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夏空 - Natsu Sora -

 最近はめっきり少なくなった夕立のおかげもあってか日中の暑さも和らぎ、これならばなんとかなるだろうとギターケースを開ける。


 駅から続く地下道のこの場所は、特に理由もないが個人的なお気に入りのようなもので、週末予定がないときにはここにきてギターを弾くことにしていた。

 特に何かを期待してのことでもない。自分程度の歌、詩やメロディー.声、腕、あるいは顔。この町と言わず日本に、世界に何人いるだろう?メジャーデビューで一攫千金などと夢を見ることもなく、以前は並べていた自主製作のCDも、最近は持ってくることさえしなくなっていた。

 仕事帰りのサラリーマンやOL.家族連れ、或いはこれから遊びに行くのか帰るのか子供たち。週末の地下道で立ち止まってくれる人もまれで、たまには酔っ払いにからかわれることもあったが、そんなときにはリクエストの一つも聞いて歌わせてやれば(自分で歌うよりも)たいていは何とかなった。何とかならないことだってもちろんあるが、そんな話はしても聞いてもたいして面白くもないものだ。

 自分で詩を書いて作曲してギターを練習して歌って、どれがどれほど先の話だったかなど覚えてはいない。ただ自分の部屋でヘッドホンでも付けてギターを弾いたり、或いは今ならばインターネットでも自作の曲を置いて誰かに聞いてもら方法などいくらでもある。ここでギターを弾き、歌うことはただの趣味、自己満足だった。

 ただギターを弾き歌うさえない男の前を通り過ぎる人々に、嫌でも思い知らされる。「お前なんてその程度だ」「誰もそんなものに興味はない」「意味なんてないやめてしまえ」思い知りたかったのかもしれない。しかし、止められなかった。意地になっていたのかもしれないし、心のどこかでは「もしかしたら」と淡い期待を抱いていたのだろう。

 持ち歌をあらかた歌い切って顔を上げると、目が合った。背格好からすれば中学生か、小柄な高校生くらいだろうか。彼だろうかそれとも彼女か、服装からは性別の判断はつかなかった。

 こちらも驚いたが、あちらはもっと驚いたようだった。顔を伏せ早足で去っていく。もしかして、ずっと聴いていてくれたのだろうか。もしそうならばお礼の一つも言いたいところだが、わざわざ呼び止めるのも変な話だ。人ごみに消えていく後姿を見送ったあと、今日はこの曲で最後にしようと考えギターを弾き始める。そうしたところでなにがどうなるものでもない。ただそうしたいだけで。

 他に何かしら理由が必要だとは思わなかった。


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