とある精神障害者の手記 その3

【これまでのあらすじ】
幼少期から統合失調症だったんだけど自覺ないまま成長して、インターネットと仕事でうつになって馘首宣言された

【バックナンバー】
とある精神障害者の手記 その1

とある精神障害者の手記 その2



「――刑部さん、今日付けで解雇と云ふ事で良いですか」
良いですかも何もなからう。
巫山戲た話である。
實は、もう遠囘しに決まってゐた話で、私が担当してゐる取引先との契約が三月いっぱいで解除されると云ふ話はすでに聞いてゐたのだ。
「良いもなにもコレ、決定ですよね。別にいいです、解雇で」
もう消える場所だ。私は遠慮無く云ひ放つ。社長は何も云はなかった。
退職金と解雇予告手当を現金で貰ったのを、その場で金額を確認し、亂雜に鞄に突っ込む。6年近く勤めて、このはした金で辭めろと云ふのだ。笑ふしかない。
應接室から出たら、事務員の一番偉い人に、辭めるにあたっていくつか書類を書いて欲しいんだけれども、と云はれて、了承する。

作業机から私物を引き払ってゐると、隣の部屋の上司が覗きに來た。
「刑部さん、こんにちは。もしかして」
「はい、コレです」
私は手で首を切り落とす動作をする。
「今日付けで解雇のバイトさんも何人か居るみたいだよ、刑部さんだけぢゃないみたい。ほら、OさんとかSさんとか今年来なくなったでしょ。あの人もちょっと早かったけど解雇だったんだよ」
「さうなんですか」
「寂しくなるねえ」
「あからさまに人が減りますからね」
「刑部さんが今度此処の前通ったら会社なくなってたりして」
「はは、怖い事云はんでくださいよ……ぢゃ、今までありがたうございました」
「うん。色々大變だらうけど、頑張ってね」

ロッカーの私物を、持ってきた大きなエコバッグと給湯室のごみ箱にどんどん叩きこむ。讀み終った「虚無への供物」上下巻、再び讀んでいる途中の「笑わない数学者」……晝休みに暇潰しに讀んでゐた本も、今度はいつ開く事になるだらうか。本に罪はないが、今は辛い想ひ出しか湧き上がらない。

家に歸って、「退職金と解雇予告手当と引き替えに解雇された」と云ふと、母はすぐさま親父に電話をかけた。
「私が手首骨折した所爲?」
「それはないやろ」
「えーどうすんのこれから」
「それはこっちが聞きたい」
ていふか、ハロワだらうな。うん。

次の日。Theoriaがメールを送ってきた。
「仕事辭めたんなら今日精神科ついてきてや」
「は? お前んちからチャリで行ける距離やろ勝手に行けや。第一今日は離職票貰ってこんにゃいけんのんじゃ」
「ええから來ィや」
かう云ひ出したらきかない人類である。仕方がないので會社で離職票を受け取ってから、車でTheoriaを拾って精神病院まで案内して貰ふ。
Theoriaはいきなり入口の受附をスルーし、外來と書かれた廣い窗口へとつかつか歩いて行く。
「どーも」
「あらTheoria君、今日診察だっけ?」
看護師さんが親しげな樣子で應對する。
「ちゃうねん。ちょいこの人看たって欲しいんよ」
「ぢゃあ新患さん?」
「せや」
「問診票書いて貰ふ事になるけどいいかな」
「この人絶對嘘書くから俺が書く」
「おいおい嘘ってなんだTheoriaコラ」
「ええから坐っとき」
だだっ廣い待合室の椅子に無理矢理坐らされる。
「名前……刑部さんの本名の漢字難しぅてよう書かんねん、はい名前書いて」
などと云はれてしまふので、「常用漢字範圍内だぞ」と云ひながらも名前や生年月日などの欄を渋々埋めた途端、問診票が取り上げられる。ボールペンは渡すまいと思って死守してゐたら、あっさりと外來の看護師さんに「ボールペンもう一本貨して」と云ひに行ってしまった。本當にクソだ。

「Theoriaお前字汚ねぇな! ていふかてめえ嘘ばっか書くなやクソボケ」
問診票を取り上げようとすると、ひょいと上にあげられてしまった。180cmオーバーにそんなんされたら届かんわ。クッソ。
「ええか、全部これは俺の客観視やねん。刑部さん、あんた完璧にあかんねんて。診て貰ろふたら判るけえ」
人に向かって完璧にあかんとは何だ。
「ほんまかいな」

