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ドコニモナイ、ドコニモナイクニ


さて、『いのちを“つくって”もいいですか?』で扱っているテーマにそって、そこから連想される本・併せて読みたい本(やその他)をあれこれ取り上げてきましたが、本書の第4章「『すばらしい新世界』には行きたくない?」は、この章自体が、一つの小説を軸に、生命科学の進歩がもたらす未来について考察する、という構成になっています。

章タイトルにもあるとおり、第4章で取り上げたのはオルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(原著は1931年)。20世紀、二度の世界大戦とそれに伴う不穏な時代のなかから鋭い作品がいくつも生み出された「ディストピア文学」を代表する作品の一つです。

ディストピア(文学)とは、理想郷(ユートピア)を逆転させた反(アンチ)ユートピアの世界、一見合理的であったり進歩的であるような装いとはうらはらに、人間らしい生が否定されてしまう不条理な世界を、そしてそういう世界を描いた文学や映画などを言います。

その名称からわかるように、ディストピアが描かれるための前提として、理想的なあるべき世界としてのユートピア、が想定されています。ユートピアという言葉自体は、イングランドの思想家トマス・モアが、まさにその名をタイトルとする『ユートピア』(1516)に由来します。モアはこの本で、現実のヨーロッパから遥か遠いところに存在する理想郷の様子を描きます。その世界では私有財産が存在せず、富は共同体全体で分かち合うもの。人々は皆清潔に装い、等しく労働を行い、そして芸術・科学を修めている、そのように描かれています。ただ、これは実際にそのような世界が存在したわけでも、またモア自身がそのような世界を理想像として提示したわけでもなく、その「あり得なさ」を描くことによって現実社会の諷刺、批判を行ったものだと理解されています。ユートピア、という言葉自体、ギリシャ語のοὐ(ou=無い)+τόπος(topos=場所) 、すなわち「どこにもない場所」で意味することからも、そこに込められたメッセージを読み取ることができるでしょう。

モアの後も、ユートピアを描く作品が生み出されましたが、いずれもその根本にある諷刺的な観点を軸にしています。ゆえに、そこは私たちにとって決して愉快な場所であるとは受け取れません。子供向けの翻案のイメージが強いジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』ですが、小人の国リリパット、巨人の国ブロブディンナグ、空飛ぶ科学の島ラピュータ、知的な馬の国フウイヌムといった驚異の世界は、当時のイギリス社会に対する秀逸で痛烈な諷刺であるわけですが、その文脈を離れてみても、そのグロテスクな様はただ楽しく読むにはちょっと強烈すぎるように感じられます。

そして第一次大戦以降、理性や科学の進歩による輝かしい未来、という理想像があちこちで破綻し、人間性が抑圧される現実が生じるなかで、ディストピア文学は一気に花開きます(これもなんだか皮肉な表現のような気もしますね)。

まずは先に挙げたハクスリーの『すばらしい新世界』。私たちの現実世界での世界大戦を想起させるような九年戦争というカタストロフィを経た西暦2540年の世界では、極度に発展した科学技術によって国家が人間を徹底的に管理する社会が築かれています。子供はすべて体外受精によって人工的に計画的に生み出され、あらゆる段階で刷り込みが徹底して行われる。そんな徹底した管理下に置かれながら、「快楽」が何よりも重要なことして提供されているために、管理・統制されている状態であることに何ら疑問を抱くことのない世界。表面的には快適で幸せなようで、極めて歪んだブラックな世界と言えるでしょう。そんな完璧な世界に生じたある綻びが、どのように波紋を広げ、しかしやがて消されていくのか、という物語が描かれます。

そしてディストピア文学といえば、やはりジョージ・オーウェル『1984』(原著は1949年)を誰もが思い浮かべるのではないでしょうか。こちらはより第二次大戦と近い未来に起きた核戦争ののち、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの三つの国に別れた世界。生活のあらゆる面に厳格な管理が行き渡ったオセアニアで生きる主人公は、日々歴史記録の修正を行う仕事に従事しつつ、現体制にぼんやりと疑問を持っている。やがて何人かの人物との運命的に出会い、そして「今、認められているものとは異なる過去」が存在したという確証を得て、禁書を手に入れて体制の背後にあるものを知る。ところが、秘密は露見し、徹底的な拷問と教化によって、その信念や世界認識は修正されていく……「ニュースピーク」「ビッグ・ブラザー」「テレスクリーン」「二重思考」などなど、独特の設定や概念も非常に印象的です(大学1年生の頃に授業で映画を観ましたが、日常の閉塞感と解放への希望、そして……世界観の描写が鮮烈な印象を残す作品だったことを覚えています)。

