"音楽" に 生かされている

 「好きな曲をイメージして絵を描いてください。」
 先生の言いつけ通り、僕はRADWIMPSの『君と羊と青』をイメージして、幻想空間に青いリンゴが浮かぶ作品を作った。評価はBだった。先生曰く、空いたスペースが多いからもっと色々描けただろうということらしい。僕にとってはその余白が必要なものであり、この曲を知っている人には理解されると確信していた。
クラスの中で良いと思った作品に生徒がシールを貼るのだが、僕の作品には1枚だけしかシールが貼られず、『嵐』の曲で描いた生徒には数え切れないシールが貼られていた。
中学1年生、この時僕は初めて、好きなものが理解されない疎外感を覚えた。

 
 僕は小学生の頃から、親の使わなくなったスマートフォンを使わせてもらってネットゲームをしていた。育てたモンスターを戦わせるのが主な内容であったが、他のプレイヤーと交流のできるチャット機能がついていた。僕はまだ知識も浅く、自分より年上のプレイヤーの助言や支援を受けながら、自分のモンスターを大切に育てていた。「ベルゼブブ」という名前の先輩プレイヤーと仲良くなり、プライベートの話もするようになった。その人は中学生らしく、性別は僕と同じ男性だった。彼はすごく優しくて、僕の兄貴分のような存在になった。実際に会うことはなかったけど、僕にとって記憶から消えることはないと思う。
 彼が僕に与えてくれたものの中で特に衝撃的だったのは、ロックを教えてくれたことだ。彼が僕に、RADWIMPSやマキシマム ザ ホルモンという日本のロックを教えてくれた。それまでの僕は音楽などに興味はなく、小学校で朝みんなで歌う合唱曲のような曲ぐらいにしか触れてきていなかった。マキシマム ザ ホルモンの『F』を聴きながら風呂掃除をして、お風呂を磨くブラシをギター代わりにして妄想したりしたこともある。「ベルゼブブ」と出会ったことが最も幸運だったと言えるのは、現在の僕がロック無しじゃ生きていけない体になっているからだ。

 中学時代は、僕は様々な音楽に触れていた。高校受験の勉強に没頭している頃、周りの友達は塾に通い友達と切磋琢磨していた。僕は弟が2人いた事もあり
親に負担をかけたくなかったので、塾には行かず図書館で籠る毎日を過ごしていた。そんな僕の勉強のお供はBeatlesだった。
 Beatlesは当時の僕にとって神のような存在で、特に『Hey Jude』を好んで聴いていた。イヤホンから流れる彼らの曲が、僕に別世界を作ってくれて、勉強を進める手が止まらずに済んだ。Beatlesを聴くと今でもあの頃の情景が甦る。どこか遠い世界で、Beatlesの演奏の中心に僕がいて、演奏される音楽に合わせて僕がペンを動かす。書いた字は宙に浮き上がり踊り出す。『You’re waiting for someone to perform with. And don’t you know that it’s just you, hey Jude, you’ll do. The movement you need is on your shoulder.』の歌詞が好きだった。誰にも頼らず実力で受験という壁に向かう自分と重ね、僕に必要なのは紛れもない僕自身の行動なのだと、自分を奮い立たたせていた。受験は無事に成功し、支援してくれた親に感謝すると共に、はるか遠くに確実に存在するBeatlesと彼らの音楽に謝辞を述べた。

 高校に入学してからは部活に打ち込む反面、クラスに友人は少なかった。高校二年生の時は、クラス内に話せる友人が3人ほどしかおらず、昼の時間は教室の隅でスマホゲー厶をしながら弁当を食べていた。
 その頃から、僕は音楽フェスに足を運ぶようになる。とはいっても、地元のまだ歴史の浅いものに足を運んだ。バイトはしていなかったが、無料ステージが存在していたので気軽に行けた。僕の転機は、そこでDJという存在に出会ったことである。DJはバンドの垣根を越えて色んな音楽を僕に聴かせてくれた。Hi-STANDARDの『STAY GOLD』や、神聖かまってちゃんの『ロックンロールは鳴り止まないっ』は、僕の世界を変えた。それまでは音楽は僕にとって聴くのみのインプット行為でしかなかったが、フェスの場では違った。自分の好きを顕にできるアウトプットの場がそこにはあった。中学時代、僕は自分の好きを語っても共有できることは少なく、周りは流行りのアイドルばかり聴いていた。そんな僕にとってはフェスは天国であり、ロックが少数派でないことを思い知らせてくれた。全員が味方で、全員が友達であるような、そんな幸せな気分になれた。
 大学受験の時には、中学の時と同じような理由で予備校に通わなかった。その代わり、高校の最寄り駅の近くに自習スペースを借り、自分で選んだ参考書でひたすら勉強を進めていた。音楽はまたも、孤独な僕を救った。メロコアにハマっていた僕は、SHANKやdustboxを好んで聴いていた。クラスの男子は女性アイドルグループに夢中で、ライブに行ったり握手会にいったりしていた。もちろん人の好みはそれぞれであり、それを否定するつもりは全くない。でも、僕は自分の好きなこの音楽たちが大好きだったし、アイドルグループの音楽なんかより、よっぽど心に響くものだと確信していた。
 その後、僕は志望していたレベルの大学に無事受かり、親と泣いて抱き合った。長い期間お世話になった自習室には、もう勉強する必要も無いのに数時間居座り、ずっと聴いていた音楽を流し聴きした。イヤホンしながら勉強していた僕は、恐らく他を寄せつけないオーラを出していたのかもしれない。クラスに友達は少なかった。そんな状況の中、クラス内で1番いい大学に受かった僕は、アイドル < ロックをより確信し、落ちた周りの友人たちを見下していた。中学時代に自分の好みを理解されなかったことの反動だろう。明確な学歴によって自分と他者の差を認識し、はっきり言って舐めていた。

 大学に入ると、気の合う友人とすぐに固まって遊ぶようになった。サークルにも入り、友人も増え、高校の時とは打って変わった日々を過ごした。音楽の趣味が合う友人も多く、音楽フェスに一緒に足を運び、好みを共有した。そんな中で起きた感染症騒ぎは、僕からフェスやライブという共有の場を残酷にも奪った。感染症に苦しめられたこの数年間は、音楽を聴くことでストレスが発散されていたと思う。就活では、フェスを主催する企業や音楽雑誌を出版する会社を受ける流れで、広告系や出版を多く受けた。結果的に地元の新聞社に受かった。音楽という自分のルーツが、音楽によって培われた語彙力で活かせる、という強みをアピールしたことが功を奏した。


 実際に今、僕は音楽に支えられながら社会で働いている。音楽を聴かない日は1度もない。たまに昔聴いていた曲を拾い上げるように聴き、回想する。そんな風に自分の人生を振り返ることかできるのも、僕が音楽を好きであり続けたからだ。好みを理解されない孤独を味わっても、僕には音楽が支えであり続けた。音楽を生産する側に立たなかったのは、常に聴く側であり続けることで自分が救われ続けることかできるという、楽な立場をとっていたことがあるかもしれない。そのくらい僕は音楽に依存している。自分の人生を振り返った時、部活の思い出や恋の思い出があると同時に、その時聴いていた音楽がセットで思い出される。これは贅沢な事だ。これからもそれらはセットだと思う。音楽は、僕にとって宗教のような、縋る先なのかもしれない。

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