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三島由紀夫『命売ります』が面白いから読んで

ライフ・フォア・セイル

ある日、とっさの一瞬に自殺を思い立った主人公の羽仁男はワクワクと浮き立った気持ちのまま本当に決行する。
ところが近所にいた人間に助けられ、思いを遂げる事は出来なかった。
生き残った羽仁男は新聞の広告欄に『命売ります』と短い広告を出し、自宅の扉にも『ライフ・フォア・セイル』と洒落た看板をさげる。
しばらくは訪ねて来る客もなかったが、愛人に復讐を試みる老人、母のために乗り込んでくる少年、自分の事を気ちがいだと固く信じている女、、、様々な人間が羽仁男の前に現れ、命を買っていく・・・。

川崎・横浜のおすすめ葬儀社さん

『売ります』というクリエイティビティ

他の三島作品に違わぬ傑作。
感触としては『沈める滝』や『青の時代』くらい面白かった。
「厭世的な気分になった男が、自分の生命を必要以上に軽く扱う」
これだけの主題ならこの小説は、凡庸な、どこにでもあるエンタメ小説になっていただろう。
『命売ります』を卓越した小説にする仕組みは、そのタイトルの中に既に組み込まれている。
依頼人が何人も現れる事から想像できる通り、羽仁男は依頼に真面目に取り組むものの、悪運が強いのか生き残ってしまう。
しかしその度に依頼人は満足してしまい、彼は報酬を受け取る。
何度かの失敗ののちには、羽仁男は一財産を築き、「ちょっと休憩しようかな・・」という気になっている・・・。

羽仁男と死

羽仁男の「死後」に対する考え方は、この小説を楽しく読んでいく上で、一見に値する。
第一の依頼人に「死んだあとのことで、何か私にたのんでおくことがあるかい?」と聞かれた羽仁男は、こう答えています。

「(中略)僕が死んだら、僕の代りにシャム猫を飼って下さるとありがたいです。そして牛乳はふつうの皿でなく、僕のイメージでは、大きなシャベルに入れて呑ませてほしいんです。最初の一口二口をピチャピチャ呑んだら、・・・(中略)」

何とも不可解な希望ですが、ひとまず置いといて、第二の依頼人に移りましょう。

第二の依頼人はお節介にもこんな事を羽仁男に訊きます。

「そんなら命を売ったお金はどうするんです」

「あなたがそのお金で、何か始末に困る大きな動物、たとえば鰐とか、ゴリラ、とかいうものを買って下さい。そして、結婚なんかあきらめて、一生その鰐とかゴリラと一緒に暮らして下さい。あなたに似合うお婿さんは、それしかいないような気がするんでね。(中略)そしてその鰐を見るたびに、僕のことを思い出してくれなければね」

こうした羽仁男の空想は、「無意味」の代表例とでもいうものです。
無意味であれば何でもいいんですが、彼がなぜこんなに具体的なイメージを指定するのかという理由は、後半に差し掛かったところで出てきます。

「猫をからかっていると、ニャアと言ってあけたその魚臭い口のなかの暗闇に、突然、大空襲の焼跡の都市みたいな、真っ黒な廃墟の町がひろがっていること。
(中略)
彼の空想裡できわめて重要だと思われたこの儀式は、日本の政治経済すべてにとっても重要なのにちがいなかった。
(中略)
つまり、羽仁男の考えは、すべてを無意味からはじめて、その上で、意味づけの自由に生きるという考えだった。そのためには、決して決して、意味ある行動からはじめてはならなかった。
(中略)
羽仁男は自分がまたいつか、「命を売り」だすにちがいないと思った。」

冒頭の自殺を思い立つシーンで、羽仁男は新聞の活字がゴキブリに見え始め、世の中は「無意味」だと悟る。
つまり初めから人間は無意味を生きているわけです。
そう気付いた羽仁男は、「命を売り」始める。
「命を売る」という行為は、自分の生を、自分とは全く関係のない他人の意思にまかせる行為ですから、彼は自ら自分の命を無意味にしようとするわけです。
ところがその無意味を、羽仁男は自ら意味付けようとする。
「羽仁男が死んだから、このシャム猫がいる。」
「この鰐が私と共に暮らしているのは、羽仁男が死んだからだ。」