歴史が漸次書き換えられていく、それによって人間らしい理性や知性が屈従させられていく過程は、同じくオーウェルの『動物農場』でも巧みに描かれています。あ、登場するのは動物たちですが。諷刺としてのフィクション、ということがより明確で、気軽に読み始められる一方で、あまりのグロテスクさに個人的にはちょっとクラクラしてしまう作品でした。

『すばらしい新世界』と『1984』、多少時期は前後しますが、どちらも、社会主義・共産主義の破綻・欺瞞や全体主義の台頭、核を用いた終末的な戦争の予感といった、当時の社会状況に対する差し迫った危機感を端緒に、重大な問いを社会に投げかける作品だと言えるでしょう。ところが、どちらも(実態の見えない)権力に厳格に管理統制される社会、という設定は共通ながら、一方は娯楽・快楽等の人生の快楽・幸福をすべてそがれた灰色の世界、もう一方は徹底的な管理を行うための巧妙な仕掛けとはいえ、快楽・幸福を感じることを全面的に肯定(というより「強制」なのですが)している、という対照的な世界であるのが非常に興味深い。ぜひ、一緒に読んでいただきたいです。

せっかくこの2作を読むならば、ぜひもう1つ、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』(原著は1951年)も併せて。3作とも言わずと知れたディストピア文学の代表作ですが、やはり全て併せて、またいずれもまさに今、読むべき作品だと改めて感じます。

『華氏451度』は、本・読書によって有害な情報が市民にもたらされることを防ぐために、本および読書が禁じられた世界。主人公は密告で見つかった本を「焚書」する作業に従事しています。しかし、やはりある女性との出会いがきっかけで、自分が手掛けてきたその行為に疑問を持ち、そして本を手にした結果……本が失われるなかで、その情報が一人一人の人に託されていく場面(口承伝承への回帰?)には、メディアに関わる人間として考え込まされることが多々ありました。

物語の世界における管理の仕組み、そして主人公がある女性との出会いを通じて世界の綻びを発見し、やがてそこに飛び込むことで真理に迫りながら危機に追われる、という構造は『1984』と極めて似たかたちです。ただ、全体の問いかけとしては、管理社会を生み出すような見えにくい権力的なるもの、を批判するオーウェル作品に対して、『華氏451度』については著者ブラッドベリ自身が明言しているように、これはテレビなど安易に情報を消費できるようになり、思考することを放棄しつつある大衆批判をテーマとしたもの。その点では、刹那的な快楽・幸福と引き換えにあらゆる批判精神や自由意志を放棄して、苦しみも伴う本当の自由を得ようと試みた野蛮人ジョンを最後に死に追い込んだ、大衆のあり方を諷刺する側面が強い『すばらしい新世界』のほうに近い作品と言えるかもしれません。

今さら自分が語るまでもない、超有名な三大ディストピア小説についてくどくど述べてきましたが、実はこの3作、それぞれを読み比べる以外に、今だからこそのもう一つの楽しみ方があります。そう、“新訳”です。

光文社が2006年に始めた「古典新訳文庫」をはじめとして、近年、古典的な名作の「新訳版」が次々と出版されており、翻訳モノ好きにとっては非常にうれしいことです。今ならではの瑞々しい言葉で読む新訳版は、同じ作品ではあってもまたもう一つ別の世界を見ているよう。「やはり定番の旧訳のほうが圧倒的によかった!」とか、個々の訳のスタイルへの賛否なども含めて、こうして古典や翻訳文学の分野が活性化することは、それ自体とてもよい流れが来ているなぁ、と思います。

『すばらしい新世界』は、松村達雄訳(講談社文庫、1974)に対して新訳版が黒原敏行訳(光文社古典新訳文庫、2013)。『1984』は吉田健一・滝口直太郎訳が1950年にありますが、現在は完全に絶版。いわゆる旧訳とされるのは、新庄哲夫訳の早川書房版(最初は1972年、現在まだ流通があるのは1975年版)で、新訳版は高橋和久訳(早川epi文庫、2009)。そして『華氏451度』は宇野利泰訳(初訳は1964、早川書房)ののち、もっとも新しく伊藤典夫訳が出ました(早川文庫SF、2014)

