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仕事に情緒的つながりは必要か

ご無沙汰しております。
今回は半分愚痴のようなものですので、スルーしてください。
(約1600字)

かなり前から、仕事に情緒的なつながりは必要か、ということをずっと考えています。これは、職場内で仕事以外も含む会話、やりとりを指します。具多的には、他者からこんなことを言われたとか、仕事や日常生活でこんなことがあったというようなことを他者に話し、事実や気持ちなどを共有することを言います。

往々にして、このような一見通常業務において不要と思われるようなことが、実は重要であるとも言われ、実際にこういう他愛ないやりとりを伴う情緒的なつながりを私たちは必要としているフシがあります。

事業内容や担当業務内容、業界の情勢、組織内のパワーバランス、構成員(社員)の関係性など、自分をとりまく環境はさまざまで、複雑な要因が絡み合っています。

私の個人的な考えを申しますと、私は職場内ではそれほど情緒的なつながりが必要とは今は持っていませんし、実際に必要とするような振る舞いはとっていません。いや、正確にはそこまでの余裕がないともいえます。

しかし、中には何よりも情緒的なつながりが重要という考えをもっている人もいます。これはバイアスがかかっている見方ですがどちらかと言えば女性がそういう情緒的なつながりを重視している傾向が高いように思います。

特に、今のこの仕事をしだしてから、特にこのような情緒的なつながりを重要視している人が多いように感じます。それは、クライアントとのコンサルティング(面談)では、なかなか事がうまく運ばないことが多々あります。それを、専門家である自分の力量や対応に帰属するのではなく、クライアントに帰属してしまう傾向のことを言います。すなわち、そういうことを職場内で誰かに話し、気持ちをわかってもらうことで自分の自尊心は保たれることになります。だいたい、そのような場合主語が「自分が」ではなく「〇〇さんが」となっています。

また、私のようにいわば絶対的に必要な内容のやりとりを主にしている人を他者から見れば、とっつきにくい人など見なされるかもしれません。しかしながら、実際はそういうやりとりを「していない」のか「できない」のかは他者から見ただけではわかりません。「していない」ことは事実ですが、「しない」のか「できない」のかは見ただけではわからないのですが、人間は認知的倹約家なので深く洞察することが苦手で、「あの人は○○だ」というレッテルがつくわけです。

このようなことは日常のあらゆる場面であります。しかし、人間の性なのか物事をより深く見ることは多くの人が苦手としています。


そういう私も、情緒的つながりが不要と思っているわけではありません。時には「やってしまった」とか「なんでこうなるの」というようなことが度々あります。どうしようもない理不尽さに叩きのめされることもあります。そういうときには、だれかに話を聴いてほしいなと思うことも実際はあります。人間ですもの。

しかし、私の場合、もう一人の自分がいて、そのもう一人の自分が私にこういうのです。

そういうことを思うのは自分の心が弱いからだ。もっと強くなれ。

と、上の方から聞こえてくるのです。

実際に誰かに話を聴いてもらうことで精神的負担が軽減されることはわかっていますし、他者にはそうするように勧めています。しかしながら、それが自分のこととなるとそうもいかないのがやっかいなのですよね。

なんか自分のことが嫌になってきちゃった。


先日、関係機関とのやりとりで、「なんでこうなるの」ということがあって注意を受けました。これは自分がもう少しよく考えてたら防げたことなのですが、一方で理不尽さを感じることでもありました。それを誰かに話したところで、という気持ちもありますし、今更あれこれ思っても過去には戻れません。しかし、とまた循環的思考に陥ってしまいそうになります。


なかなか大変な、しんどいことがことがたびたび起こるな、なんやかんやあるなとしみじみと思ってしまいます。


という単なる長いひとりごとでした。
(了)

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