霧の中 8

 また思いがけないことになった。自分から翔太先輩に誘ってもらった。昨夜はいろいろお話をした。楽しかった。翔太先輩は優しい人だ。楽しい話をしてくれるし、しつこく身上を聞いてこない。軽くふんわり包んでくれるようで、居心地がよかった。翔太先輩が、遅くなったから帰るよ。今日はありがとう。美味しい、楽しいご飯をいただいた。じゃ明日は昼に迎えに来るよ。パスタを食べに行こう。ああ、なんてかっこいいの。くどくないし、楽しませてくれるし、次も期待させてくれる。私、翔太先輩に参ったかもしれない。何を着ていこうかしら。メイクをして迷った末に服を決めた。秋だと言ってもまだ暑い。カジュアルな膝上丈の紺色のスカートに白地のTシャツを着て薄いブルーのブラウスを羽織った。白地にピンクのラインが入ったスニーカーを履いてアクセサリーは何もつけなかった。色気のない服装になってしまった。翔太先輩の車の助手席に乗る。
 おお、カスミンいいね、凄く清潔で可愛いよ、部屋のピンクや赤もいいけど、そのすっきりしたスタイルはカスミンの美しさを引き立ているよ。
 翔太先輩はコーディネターもやっていたのですか。
いや、そんな経験はないが、一見地味そうに見えるのが、カスミンを引き立ているのがわかる。カスミンは目鼻立ちが整った美人顔だし、スタイルはいいし、足はきれいだし、すっきりした服がきっと似合うと思う。その通りだよ。
ありがとう。何もないけど、また売れ残りが出たら奮発します。翔太先輩も清潔ですっきりした服で、私、そのスタイル好きです。
 紺のチノパンに黒地皮の厚いベルトをして、白地のポロシャツを着ていた。それに白地に青いラインの入ったスニーカーを履いていていた。なんか地味なペアルックみたいだった。
 リバーサイドに入ると、翔太さんはちょっと迷ってカウンターの奥に座った。私はその隣に座る。マスターが何か驚いたような顔をして、暫くして、いらっしゃいませ、と声をかけてくれた。
 奥さんが水を運んで来て、お似合いだわ、まあペアルックで決めたりして、それに、そのさりげないところが完璧だわ、ねえ、  早く紹介しなさいよ。翔太さんをつついている。
 村川香澄さんです。ぼくの一年下のフルート、昨日ここのパスタの話になって、食べたいって言うので来ました。
 あら、それだけ、翔太、こんな美人知っていて、どうしていままで連れて来なかったの。
 そんな、翔太先輩とは昨日初めてパスタの話になったのです。私が頼んで連れて来てもらいました。ペアルックだなんて、偶然です。昨日は私のお店のお弁当が売れ残ったので、翔太先輩に食べてもらいました。それだけです。私はちょっと説明をしてしまった。
 あら、ごめんなさい。変な意味に取らないでね。翔太が女の人と来るなんて、開店以来ないことだから。それにお似合いのペアルックに見えるし、香澄さんは誰かお付き合いしている人いるの。
いえ、いません。
 だったら、翔太をあげるよ。私のものじゃないけど、いまどきこんなまじめで芯のある男いないよ。優しいし、楽しいし、何より身辺がきれいだよ。どうして彼女がいないのか不思議なくらい。うそは言わないから、それに香澄さんくらいの美人でないと、翔太にはつりあわないよ。
 ママ、そんな、香澄さんを責めないでよ。今日はパスタを食べに来たのだから。香澄さんだって選択の自由はある。ぼくは弁当がもらえるお礼がしたかった。美味しいパスタを作ってよ。
 香澄さん、ごめんね、うちの奥さん遠慮がないから。誰にでもあんなはっきり言うのではないよ。翔太は特別。お客さんだけど、もう身内みたいな、ごめんね、初めて来られた香澄さんには入りづらい店だと思うよ。ここに入ったとき、一瞬翔太が迷ったでしょ。ここは翔太の定位置。むこうのボックスに座ったがほういいか、ちょっと迷ったけど、ここに座るしかない。翔太はそう考えたと思うよ。ボックス席に行くと、翔太が落ち着けない。いつものままのほうが、香澄さんも気楽にいられるはず。そう翔太は思ったと思う。そうだろう翔太。
