括りたがる人たち。

十人十色と十把一絡げ。

多種多様、かつ大量のモノ・コト・ヒトを処理する分析手段として「分類」がある。日々の生活様式や趣味・嗜好、学術・学問、業種・職種、星座・血液型に至るまで、あらゆる物事は多彩な「ジャンル」に分類され、それぞれの特色や傾向などを十把一絡げに語られたりもする。

個人的には、科学的・統計的分析アプローチとしての分類に異論があるわけではない。リサーチャーとして諸学問に対するリスペクトもあるし、実際に1,000人の対象者を「クラスター分析(クラスタリング)」によって6~8パターン程度に類型化する、なんてことも実務上の必要としてしょっちゅう行っている。

リサーチャーがクラスター分析を行う上で、本来「十人十色」「百人百色」「千人千色」のハズのところを敢えて「十把一絡げ」に扱うのは、生活者のライフスタイルの理解を促進するというマーケティング上の目的があるからだ。

括りたがる人たち。

一方、SNSのタイムラインなどを見ていると、「〇△クラスタ」などと揶揄した表現で無目的に他人や自分を“括りたがる人たち”が存在する。(僕は逆に彼らを「クラスタ脳クラスタ」と勝手に命名している)

「括る」とは、偏見や色眼鏡で事象に相対するということだ。反論を買いそうな言い方になるが、断言してもいい。括り(クラスタ)とは偏見の言い換えに他ならない

ここで言う「偏見」とは“多様な価値観をありのまま受け容れる”といった近年のダイバーシティ構想などと一線を画す、排他的・差別的・近視眼的態度だ。二次元、リア充、創作、メンヘラ、フェミ、意識高い系、放射脳、下流、社畜。主に批判的な文脈に用いられる語句の数々は偏見の産物である。

そしてこの手の偏見が「自分を含むすべての人の心に存在する」ことも見逃すことはできない。「括りたがる人たち」の存在は他人事ではなく、自分の心の映し鏡でもある。

その認識は、自己洞察の思考の旅へと誘う出発点となることだろう。他人を(あるいは自分を)「括る」ことで何を「攻撃」し「守ろう」としているのか。その判断・評価基準の根本にある心理はどのようなことか。反応か選択か。外的要因か内的要因か。理想の世界観・真善美と整合するか否か。

クラスタ脳の最も危険な問題。

言葉とは認識である。逆に言えば、認識されないものは言葉として表現されることもない。「何某クラスタ」「何某ジャンル」等と括られる時、その何某は別の概念と対比させることで初めて存在を認識され、意味付けられる。それが相対的な現実認識ということであり、それ自体に問題があるわけではない。

安易な「クラスタ脳」によって導かれる「ステレオタイプ」な見方や考え方が危険なのだ。一人ひとり、個別の事情を加味しない物言いを繰り返しているうちに、その固定観念はますます本人の脳内に「固定」されていくことになるだろう。自省や自己洞察のない無意味なクラスタ脳は思考停止を招きかねない危険な兆候である。

柔軟さと変化への対応力を失った生物が辿る運命は言わずもがなであり、思考や価値観の世界でも同様のことは起こる。平たく言えば「浅はかな人」「残念な人」認定されてしまうということだ。浅はかで残念な人は、リーダーシップもフォロワーシップも発揮する場を失う可能性が高い。

クラスタ脳から逃れるためのキーワードはダイバーシティ、すなわち前述した“多様な価値観をありのまま受け容れる”という社会的態度だ。そして「括りたがる」自己の心を顧み、自己洞察の思考の旅へと一歩を進めることだ。

本質的な優しさとは、恐らくそういった自己鍛錬がもたらす所作である。

(了)


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