程なくして診察室に呼ばれた。
「せんせ、どーも」
「ああ、Theoria君こんにちは。今日はどしたの?」
そこに居たのは、人の良ささうなおじいちゃん先生である。
「先生あのな、この人診察したって欲しいねん」
「はいはい……まあ、坐って坐って」
私を完全に置いてけぼりでTheoriaが延々喋り續ける。もう何を喋られたのかも忘れた。
「……で、刑部さんは、會社でもあかんくなって、會社を31日で馘首になってん。しかも病識もないんや。あかんやろ?」
「そーかぁ。刑部さんは、どうなの?」
「どうと云ふか――別に、普通ぢゃないのかと思ひますけど」
「こいつサイコパスやねん、あと分類的に云ふとクラスターAやねん」
「えっ」
うるせえよクラスターB、と思ったが云はぬ。
「人の氣持ちが全く判らへんねんこの人は」
「酷い」
現状で云へば、それは今のお前だ。
「うーん……とりあへず、今の現状を何とかしませうか。うつ状態と不眠があるから、まずはそこから治療していきませう」
「私は駄目なんですか」
「駄目ぢゃないけれども、今は氣分の落ち込みも激しいし、そこを回復して行けばなんとかなるから」
それで、結局パキシルとフルニトラゼパムを貰った覺えがある。

「あーあ、自分これでメンヘラやんけ。お前の所爲ぞ」
「俺の所爲ちゃうで。俺は後天的やけど、刑部さん先天的にさういふ線あるで。ていふか今も見てられへん位うつが酷いんやぞ。コレを機にしっかり治しや」

かうして、馘首になった次の日にメンヘラデビューもしてしまった。

昔の日記を溯ってゐたら、當時自己都合で辭めるリアル友人用に書いたマニュアルがあったのでハロワに關しては色々省略。

不完全無職マニュアル - On the yellow guardrail

あとは母が突然發作を起こして倒れたり、Theoriaは頭にドのつく企業に就職が決まって上京し、夏に明治座の前にあったtheoriaハウスで三週間ほど秋葉原に毎日行ったりしてゐたりしたら、普通に失業保険が切れそうになってゐた。

さーてどうすっかなー仕事したくねーなーとか思ってゐたら、10月からDTPやらCGなんかの職業訓練が、しかもかつて行っていた學校で出來るとハロワで見かけて早速応募。面接でかつての恩師二人に出會ひ「あっ……なんか、自己紹介とか良いッスよね……」といふ雰圍氣に。とりあへず合格。

半年の間に色彩検定だのDTPの資格だの取って後は他の生徒の手助けなどしながら遊びほうけてゐた。

で、無職で卒業した後にTwitterでの動物園オフ會に出たら、Web屋をやってゐるといふ男性に「うちでバイトしない?」と云はれて、別に斷わる理由もなかったのであっさりバイト先が決まった。

仕事の話はそんなに面白くないのであまり書きたくない。徳山のおいしいご飯やさんにいっぱい連れて行って貰った。
だらだらと驛ビルの中で働いてゐた生活は、オフィスの期限満了で追い出されると云ふ事とで終止符となり、私は社長とスカイプでやりとりしながら在宅で働く事となった。實を云ふとインフォ○ップ的なクライアントとか多くてさういふ意味では勉強にはなった反面、表立って云へる案件など殆ど無く、やりがいはそんなになかったといふのが正直な感想。

震災の前後について、少しだけ觸れなければならない。色々暈したり嘘も混ぜる。知ってゐる人はどうか指摘しないでやって欲しい。私から云へる話がかうであると云へるだけだ。
Theoriaの病状はあの頃から急激に悪化した。元々常に飮酒して生活してをり重度のアルコール依存症と化してゐたのだが、更に精神科の藥を亂用し、話では合法ハーブをやってゐたとも聞いた。
結局、彼は完全に壞れた。彼から電話がかかってきても、もはや何一つ私に理解できる言葉はなかった。某社を退職した彼は、ご両親に連れられて實家へ歸って行った。面識の有った御母堂からは彼の行動を詫びる電話がかかってきた。確か、それは秋頃だったと記憶してゐる。

彼とはそれきり、連絡がつかなくなった。

「刑部しきみ」名義を名乘り始め、正仮名遣ひを本格的に遣ひ始めたのは概ねその年の夏頃だと記憶してゐる。「正かなづかひ 理論と實踐」といふ同人誌を作るので寄稿して欲しいと野嵜氏に誘はれて、「人っぽくない名前だと不便がでるかもしれない」と思って考へついたのが今のペンネームとなる。(そろそろまた讀めない方向の名前に戻したいと思ひつつ云々……)