 そうです。マスターの読み通りです。ぼくはここに来たら必ずこの席に座る。今日カスミンと一緒に来たとき、一瞬迷ったのは確か。カスミンのためにボックス席のほうが良いかも知れない、と少し考えた。ボックス席だと、ぼくが緊張しそうで、カスミンのためには、いつものぼくの隣に座ってもらうのがいいと思った。ママの言うように、こんな美人が彼女なら最高だよ。でもそんなつもりではここには来られないよ。
 香澄さん、翔太はそんなところがいい。いつも気負わず素直だ。でも私からすると不満でもある。うそでも良いから、パスタの美味しそうな店を調べて連れて行くとか、そんな強引さがない。大事にしようとするのはわかるが、もっと欲を出しても良いと思うよ。
 はい、特性カルボナーラよ。香澄さんに気に入ってもらえるかわからないけどどうぞ。奥さんが大盛りパスタを出してくれた。美味しかった。シンプルだけど忘れられない味だった。
 翔太、小城憲治から最近連絡あるか。親が警察官だったから、大学卒業して警察学校に行ったのは聞いたが、どこで警察官になったのか。
 マスター、小城憲治は元々中学の先生になりたかった。親が、警察だ、警察だって言うので、警察に入り、東京の警視庁勤務になったが、自分は絶対に合わない、そう言って、昨年とうとう辞めて、いま教職を受ける勉強を、アルバイトをしながらやっています。さすがに親元には居られないので、都会近郊のS市に住んでいます。
 小城先輩は警察官向きじゃないです。先生のほうが向いています。
 カスミンもそう思うか。
 はい。
 でもカスミン、好きだから、向いているからで、その仕事に就けるとは限らないから。
 そうです、私もまさかの惣菜屋です。
 ぼくもそうだよ。マスターは好きで喫茶店を始めたらしいよ。
 羨ましいです。好きな仕事をご夫婦で出来るなんて。
 香澄さん、そう見えるか。現実は厳しいよ。仕事は好きだから苦にならない。でも、思うようには行かない。夫婦で一緒に仕事をするのも、良いようでそうでない場合もある。
 あら、私だと困るの。
 いやそうじゃないが、一日中一緒だから、仕事のパートナーでは助かっている。夫婦としては、何というか、ただいまもないわけだ。若くはないからいいかも知れないけど、新鮮さが薄れてくる。
 でも、マスターもママも仲は良いですよね。ここに来て険悪な空気を感じたことがないです。
 翔太、ありがとう、お客さんの前で喧嘩も出来ないから、それがいいのかも知れない。我慢していると、そのうち忘れてくる。
 私は忘れていません。
 私はリバーサイドの夫婦も翔太さんもいい空気の中にいると思った。暖かい空気に包まれて楽しい話が続いた。翔太さんが勧めてくれたマスターの自慢のブレンドコーヒーも美味しかった。リバーサイドに二時間居た。翔太さんはいつまで居てもいい雰囲気だが、多分私に気を使ってくれたのだ。
 カスミン長く引き止めてごめんね。そろそろ出ようか。そう言って私の分まで支払ってくれた。
 弁当のお礼だよ。でも私がお願いしたのに。
 香澄さん、ここは翔太に任せなさい。こんな時しか、翔太が女の人に奢るなんてありえないから。奥さんまでそんなことを言う。翔太さんにお礼を言って店を出た。翔太さんの車に乗る。このままうちまで直行するのかな。もっとお話がしたいと思った。

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