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「そういえばギリシャ神話ってなんだっけ?の会」によせて<当日編・前編>

さて、開催からすっかり時間が経ってしまいましたが、去る6月29日に、「そういえばギリシャ神話ってなんだっけ?の会」を開催しました。

<予習編(前編後編)>の記事でも触れましたが、今回の会の趣旨は、「知っているようで知らなかったギリシャ神話を、今の自分としてもう一度訪ねてみることで、今の時代や社会を考えてみたり、各々が興味関心のある分野とのつながりを見出したり、ともかく新たな発見を楽しもう」というもの(共催者のせいこさんより)。

会場は、根津駅からほど近く、小さなギャラリーと紅茶のお店・りんごやさん。このような会の場としてご提供いただくのは初めてとのことでしたが、とても快く迎えていただきました。紅茶、とても美味しかったです。

6名の参加者と、主催2名の8名で開催。紅茶とお菓子をいただきながら、はじめに簡単な自己紹介と、この会について楽しみにしていること、興味のあることを話してもらいました。すると、それぞれ異なる立場や関心から入っているのに、不思議と通じるところ、つながるところがいくつもありました。

一人の方から、「ケルト神話についての本を最近読み、その時代のコンテクストによって、文化的アイデンティティを持つために、神話が作られたり使われたりしたという経緯を知った。そこから、神話がどう生まれ、どう使われてきたのか関心がある」という話がありました。

ケルトといえばアイルランドというイメージが強いかと思いますが、歴史学や言語学の成果を踏まえて、ヨーロッパ大陸側にルーツを持つケルト民族とその文化と、アイルランドの文化として伝えられるケルトとは直接的につながるものではないことが明らかにされています。どうやってアイルランドの「島のケルト」が生まれ、形作られていったのか、その全容については謎の部分も多いですが、少なくとも、近代以降にアイルランドの人々のアイデンティティ形成のために、「ケルト」という概念が意識的に利用された、というのは一つの事実です。

実は、歴史上、ギリシャをめぐっても同様のことがありました。現在知られる国としてのギリシャ(共和国)は、古代ギリシャとの直接的なつながりはほぼありません。この地域は、東ローマ帝国の崩壊後、数百年にわたってイスラム王朝のオスマン・トルコの支配下にありました。19世紀になって、オスマン帝国からの独立を目指す動きが起こり、西欧諸国の支援もあって独立を果たした国が、現在のギリシャへと続いています。でもその初代の王は、なんとドイツ人。独立を目指した人にも、また支援をした西欧諸国にも、「西欧文明の基盤にあるギリシャの復興」というイメージがあったのではないかと思いますが、やはりこの動きにも、「ギリシャ」というイメージが政治的に用いられた面が多分にあったようです。

このあたりの経緯については、<予習編・後編>でも紹介した藤村シシン『古代ギリシャのリアル』に詳しく述べられています。「古代ギリシャ」として私たちがイメージするものと、その実態のギャップを非常に楽しく、しかも詳細な実証的な資料に基づいて解説しています。

さて、ここからが当日の話の主題です。「ギリシャ神話」と聞いたときに、私たちが思い浮かべるそのイメージは、どこから来ているのでしょうか。

現在、私たちが共有しているギリシャ神話のイメージは、絵画や文学作品などにおけるルネサンス以降のヨーロッパの文化に依拠している面が多大にあるのではないでしょうか。会の第一部のタイトルを「美術・文学・生活習俗におけるギリシャ神話の表れ」としましたが、これはつまり、現在の私たちが「ギリシャ神話」と言って思い浮かべるイメージがどう形成されてきたのかについて考えてみよう、という提案でした。

上記のケルトやギリシャにまつわる事例から容易に予想ができるかと思いますが、私たちが思い浮かべるイメージは、“もともとのギリシャ神話”とは決して同じものではありません。ただ、この“もともとのギリシャ神話”というのも微妙な概念で、神話には「これこそが唯一の正しい形」というものがあるわけではありません。どのように語られ、まとめられ、伝承されてきたのか。そして、今、私たちが受け取るイメージは、そのうちのどの部分に由来しているのか。そんなことを考えるために、いくつかの本を取り上げながら、ギリシャ神話の成立史を辿ってみます。

世界中に存在する神話の多くが、初めは口承で伝えられてきました。それは多くの人に届けられ、また受け継がれるために、詩という形式で伝えられていきます。以下、<予習編・前編>の復習になりますが、古代ギリシャにおいても同様で、その中心となる2人の偉大な詩人と、その作品が残されています。ホメロス『イリアス』『オデュッセイア』と、ヘシオドス『神統記』『仕事と日』です。

この2人の詩人はいずれも紀元前8世紀ごろに活躍したとされています。そして、もともとは口承で伝えられ吟じられたというその叙事詩は、紀元前5世紀〜紀元前2世紀の間にやがて文字に記録され、現在も知られる形でまとめられていったといいます(余談ですが、当時はまだ紙がありませんから、文字は陶器や石版に刻むことで記されました)。

歴史的には、古代ギリシャはその後、アレクサンドロス大王のマケドニアに征服されます(ヘレニズム時代)。その後、ギリシャを含む地中海地域はローマ帝国が覇権を握り、ギリシャ神話の神々はほぼそのままローマの神話に移行していきます。

