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本の少し、少年の日の思い出

先日、Facebookかtwitterで、作家の川上未映子さんが文学の世界と出合うのに高校の国語教科書に影響を受けた、というような話を見かけたような気がするのですが……検索してみてもどうにも出所がわからず……
(過去にこんな記事はあったようですが)

また、その前後で確か友人が、やはり教科書から影響を受けた文学として中島敦「山月記」のことを挙げていたような……

今回は、ここから思い出されてきた、学校の国語と文学のお話をしたいと思います。

これらの情報を見て私の頭にフッと浮かんできたのは、教科書ではなくて「読書感想文」のことでした。

画一的・定型的なことが求められがち?なために、昨今は害悪論も少なくなく、また本好き・読書好きな人でも「読書感想文は嫌いだった」という人や「読書感想文のために読書が嫌いになった」という人に、身近でもネット上でも結構出会います。

そんななかであまりこういうのも憚られるのですが、個人的には読書感想文、全然嫌いじゃなかったのです。だって好きな本を読んで、好きなように文章書いていいわけで、読むのも書くのも好きだった自分にとって、嫌になる理由がないじゃないですか。幸い、先生が干渉することも全然なかったので、のびのびやらせてもらいました。ちなみに、「課題図書」なるものを利用したことは一切なく、本を選ぶところからが毎回の楽しみでした。

記憶がもう曖昧(というか朦朧)で、小学校〜中学1年まで何の本を読み書いたのか、どうにも思い出せません(中1はもう少しで思い出せそうなのに、思い出せない……)。ただ、はっきり覚えているのが、中学2年時の中島敦『李陵・山月記』と中学3年時のリチャード・バック『イリュージョン』のこと。

『李陵・山月記』、表題作の「李陵」。たぶん、吉川英治『三国志』をきっかけに熱中した中国の歴史ものの延長で手にしたのでしょう。なんとも地味なテーマを選んだなぁと自分でも思いますが(笑)、李陵、司馬遷、蘇武の3人が、それぞれに耐え、それぞれに守ったものはいったい何だったのだろうか、ということを考えてみたいと感じたのでしょう。今、手元に本がなくあらすじをなぞっただけですが、改めて読み直したい気持ちでいっぱいです。

同じ本に収録されていた作品がいずれも深い。過剰な自意識の行き着く先を獣への変容として描いた「山月記」、ある意味それとのカウンターとして学び修める道の先にある姿を描いた「名人伝」、また愛すべき子路の物語「弟子」等々、漢文調のきりりとした文章のなかに、人間の生きる道を考えさせる中島敦の作品は、深い印象を残しました。

さて、翌3年時に選んだのは『イリュージョン』。今調べてみると、村上龍訳は超訳?といった声もあるようですが、とにかくインパクトのある1冊だったことは間違いありません。世界は無限の可能性に満ちていて、そしてあっけない。この世界の見方が大きく一段変わるような、そんな読書体験でした。干し草の混じったソーセージとパンのスープ……

でもこの本が自分にとって重要な存在であるのは、ただその内容だけによるものではありません。

「超」の付く真面目で(これを「堅物」と言う)教育への関心が高かった母は、口うるさく何かを強制することはなかったものの、幼いころからずっと僕(や姉)の手掛けるものについて目を通し、「よりよい方向はこっちではないか」ということを仄めかしつつ意見を述べる人でした。とはいえ、読書感想文についていえば前年の『李陵』までは、作品そのものへの理解も私の感想文への評価も、大まかな方向では通じていたように思います。

ところが、この『イリュージョン』は、母にとって作品の意味が全く理解できず、また私が書いた文章についても意図がほぼ掴めなかったようです。そしてそれは、中学1年時より自分をかなり評価してくれていた国語教師にとってもほぼ同様でした。「そうか、母や先生には見えない世界がこの本の中にはあるんだ。そして自分はそこに辿り着いたんだ」。この経験は、自分にとって本、読書という営みの意味も大きく変えるものだった、振り返ってそう強く感じます。『李陵』から『イリュージョン』へ、本と読書をめぐるイニシエーション。だから、一般にはやや評判のよくない読書感想文ですが、私にとってはとても貴重な経験だった、と思えるのです。

そういえば私が子供の頃は、読書感想文の時期が近づくと、学校で2種類の本リストが配られました。一方はいわゆる課題図書。もう一方は参考図書みたいな、もう若干カラーの異なる本のリストだったように記憶しています。その紙は一部を切って折ると封筒にすることができて、名前と欲しい本を記し、ぴったりの金額を入れて学校に提出して本を購入する仕組みがありました。先程、「課題図書は一切利用しなかった」と述べましたが、課題図書じゃないほうのリストからは、おもしろそうと思う本をどんどん買っていました。

そうして手にしたのが荒俣宏『二色人の夜』、そこから続く角川ホラー文庫の数々。また、そのリストの紹介文で気になって買ってみたのがカフカの『変身』でした。ただこのときは(中学1年くらい?)、読み始めてみたものの全く興味が持てず、本棚に置きっぱなしに。高校も終わり頃になり、何気なく読み始めたら一気に引き込まれ、その後はカフカに没入。『変身』もいろいろなバージョンを読みました。角川文庫版、現在のものとは違う抽象画的な白っぽいカバーデザインをよく覚えています。

そうそう、はじめは教科書の話でした。国語に限らず、歴史系や生物など読める教科書は先に読んでしまうように、基本的にずっと読むことが好きでしたが、いざ改めて思い返そうとすると、意外とパッと思い出せるものがありません(本、読むけれど覚えていられないことばかりなのです)。

それでもいくつか頭に浮かんでるのは……工藤直子の詩『のはらうた』、特にかまきりりゅうじの「おれはかまきり」、三木卓「おいのり」(猫たちが頭を垂れる姿、フワッと流れる風のイメージ)、米倉斉加年「おとなになれなかった弟たちに…」(画のイメージが強い)などなど。

そして、いちばん印象に残っているのが、並んでいた2作品、「マドンナ・B(=中澤晶子「命ということ」)」ヘッセの「少年の日の思い出」。前者はやや甘酸っぱく、明るい雰囲気のなかで、「あたたかいわ」というセリフと共にいのちの温度を感じる。一方の「少年の日の思い出」は、宝石のような繊細な蝶の標本に、取り返しのつかないこと、後ろめたさ、消えることのない恥辱、といった要素がピースとなる、何かモノクロームのようなイメージ。

特に「少年の日の思い出」は、そこから派生して『車輪の下』に辿り着き、かつての神童の絶望的な道行を読んで、一時的ながら本気で高校受験をしたくなくなったという苦笑いな思い出が一緒に蘇ってきます(笑)。

さて今回は、あまり脈絡もないとりとめのない思い出話となりましたが、みなさんにとっての国語の教科書、そして読書感想文はどんなものでしたか?

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