霧の中 2

 朝起きたら、翔太先輩からメールが入っていた。昨日はありがとう。助かったよ。それにカスミンが美人になっていて驚いた。翔太先輩はお世辞を言う人だと思わなかったので意外だった。でも嬉しかった。楽器のことを久しぶりに思い出した。しまったままだった。これから出して手入れしよう。翔太先輩が二年、私が一年のとき、マーチングコンテストで初めて地区代表の四校目に入って全国大会に行けた。高校のブラスバンド部には練習場がないから、夜の海水浴場の駐車場に投光機を置いて練習した。移動時、楽器や投光機はレンタカーのトラックで運び、生徒は自転車で往復十キロを通った。私はフルートだからまだ軽くていいけど、チューバやパーカッションは大変だ。楽器を持って駐車場を歩く。何度も何度も。夏は麦わら帽子を被って歩いた。腕は真っ黒になった。水泳部かテニス部みたいに見られた。みんな集まれるのは早くて六時半。それから九時まで、同じ動きの繰り返し。音と合わせて動きの確認。繰り返しの繰り返しが続く。学校が休みの日は朝から夜の九時まで歩き通した。雨が急に降ってきて、大急ぎで自転車をこいで学校まで帰ったこともあった。私が二年のとき、マーチングリーダーは翔太先輩だった。あの年も全国に行けたのだ。奇跡だとみんな思った。地区の中には全国最強豪校の聖加高校がいる。前年は、聖加高校が世界大会出場特選で予選参加しない規定だったので、実質五番目に滑り込めた。その特例がなくなった。全国でもレベルの高い地区の強豪校四校の一角をくずさないと全国には行けない。それでも四番目に入ったのだ。軌跡だった。練習場も持たない学校が二年連続で地区代表になるなんて。あのときの翔太先輩は凄かった。リーダーとしてみんな素直についていった。違和感のないリーダーだった。きつかったけど楽しかった。つい思い出してしまった。
 隣のカフェマドロムはいつもそう。あの日は小松さんがいるはずだけど、あの人、お客さんがいないとすぐトイレに行って、外の喫煙場所でぷかぷかやっている。お客さんが来たら誰か知らせてくれると思っている。ひまわりデパートの中のテナントで、コーヒー屋と惣菜屋とは別々なのだけど、お客さんは同じひまわりデパートだと思っている。それをうまく利用している。あの人、お客さん相手になると愛想がいい。お客さんを平気で値踏みするし、市会議員やその奥さんにおべっかを使うのが上手。選挙のあとだったりすると、大変でしたね、お痩せになったみたいですね、とか、良かったですね、おめでとうございます、とか、裏では悪口を言う癖に平気でゴマをする。お客さんは悪い気がしないから、あら今日は小松さんお休みなの、とか言って来る。自分の友達が来たりすると平気で値引きしたり大盛りサービスする。あの人、朝出て来て夕方になる前には帰るから、絶対にレジ締めはしない。間違いが多いみたいで、私と同年代の林さんや小松さんと同じ年頃でベテラン主婦の甲斐さんがレジ締めに困っている。それを本人に言うと、あら、御免あそばせ、今度気をつけます、とか、だって知り合いが来たのだから値引きしたっていいでしょ、とか全く平気。それに類は友を呼ぶというのか、小松さんの友達は同じような人が多いみたい。あら、小松さんのときは値引きしてもらったわ、とか、きょうはサービスなしなのね、とか平気で言う。お店としてどうだとか、他の店員が相手をしたときどうだとか、全く考えない。自分さえよければいい。それに、あの人、土足で踏み込むようなことを平気で言う。わたしも言われたことをいまでも忘れられない。村川さん、まだ独身なの、いつ結婚するの、なぜこんなお惣菜屋さんなんかにパートで勤めているの。普通の会社に入ればいいのに。そんなこと、親しい付き合いをしている人でもないのに、いきなり言われても返事のしようもなかった。好きでここで働いているのではないし、普通の会社員になれないからなのに。好きな人ができて結婚できたら良いけど、自分だけで決められるものではないでしょ。あの人、ひまわりデパートのテナントを回っては、平気で人が聞けないようなことを聞いてくる。翔太先輩も初めて荷物を届けただけだから、何も起こらずにすんだのよ。もしもう一度、荷物を届けることがあったら、絶対何か聞かれると思う。そんな人なの。あの人のご主人は公務員で、わざわざパートに出ることだってないのに、週三日、それも一日六時間しか働かない。生活に困っていないとパート勤めはできないと決めるのはおかしいけど、自分の思うままにできる人がいる。暮らしている世界が違う。パートに出て半分遊んで気を紛らし、ついでにお小遣いを頂く。国会議員にもそんな人がいる。それに、何よりカフェマドロムの会社としての統治能力が問題よ。あれで潰れないのがおかしい。三代目社長はブランド品に身を包み最新型の外国製高級車に乗って、コーヒーは売れるか、と言って来る。身勝手なパート従業員を教育できなくて、よくお店がやっていける、同じひまわりデパートのテナント従業員はみんな陰でそう言っている。言うほうも問題だけど、あれは言われる小松さんや会社に問題がある。でも、私が考えることでもないし悩むことでもない。ただ呟いだけ。
