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社会人一年目の思い出

 「キリンの秘密って、知ってる?」

 そう話しかけてきたのが数年先輩だという彼女だった。僕はそのとき就職難だ氷河期だと言われる中でどうにか潜り込んだ会社の、自分(たち)が主役のはずの新人歓迎会で元来のコミュ障を発症させて一人静かに周囲を観察しながらコップを傾けていた。何か芸でも披露しろと言われるよりは気楽でいい。

 「このラベルにね、キ、リ、ン、って書いてあるんだよ」

 ではご返杯、といく間もなく手酌で自分のコップにビールを注ぎ込んで一息に飲み干した彼女は、僕の隣に座ってビール瓶のラベルを見せてくる。

「わかる?」

 後で知ったことだが、彼女は社内でも将来を嘱望される存在であった。「男勝り」「女だてらに」などとは、当時だったから許された評価だろう。

 そんな彼女が結婚すると決まったときには社内の誰もが祝福したし、同時に残念だが会社を辞めるだろうと思ってもいた。僕も含めて。しかし、そうはならなかった。

 その時の僕ときたら、そんなことになるとはつゆほども思わず、自分の隣になんだかいいにおいがする女性がいる、そんな状況がとても不思議で、特に酒に弱いというわけではないはずだった僕が、いつにもまして酔いも回ってしまい、差し出されたビール瓶のラベルを眺めながら眠ってしまった、らしい。

 らしい、というのはその後の記憶がないからで、のちに聞いた話によるとどうやら「彼女が飲ませすぎたから寝てしまった」ということになってしまったらしく、彼女が介抱してくれた、らしい。……らしい。

 たしかなことは気付いたら次の朝、というよりはもう昼過ぎ、彼女の部屋で、「だって起きなかったし」という彼女に恐縮しきりで申し訳なく逃げるように帰ったことだ。

 週明けに出社した僕は方々に頭を下げて回り、「あのあとどうした?」と聞かれてうまいごまかしも思いつかず、(今にして思えば、馬鹿)正直に彼女の家に泊まったことも話し、「何もありませんでしたから!」などと言い続けたのだった。


 「どうしたの?」

 ビールを手酌で注いでは飲んでもう何杯目か、彼女の尋ねる声に

「昔を思い出してた」

 言いながら僕は、できたばかりの料理を食卓に運ぶ。食卓とはいってもそこは二人掛けの小さなテーブルと椅子のセットで、一緒に住むようになってからはずっと、二人いっしょに酒を飲むための場所になっていた。

 結婚した当初からずっと、お互いの両親や周囲から「子供はまだなの?」と聞かれ続けたものだ。そういわれても、子供ができなかったのは結果でしかない。夫婦となってからソウイウコトをいたしてこなかったわけではないのだが、子宝というものは授かりもの、彼女の仕事が忙しかったばかりではなく、なんとなくとでもいうかお互いに「どうしても絶対に子供が欲しい!産んでほしい、産んで育てたい!」というほどには思わなかっただけの話である。

「そういえばさ」
「なに?」
「ラベルにキリンって」
「まだ言ってる」
「だって気になるし」

 彼女は椅子ごとテーブルを回りこみ、僕の隣に座る。

「ほらここ」

 隣に座る彼女の、あのときのようないいにおいがして、僕は一気に酔いが回ってしまった。

 もし、彼女と結婚していなかったら?会社を辞めていなかったら?子供がいたら?今までの人生で選ばなかった無数の選択肢の先に何があったのかは、絶対にはわからない。この先どうなるのかもわからない。でも、僕は彼女がいればどうにかなるし、彼女のためにどうにかできるだろうと思えた。

 改めてお互いのグラスにビールを注ぎあい、それぞれグラスを持ち上げる。彼女も同じ気持ちだろうと思えたから、いまは、それでいい。

「「乾杯!!」」


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