オリジナルの神話ではなく、古代ギリシャから神々の物語や文学的影響を受け継いだローマ(共和制時代から帝国へ)では、ヴェルギリウスによる国民的叙事詩『アエネイス』をはじめ、独自のラテン文学が栄えました。そのなかで、名前はローマの神々に置き換えられていますが、ギリシャ神話の神々について物語る作品として知られているのが、オヴィディウスの叙事詩『変身物語(転身譜)』と、アプレイウス『黄金のろば』です。

『変身物語』は、ギリシャ・ローマ神話の神々、そして妖精や人々の、多種多様な“変身”の物語の集成。それを通じて、植物や動物、星座などさまざまな自然の事物の由来を語り、またこの世界の創造から始まる、ギリシャ・ローマの神話の世界観を伝えています。一方、『黄金のろば』もまた“変身”が一つの鍵になる作品ですが、こちらは風刺的な小説で、また物語の主題として神話を扱っているわけではありません。ただ、作中作品として語られる挿話がギリシャ・ローマ神話をモチーフとしたもので、それが後世の神話理解に大きな影響を及ぼしているのです。

また、先に挙げた『アエネイス』は、ローマ帝国の英雄アエネイアースの伝説を詠った叙事詩、つまりローマ帝国の建国譚にあたるわけですが、アエネイアースは『イーリアス』に登場するトロイアの英雄で、トロイア戦争の後に遍歴を重ねてローマの地に至ります。つまり、ここにおいてギリシャ・ローマ神話は、歴史と接続するのです。ギリシャからローマへの転換にあたり、神々の名称、またその重要度などに変化はありましたが、大きな世界観としては人間社会につながるものとして確立されたわけです。これは非常に大きなポイントだったのではないでしょうか。(このあたりは、日本の記紀神話と比較してみるのもおもしろいと思います)

ご存知のように、このあとヨーロッパでは、初めは非常に虐げられながら、やがてどんな政治体制をも凌駕して、政治、経済、文化などあらゆる領域に浸透していく存在ーーキリスト教が現れました。その威光の前に、ケルトやゲルマンの異教の信仰や文化は、時に同化させられ、時にうまく忍び込みながら、一部の要素は生き残り続けましたが、確固たる一つの文化としては存続しえなかったと言えるでしょう。

しかしギリシャ(およびローマ)の神話・文化は、今こうしてその全容について話し合うことができるほどに、個性ある文化として今に至っています。その一つの大きな理由が、先に述べたようなローマ建国神話との同化であり、またその過程でいわゆる“信仰される神々”ではなくなっていったことが大きかったのではないかと感じています。

キリスト教が現れて以降の時代に、ギリシャ神話はどのような変遷を経ていったのか。寡聞にしてこれまでその問題を扱った資料に触れる機会がなかったのですが、この度、会の準備をするにあたり、とてもよい一冊に出合いました。

バルバラ・グラツィオージ『オリュンポスの神々の歴史』

叙事詩に詠われた神々の物語が、ポリス時代のギリシャでどのように受け止められ、ヘレニズム、そしてローマへと広がり受け継がれていったのか。さらに本書で特に興味深かったのが、キリスト教以後、そしてイスラム世界におけるギリシャ神話の存在についての記述でした。かなり歯応えのある研究書なのでちょっと敷居は高いかもしれませんが、興味のある方はぜひ。

そして、この本の最後の章にもあるように、ギリシャの神々はルネサンス以降のヨーロッパ文化において、華麗なる復活を果たします。そのときの神々の原型となったものが、先ほど述べた『変身物語』や『黄金のろば』など、ラテン文学で描かれたイメージだったのです。

そして、アメリカおよび英語圏におけるギリシャ神話の理解に大きな影響を与えた本があります。

トマス・ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話ーー付インド・北欧神話』

これは英文学を読む一般の人に向けてまとめられた、教養としてのギリシャ・ローマ神話についての物語です。19世紀半ば以降、現在に至るまで広く読まれているもので、やはり現在のギリシャ神話のイメージを形作るうえで重要な役割を果たしたものだと言えるでしょう。ちなみに、岩波文庫版を訳しているのは、夏目漱石の門下生としても知られる作家の野上弥生子です。

というわけで、古代ギリシャの叙事詩の頃から、さまざまな変遷を経て、現代につながるギリシャ神話のイメージが構築されてきたことがおわかりいただけるかと思います。現在、私たちにとってなじみのあるギリシャ神話のイメージに比べると、ホメロスやヘシオドスの作品はやや難解で、神々の描写もやや味気なく感じるでしょう。またそれには、詩という形式上の問題も関係しているかもしれません。

「もともとのギリシャの神々について、体系的に記したものはないの?」 実は、それがあるんです。

アポロドーロス『ギリシア神話』

紀元前後の時代にまとめられたとされるもので、宇宙の創世から各種の神々のエピソード、そしてトロイア戦争までのギリシャ神話の世界を体系的に記述したものです。詩形式ではない分、ギリシャ神話の全体像を理解するには恰好の資料ですが、娯楽のための文章ではありませんので、読み進めるのにはやはりなかなか骨が折れるかもしれません。それでも、ローマ文化以降の影響の入る以前の、原型に近いギリシャ神話の世界に触れてみたいという場合は、ぜひ本書を手に取ってみてください。

ギリシャ神話の変遷史については、ひとまずここまで。後編では、ギリシャ神話の世界観、神々の物語が展開する世界の構造についてお話ししたいと思います。

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