(※以下、あくまで個人の感想です)
『すばらしい新世界』については、いくつかの固有名に関してはどちらにも捨て難いものがあるけれど、作品そのものの雰囲気などを考えると、軽やかな新訳版のほうが自然になじむ印象。一方、『1984』については、先にも述べたように映画を観て、同じタイミングで読んだことの影響もあるのか、私は新庄訳を非常に好んで読んでいます(訳文だけじゃなく、古い版で組まれたぎっちり詰まった小さい文字と、対照的にゆったり取られたマージンもなんだかグッとくるのです)。比較しても、あの不穏な感じは旧訳のほうがいいなぁ、としみじみ。『華氏451度』は、こんな文章を書いているのに恥ずかしながら、実は旧訳を読んだことがありません。比較をしていない状況での印象論で恐縮ですが、新訳はテンポが非常によく、管理社会の閉塞感が漂いつつも、物語のもつ駆動感はとてもよく伝わるなぁ、と感じています。

ありきたりな言い方ではありますが、翻訳に絶対はない。そもそも同一の原テクストを読むということ自体、極めて個人的な経験であって、それを完全に翻訳することは不可能なわけですから。選ばれる訳語やトーンの異動、また原著および翻訳がなされる時期、その歴史社会的背景など、さまざまな要素がそこに集まり、また読み手の側も偶然か、何かに導かれてか、とにかくある一時点でその文章を読むことになる。そういう一つ一つの経験が大事にされてほしいですし、その意味でも同一作品の多様な翻訳、ということには重要な意義があると思います。何と言っても、たくさんの物語が楽しめる、ということだけで素晴らしい価値がありますよね。

さて、ディストピア文学の話にちょっと戻りますと、この三大作品の後も、『時計じかけのオレンジ』(小説、映画)『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(小説、映画「ブレードランナー」)のような近未来SF、また『白い服の男』をはじめとする星新一のショートショート作品や、ジェームズ・クラベル『23分間の奇跡』のように、淡々とした描写ながら思想の書き換え・刷り込みが持つ異様さ・恐ろしさを描いた作品など、多種多様なかたちでディストピア文学といえる作品が紡がれてきています。

一方で、インターネットの爆発的な普及や人工知能などを生み出すテクノロジー、また『いのちを“つくって”もいいですか?』の主題である生命創造につながるようなバイオテクノロジーの発展など、昨今のテクノロジーの発展は私たちの想像していた以上に先へ先へと進みつつあります。20世紀以降のディストピア文学の常套手段であるいわゆるSF的な設定は、「まだ遠い未来予想図」であったからこそ、架空の世界を設定したうえでの諷刺や批判が成り立っていた側面があるのではないでしょうか。私たちの住む現実がその未来予想に重なりつつある現在において、ディストピアの物語はどうすれば書くことが可能で、そしてそれはどのような問いを投げかけ得るのでしょうか。

以前にも紹介したミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』や、伊藤計劃『ハーモニー』、また折々自社本を交えて恐縮ですが、ゲイリー・シュタインガート『スーパー・サッド・トゥルー・ラブ・ストーリー』などは、現代の最新のITおよびバイオテクノロジーの現実およびその未来への射程を捉えつつ、今を生きる私たちに鋭い問題提起をする作品であると思います。また、同じくウエルベックの『服従』は、原著が昨年1月のシャルリー・エブド襲撃事件のその日に発売になったことで大きな話題となりましたが、政治的な問題、そしてグローバル化がその極点に至り、これからあらゆる場面で綻びを生じていくであろうことを予見するものとして、読むべき価値ある1冊だと思います(私はこの本を、ちょうどイギリスの国民投票でEU離脱が可決され、「一つのヨーロッパ」が明らかに崩れたその日に読了しました)。

ただ、ディストピア文学の真の価値は、『すばらしい新世界』『1984』『華氏451度』が今なおその代表作として語られるように、書かれたそのとき(だけ)ではなく、数十年、半世紀、さらに時間を経たときに評価されることにあるのかもしれません。今、このときの切実な課題を諷刺あるいは批判しつつ、それを時代を超えて通じる普遍的な問いとして、かつ魅力的な空想物語としてまとめられるか。

自分の同時代に描かれた、そんなウィットの利いた文学を、数十年後に快く笑いながら読める未来であってほしいものです。今日は折しも参院選の投票日。未来に待つのはユートピアか、ディストピアか。いや、どちらでもあってほしくないな、と思いつつ、これから投票に行ってきます。

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