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日本社会に存在する「大企業の正社員」という貴族階級

(前回)ポスドク問題を考える【2023年バージョン】

社会学者の小熊英二氏による「日本社会のしくみ」という本を読んだ。この本を知るきっかけとなったのが、イブリースさんの以下の記事である。

本書によれば日本社会を雇用という軸で見渡したとき、日本人は「大企業型」「地元型」「残余型」の三類系で整理できること、そして中でも「大企業型」に所属する構成員が経済的に大きなメリットを享受していること(一方で転勤や帰属意識の希薄化などのデメリットをかかえつつ)を、なんと明治時代の官僚制度から戦後の労働運動などを踏まえて鮮やかに論じている。リンク先のイブリースさんの記事とともに、興味のある方はぜひ実際に読んでいただきたい。

私は東大で博士号を取得したあと、研究員(いわゆる「ポスドク」)として何年か大学で研究したのち、民間企業へ転職した。その後、体調を崩したりなんだりして無職になってしまったりなどもしたため、小熊氏の分類でいえば「残余型」のキャリアを歩んでいるといえそうである。そんな私であるが、人生の要所要所で「大企業型」に属する人たちを間近でみるという経験をしてきた。彼らは新卒で入社した会社に生涯にわたって雇用され(新卒一括採用・終身雇用)、様々な職種の経験を積みつつキャリアを積み重ね(ジョブローテーション)、年齢を重ねるごとに給与水準が上昇していく(年功序列)。このような雇用慣行は実は日本社会においては決して一般的なものといえず、どちらかというとごく一部の大企業のみに許された特権的な働き方の象徴である。

私のようなキャリアを歩んでいる者からすると、彼らはまさに貴族的な階級といってよく、雲の上のような存在であった。それだけに小熊氏によるこの分類は、私の感覚とも非常によく合う。

以下は私が会計の資格を取った後、監査法人に勤めていた際の記憶である。なお、ここに記された内容は虚実交えた内容であることを予め断っておく。

監査法人に入社してからしばらくたった頃、とある大企業の内部監査業務のヘルプをしたことがある。内部監査とは、社内の様々な業務内容などを社内の担当者自らがチェックする行為であり、法的な拘束力のある会計監査などと異なり、実施はあくまで企業の任意である。

私が関わることになった企業の内部監査室は、全部合わせて10人ほどの社員が所属していた。いずれも監査の専門知識は全くなく、監査室長は長年にわたって営業畑で過ごしてきた60代の男性であった。そんな彼らに対して、監査業務の進め方に対するアドバイスをするというのが、我々に与えられたミッションだった。

彼らとともに仕事を進める中で、いくつか特徴的なことに気づいた。

まず最初に感じたのが、監査室メンバーの業務に対する圧倒的な自信の無さである。たとえば彼らは監査報告というのを定期的に実施しなくてはならないのだが、社長の前で発表しなければならないため、そのプレッシャーに常に怯えているようであった。その不安を拭うかのように、こちら側のプロジェクトマネージャーに毎日のように電話をかけては、一挙手一投足まで指示を仰いでいるような状況であった。普通、監査法人は時間単位でクライアントに費用請求するのであるが、大人の事情でこの相談は無料で実施された。クライアントの前では誠実に対応していたこのマネージャーも、3時間ほど続いた電話相談が終わったあとは、およそありとあらゆる語彙を使ってクライアントの悪口、罵詈雑言を吐き出していた。

またこの企業はいわゆるグローバル展開をしていたため、海外支社の監査業務も定期的に実施していた。ところが監査室メンバーで英語が話せる者は誰一人としていなかったため、通訳やスピーチ原稿の作成なども、すべてこちら側が対応した。

このようなことを見聞きしていくうちに、どうやら内部監査室というのは出世コースから外れた、いわゆる閑職ポジションであるということがうっすらと分かってきた。事実、監査室のメンバーは頻繁に退職勧奨プログラムの会議に参加していたくらいである。

私が感じたもう一つの違和感は、そういった状況にあるにも関わらず、彼らの待遇が極めて高い、ということであった。そのことに最初に気づいたのは、海外出張に同行したときのことである。我々はエコノミー席で同行したのに対し、監査室のメンバーは全員ビジネスクラスが用意されていたのだ。聞くところによると監査室メンバーの年齢は40代後半から50代前半で、役職名こそついていないものの給与水準としては課長クラス以上という。そのため社内規定的に海外出張は無条件でビジネスクラスが割り当てられるとのことで、聞けば年収も1200万円以上あるそうだ。

就業時間も極めて健全で、金曜日はハッピープログラムなどといって16時には業務を切り上げていた。徹夜でクライアントの積み残しの業務をやらされていた自分とは雲泥の差である。

大企業の課長クラスで、海外出張にビジネスクラスなどというと、なんとなくエリートビジネスマンを想像してしまう。ところが私が彼らとつきあって分かったのは、エリート意識などとは程遠い、控えめで鷹揚なのんびりとしたサラリーマン生活の実態であった。彼らがまとう雰囲気は、「貴族的な」という形容詞がぴったりと当てはまるような、独特なものであった。

貴族的と行っても、彼らは監査法人のメンバーに威圧的な態度を取るような真似はしない。そんなことをしても何の意味もないことがよく分かっているからだ。それでいて、自分たちで手に負えない仕事は一切合切、こちら側に任せていた。あたかもそれが自分たちの当然の権利であるかのように。そういった権力の非対称性や、あるいは自分たちの持つ圧倒的に恵まれた環境そのものに対して無自覚な振る舞いそのものが、まさに貴族的と呼ぶにふさわしく思われた。

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