 でも宅配業者がまさか翔太先輩だなんて、驚いた。男らしくなっていたけど、あまり変わっていない。翔太先輩そのままだった。翔太先輩も臨時社員だ。いま安定した会社の正社員は採用されるのが難しい。私も事務系の正社員が希望なのに、全く違うお惣菜屋のパート。短大を出てから市役所の臨時職員になった一年間が、唯一希望した仕事だったかも知れない。でも市役所の臨時職員は、待遇は安定してよかったが、正職員を助ける仕事だとがっかりした。正職員はお盆の前後に休暇を取って、その埋め合わせに臨時職員で対応させる。勤務態度は申し訳ないけど困らないくらい手を抜いているのが良くわかった。五時になる前から帰る準備を始める。それも仕事みたいに。まるで小学校のとき、昼休みにドッジボールの場所を取るために、給食が終わるのを待ちきれなくて駆け出す男の子のようで、公務員なんてこうして生きているのか。そんな気持ちになった。O市役所の地下駐車場から入ってくると、O市職員労働組合と板に炭で書かれた表札を掛けた部屋があって、常時四、五名の職員がいる。専従職員と呼ばれる人たちだ。専用の電話もコピー機もパソコンも置かれている。市役所の仕事はしないで組合の仕事がそんなにたくさんあるのだろうか。あの人たちの給料は組合から出ている形にはなっているかもしれないが、実質は市から出ているのだ。人事異動で組合から普通の市役所の仕事に戻ってくる人もいる。勤務時間が終わってから、会議室を使って組合の時間を設けるのは権利として認められるとは思うが、あれは組合の驕りではないかと思う。暇で仕方ないような顔をいつもしている。五時になったら帰らせる監視をしているのかもしれない。臨時職員などなくても十分なくらい人はいるし、もっと効率的にすればまだ人も少なくてやれる。それがお役所なのだ。間違って正職員になっても、私はあの仲間には入れない。図太く、自分のことだけで生きていられる傲慢さは、私は持てない。公務員でもまじめな人も中にはいると思うが、私がいた職場には見られなかった。もしいても、あんな職場の雰囲気で高いモラルを保つのは困難に違いない。ああ、また公務員なんかのこと、私にはもう関係ない世界のことなのに。
 あの日もまた売れ残りができて、隣近所のテナントの知り合いにあげた。私も毎度のことながらお弁当を一つもらって帰った。部屋に帰りお弁当を食べて、部屋干しの洗濯物をしまってお風呂にお湯を溜める。その間にメイクを落とし、メールを送りサイトをチェックする。お風呂に入っている間に洗濯機が動いてくれて、お風呂から出ると、洗濯物を干す。それから携帯電話のメールチェック、トモンとミッチからメールがあった。余ったお弁当欲しい、だって。どうやって持って行くと言うのよ。トモンなんか二時間もかかるのに。念力で送れるといいね。でも、まだもらってくれる人がいるからいい。処分しないといけないときは、こんなことをしていていいのかと思う。世界中には屋根のない暮らしをして、食べるものに不自由している人がたくさんいるのに。店の売り上げ至上主義のために、多少の在庫処分を見越しても販売高を上げようとする。どこか違うのではないか。パートの私などの考えなど、どうだって関係ない。現場にいない人が現場に指図をするシステムになっているのだから。お客様のニーズだとか、意見だとか、汲み取ろうとしないのが不思議だ。他の店ではデータを取っているのかもしれない。私には関係ない。私は時間内で決められたことをするだけ。決まったお金を頂くだけ。システムさえしっかりしていればお客はついてくると考えているのだろうか。批判してもどうにもならない。今日は十一時にはお店に立たなければいけない。さあ、それまでの間、することいっぱいだ。部屋の掃除にアイロンかけをして、ドラッグストアとスーパーにお買い物に行っておかないと。

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