2012年の3月には「なんで脇腹が痛いのか判らんかったけど、とにかく痛い」の原因であったチョコレート嚢胞を摘出手術した。その話は「正かなづかひ 理論と實踐」の三號でちゃんと書いたので、それは同人誌を買って讀んで欲しい。noteに出すとしたら三號が賣り切れた後の未來の有料公開豫定。あの内容を電子圖書で出したいと云ふ人も居たので、もしかしたらそっちに流れるかも。未定。


……えー、皆樣そろそろ飽きてきたのではないかと思ふんですが、まだ續けますか。さうですか。

續けます。


知人の男が「俺の知人がバイトを募集してゐる」と云ふので、とりあへず詳しい話を聞いてみると、ゲームのデバッグの仕事だと云ふ。それは面白さうだと思って連絡した所――
「弊社宇部なんですけど大丈夫ですかね」
「宇部」
山口県宇部市。私が住む東部某市から車で片道二時間半かかる。
「交通費の支給や昇給も視野に入れるから」
「面接行きます」
私は即答した。

面接に行った私は、短い金髮で、ライダースジャケットで、毛沢東のロンTにアルゴンキンのパンツといふ恰好だった。
取締役に、開口一番、
「その金髮は――なにか主張があってさうしてゐるの?」
「勿論です」
間髮入れずに私は答へた。職務経歴書を提出した結果、その場で受かった。

結局、Webの仕事と並行しながらデバッグの仕事をした。デバッグの仕事自体はとても樂しかったし、會社自體の雰圍氣も良かった。ただ、やはり體力は持たなかった。派遣會社の社長に昇給も交通費の支給も申請したが、それもなかった。で、氣力も萎えた。そして、私は見切りをつけた。
「Kさん、退職願ってどうやって書けば良いの?」
スカイプでさう聞いたその日の午後に取締役と派遣會社の社長がやって來たのを覺えてゐる。
ぶっちゃけ片道二時間半の往復の時間でもう一つバイトが出来る。折角樂しかった場所だが、仕方がない。
一應部署の人々と元請けの會社の人に惜しまれつつ、私は四ヶ月のバイトを辭めた。

メンタルに関しては、うつは多少輕快したものの、他の症状に關しては良くなる事はなかった。
統合失調症の症状は労働により再び悪化し、自動車專用道路の眞ん中に巨大な光るくらげなどを見る、後ろからの目線が實體化するなどしたあげく、とうとう口論の末に父親を庖丁で刺そうとしたので(因みに母に止められた。母は元看護婦なのでかういふ手會ひにも馴れてゐたのだ)私はもう限界だと思った。

結局、私は世間に負けた。主治醫と相談して最早障害基礎年金を貰って生活の足しにするしかなくなった。
協力的な主治醫のお陰で、私は障害基礎年金2級16号該当者と認定された。

因みに、まだ継続してゐたWeb屋の仕事では變なセミナーにハマった社長と反りが合はなくなり、低賃金で膨大かつ低品質な文章を書かされ、写真著作権の侵害の片棒を担がされた挙げ句、文章に關して半分以上のリテイクを要求され、私は切れて仕事をボイコットした。何が惡いのか判らなかった社長には「精神の限界です」とだけ答へた。

先日、障害者手帳の申請をした。きっと通ることだらう。

私はもう普通に働く事もないのだらうし、役立たずの氣違ひとして一生を終へるのであらう。
病院に入る程の酷い壞れ方もせず、カウンセラーは役に立たず(そもそもカウンセリングを一度も受けたことがない)、何處に居ても異物で、誰も信じず、己を憎んで、両親と親戚全ての墓を始末して、獨りで死ぬしかない。兄弟姉妹どころかいとこも居ない私には墓も用意されぬ。
なんの才能も持たぬ故にもはや死しか私を救はない。

ただ人間が壞れていって、その壞れかけが人生をたったの100円で切り賣りしたに過ぎない。
讀んだから私が救はれる訣ではない。貴方が胸糞惡くなっただけだらう。

見世物小屋エッセイはこれで終はりです。さやうなら。また會ふ日まで。

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今囘の有料部分は「自分できちんと調べたら判ること」をいくつか書きました。
事情により少々高値ですし、面白い事が書いてある訣ではないので、賈はないでください。


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