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24ビットのまなざし

美術の授業中だったか、りんごの写生をしていたときに、つぎに塗り足すべきなのが緑色であることがとつぜん「わかった」ことがある。思った通りに塗り足してみたらスケッチブックの中のりんごは妙に生々しくなって、先生にほめられた。

物質というのはそれ自体に色がついているのではなく、たくさんの光の反射で成り立っていて、目にはみえないけれどさまざまな色が絶妙にまざりあってそうみえているのだという。

赤いりんごの絵に緑を足したらいいということが、どうしてわかったのか今でもわからない。目にはみえないのに。

そんなふうに、10代のおわりごろから20代のはじめにかけて、急になにかが「わかる」瞬間がときどきあって、しばしばそれに救われてきた。とつぜん文字がうまく書けるようになるとか、相手がなにをしてほしいと思っているかとか、次に発するべきことばがなにかとかが、とつぜん「わかる」とき。

なにかきっかけがあるわけじゃない。ただそれは目覚めて間もないときだったり、電車をおりたときだったり、自動販売機で買ったジュースを手に取ったときだったりして、それまでもやがかかっていた一部分がワイパーをかけたみたいに、あるいはピントがかちりと合ったように明瞭になっている。超能力というには頼りなくて、かといって熟考や知識の堆積によってうまれたものでもなくて、ふしぎだった。要するに「さえわたっていた」のだと思うので便宜上はそのように形容しているけれど、そういう体験はもうない今、あれは思春期特有の感覚と呼ぶべきものだったのだろう。

このごろ山戸結希という監督がすきだ。公開から気が付いたらだいぶ経っていることにあせって、丸の内TOEIで『ホットギミック ガールミーツボーイ』をみてきた。近ごろ映画館にいくのが億劫でいろいろと見逃しているのだけど、行けてよかった。はじめのほうは少女まんがらしいというか、いかにもそれっぽい設定にうーん?と首をひねるものの、後半に「ヒロインがはじめてじぶんの意思をはっきりと声にする」という強烈なワンカットがあって、そこでなにもかも覆る。つまりは設定という器は物語のバックボーンにはなっていなくて、原作(読んだことないけど)がそれである必然性はちょっと感じられなかった。監督の伝えたい世界はべつの場所に存在していて、そこに連れていくための装置は、ほんとうはああでなくてもよかったのかもしれない。それでも「ガール」ミーツボーイとつけられた副題のように、既存のレイルの上をかろやかに飛び越えてゆくさまにはほとんど恍惚としてしまう。

それゆえか、くだんの後半のワンカットに到達するまでは正直なところかなりいらいらする。意志薄弱でかんたんにじぶんの身体を明け渡してしまうヒロインと、露悪的でご都合主義な男たち、みえないおとなの存在、空っぽの街。プールのなかで目を開けているみたいに、きらめいているはずなのにぼんやりしていて曖昧な視界がずっとずっと続いていて、それでも遠くの音楽室から聞こえるみたいな劇伴や、断片的な都市のモンタージュが織りなす模様はうつくしくて目をそらすことはできなかった。渋谷はともかく、豊洲という舞台のチョイスがかなりいい。あれは空っぽからうみだされた街だ。

「わたしの身体はわたしのものだ!」

ヒロインはそう叫ぶ。じぶんの足で立ち上がることさえできれば、誰とだって、たとえあなたでなくとも、わたしは幸せになれる。ヒロインはもちろんその相手にも代えの効かない唯一性を求められてきた恋愛映画において、ずいぶんなアンチテーゼだ。主題をひとことで表すのなら「女の子がじぶんを取り戻す物語」なのかもしれないが、まちがいなく揺さぶられたあのシーンで、その時わたしはひとりの女の子の「わかる」瞬間に立ち会ったのだ、とも思った。だくだくだくと流れ込む意思と意識とじぶんのためのことば!追いかけたり追いかけられたりしながらお構いなしに吐き出されるそれらがとてもとても心地よくて、あのカットをみるためにそれまでがあったことを十全に理解する。そのあとで。

10代のこころは強くてもろい揺りかごだ。だれかに必要とされたいのに、じぶんの肉体と精神がまるでかけ離れてしまって、じょうずに息継ぎができない。選ぶことがこわくて、いつも正しくないといけないと思っている。間違うことはよくないことで、わからないことがわからない。だれかと向き合うのもこわいけど、じぶんと向き合うのはもっとこわい。もしくは、その必要性さえわからずにいる。わたしとわたしじゃないものの境界線とはなんだろう。そういう極めて解像度のひくい絵のなかを、はみだしてもいいなんて知らずに息苦しく泳いでいる。

あなたしかいない、をいつも求めてしまうけれど、ほんとうは「わたししかいない」と自信をもって言えたらいい。そのことがわかる瞬間を人生のうちで得ることができたなら、それはぜったいに手離してはいけない。

「わかる」瞬間はいつだって唐突で特別だけれど、目にみえるものはほんのわずかで、見たいものだけを見ているにすぎない。赤は赤だし、緑は緑のままで。それでも他者とじぶんとふれたり離れたりして、あなたとわたしの曖昧な世界がいろどられていく。永遠の愛をかんたんに誓ったりしないところがすきだった。

世界は物質だろうか?それ自体に色がついているかどうかはわからない。だけど、フルカラーだろうがモノクロだろうが、どちらだって間違っていない。わたしはわたしの肉体を通してしか存在しえないということ、そこからみえるものは、ぜったいに他者とイコールにはならないということ、すきな人にもそうでない人にも臆せずに伝えていけたらいい。

ガールミーツボーイ、目にはみえないたくさんの光をつかまえながら、だれにも消費されることなく、手をふって歩いていこうね。


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