いばかりだが、焼酎飲みが多かった。コップにそのまま一杯注いで出す。母は料理が上手なので、急拵えでも小鉢の一品がつく。酒屋でピーナツや裂きイカをつまみに飲むよりいい。なにしろただだ。なかには酒癖のよくないのもいた。いたが、祖父が怖かったに違いない。家に長くいて困らせることもなかった。
 来客と言っても家の前を歩いて帰る人が殆どで、いまのように飲酒運転共助罪にはかからない。仕事帰りも多かった。台所が土間になって長卓がおかれ、そこに座って一杯やるのだ。そのまま居続けて晩飯も食べていく人もいた。近所の人か、その日一緒に仕事をした人が多かった。飲み屋がない村である。家だけでは満足できない者は、他所の家に行って飲むしかない。
父も他所へ行って飲んだ。帰り時を忘れて、迎えに行くのは母か私だった。普段は大人しいのに酒を飲んだらよく喋る。時に夫婦喧嘩になる。母もまた気の強い性格だ。気が強くなければやっていけない。あれだけの苦労をしていたのだ。父も母も気持ちが休まることはなかっただろう。障害のある子を抱え鬱積するものは多かったに違いないが、酒で吐き出すのは許せなかった。私はそんな父を見て酒癖だけはきれいにしようと意識した。お陰で意識を無くして帰って来たことはない。父は反面教師になった。
 焼酎飲みの客の中に、テツわんと呼ばれる人がいた。なぜテツわんと呼ばれるのかわからない。名前は徹雄だが、村の人は皆そう呼んだ。もう二人、智之という名前の人がトモわんと呼ばれ、孝之という名前の人がタカわんと呼ばれた。智之、孝之は兄弟だった。村の中で三人、名前の前半分のあとにわんがついて呼ばれた。その三人のわん、テツわんもトモわんタカわんも、我が家の親戚で、一番良く来る焼酎飲みだった。曾祖父の姉か妹か、もしくは従姉妹か、私はよく知らないが、それぞれ結婚した時、曾祖父が家を建てやったか、土地を与えたか、何かしら援助をしたらしい。分家のような家だと聞いたことがある。テツわんもトモわんもタカわんも、いわば本家筋の家に寄るのだから気兼ねすることもない。盆や正月以外でもよく来てくれた。仏壇が目当てではなくて、焼酎が目当てのような気もした。テツわんとトモわん、この二人がなぜか仲が悪かった。二人揃って来ることはなかったが、どちらか一人来ていると、もう一人は焼酎を飲まずに帰る。この仲の悪い親戚があろうことか、息子と娘が結婚する話になった。男親同士は犬猿の仲だが、本人同士で決めている。一悶着はあったが、無事結婚した。さらに親戚関係は続くことになった。
 トモわんもタカわんもテツわんも、戦争に行った世代だ。トモわんとタカわんも中国に行き、テツわんもまた中国に行った。
 私は当時高校生で、夏休みで家にいた。盆の数日前のことだ。テツわんが寄って来た。買い物に行った帰りに休憩に寄ったのだ。わが家は丁度中間地点にあった。たまたま家に誰もおらず、私が相手をしたが、コップに一杯焼酎を注いで出した。テツわんはちびちび飲んだ。別につまみがなくては飲めない性質ではない。焼酎さえあればいい。どういう訳か戦争の話になった。いまになって思えば、どうしても喋りたい思いに駆られたのだと思う。突然、戦争で何人も人を殺した話をした。戦争は人を殺しに行くのだから当然だが、目の前の温和な、少しは頑固者だが家族を大事にする好々爺が、人殺しをした人とは思えなかった。私は聞きたくない世界の話を聞く嫌悪感を抱いた。一方で聞いておかねばならない使命感も思った。
テツわんは中国に行かされた。シナ人は人ではないと軍隊で言われ続けた。毎日戦争がある。朝一緒に飯を食べた人が夕食にはいない。毎日戦友の遺体を運ぶ。明日は自分がこうなるかもしれないのだ。作戦でシナ人の部落を襲い、男を殺しつくしたあと、女を犯した。テツわんは、おめこした、と言った。周りの日本兵もみんなそうした。上官の命令だった。おめこして、首を絞めて殺した。ころっと逝った。殺すか殺されるかだった。生きて帰れるなど思ってもいなかった。命令に従うだけだった。シナ人は犬猫と同じだ。人ではない。シナ人は殺さなければいけなかった。戦争は行くところじゃない。人が人ではなくなる。テツわんはそう言った。
 焼酎をまたちびりとやった。いつのまにか母が戻って来て、小鉢の一品を作って出した。コップの焼酎はもう少なかった。「もう一杯注ごうか」母は勧めたが、あろうことかテツわんは断った。いつもはもう一杯、もう一杯という人が、である。「どっか悪いんかえ」、「そげなことあねえ」、そんなやり取りがあって、テツわんは半分焼酎を注いでもらった。
 その時、私は怒りに震えていた。若者のもつ純粋な気持ちである。どんな状況であれ許されることではない。その時以降、私はテツわんを見ると、その話を思い出し許せない気持ちになっていた。
いま思えば、テツわんは、若い私に話すことで、自ら心の中に持ち続けた苦しみを解き放ちたかったのではないか。テツわんは、頑固親父で怖そうな外見だが、浮気など浮いた話は全くない、家族を大事にする働き者で、焼酎の飲みすぎはあっても人に迷惑をかけることはなかったし、息子三人、娘二人を育て、テレながらも妻を大事にしているのが傍から見てもわかる人だった。
 父は、終戦前は中学生で、博多の爆弾作りの工場に行かされていた。祖父は兵隊にかかる年は越していたかも知れないが、体格検査で不合格だったと思う。何しろ体重で四十kgなかった人だ。母の兄弟姉妹は十二人だが、伯父が一人戦死した。原爆を受けた伯父が一人いた。テツわんのような話を聞くことはなかったが、毎年盆が来る頃になると、テツわんと戦争の話を思い出す。米焼酎無敵を見ても思い出す。


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