「命を売る」ことでそんな風に無意味を生きようとする羽仁男の姿が、彼の「死後の処し方」から垣間見えてきます。・・・①

ところが三島は、羽仁男に、命を売ろうとした「副産物」として「金」を与えています。
羽仁男は生き残ったにも関わらず、依頼人たちはみな満足し、結果として彼は生きながら多額の金を手にする事となる。
この事が彼に、『命売ります』の「休憩」を思い立たせるのです。

死にたくない羽仁男

羽仁男は商売の休憩中、ひょんな事から第一の依頼人である老人に遭遇する。
よもやま話をした後で、立っていこうとする羽仁男を老人は静止して、

「命は売れるもんだと思ったらまちがいだよ。君は狙われている。遠くから監視されている。時期が来たら消されるだろう。気をつけなければいけないよ」

と告げる。

「命は売れるもんだと思ったらまちがいだよ」。

老人の強い言葉は、「命を売る」という行為に①の解釈を当てはめると、生の中で「無意味を意味付けるという行為さえ不可能だ」という示唆を羽仁男に突きつけるわけです。

『命売ります』と広告を出してから、偶然も重なってたまたま生き延びた羽仁男は、ちょっと休憩するかとなって「死ぬ気」が落ち着いたと思ったら、物騒な依頼に関わり続けたせいで命を狙われる事になっていた。

はじめシャム猫や鰐によって意味付けられようとしていた「無意味」は、終盤に差し掛かってもう一つの形をとって羽仁男の前に現れます。

(羽仁男、気ちがいの女から逃れてボロ宿に泊まる)
「この天井の裏側にスモッグに包まれた星空がある、と考えると、羽仁男は、腕を枕にして雨じみのひろがった天井を見上げながら、神の装置を感じた。シャンデリアのかがやく大会議場の天井の裏側にも、こんな鼠の宿の天井の裏側にも、同じ壮大な星空があるのだ。悲惨や孤独は、幸福や成功と、この星空の下では全然同じものだった。一つ引っくりかえせば、どこからも同じ星空がのぞくに決まっているのだ。彼の人生の無意味は、だからその星空へまっすぐにつながっていた。羽仁男は、この木賃宿に身をひそめている「星の王子さま」かも知れなかった。」

命を他人に売る事で、人間と人間とのあいだに「無意味を意味付けようと」してきた羽仁男は、そのどのシーンにも頭上には「星空」が広がっていた事に気づく。

羽仁男が「命を売る」行為に対して抱いていた願望は次の通りだが、三島はその正反対の結末を描いた。

「彼が命を売るのは一回かぎりの行為であり、川へ花束を一つずつ捨てるようなものだった。その花束が拾われて、どこかの花瓶に飾られている、などということがあるべきではなかった。花束は水に流れて、あるいは沈み、あるいは海へ漂ってゆくべきだった。」

羽仁男のもとを訪れた依頼人は、かつは繋がり、かつは偶然のあやで、ともかく羽仁男は謎の組織に泳がされていたのだった。

羽仁男はとうとう捕まり、殺されかけたところを命からがら逃げ出すが、駆け込んだ交番でこれまでの事を話しても全く信じてもらえない。

「おねがいです。僕を留置場に何日でも置いて下さい。保護して下さい。本当に命を狙われているんです。(中略)」

「だめだよ。警察はホテルじゃない。(中略)」

『命売ります』という広告によって、彼は一度は「無意味を意味付けする」ことに成功するかと思われた。

ところが命を賭してもそんな事はままならず、三島は羽仁男に、ほんとうの「無意味」、彼の、彼だけの一生の無意味を突きつけて物語は終わる。

「星を見上げると、星はにじんで、幾多の星が一つになった。」

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