神域のカンピオーネス1巻・用語集

 例によって、丈月城作品の奇特な読者さま以外には無意味なテキストとなりますのであしからず……というわけで。
 集英社DX文庫より発売となった『神域のカンピオーネス1巻』。
 その副読本となる用語集です。
 学校の勉強について巷間であれこれ言われるのと同様に、人生のなかで役立つ機会などわずかであろう豆知識ばかりでございますが(笑)。
 それらを『カンピオーネス1巻』の章ごとにまとめた雑文集となります。
 ひととき、みなさまの暇つぶしとなるのであれば、幸いです。

――――神域のカンピオーネス1巻、用語集――――

【1章】
●安倍晴明と八咫烏
 晴明の師・賀茂忠行の系図をさかのぼると八咫烏の正体・カモタケツヌミノミコトにゆきつくのは作中に書いたとおり。
 晴明著と伝えられる占術書『金烏玉兎集』。
 タイトルの金烏は太陽の化身・八咫烏を意味する(玉兎の方は月を意味する)。
 日月星辰の運行と深い関わりを持つ陰陽道において、日の精霊である霊鳥はきわめて重要なシンボルなのである。

●ミケーネ文明
 エーゲ海周辺では、紀元前2800年頃から前1100年頃までが青銅器時代にあたる。
 ミケーネ文明はそのさなか、紀元前15世紀頃にギリシア神話の故郷・ペロポンネソス半島で起こり、前12世紀頃に滅びた。
 統一王朝はなく、いくつもの小王国が併存していた。
 古いギリシア語のアカイア方言を話すアカイア人がミケーネ文明の担い手であった。彼らの使った文字が線文字Bである。
 ……トロイア戦争のモデルといわれる戦乱が起きた紀元前13世紀、すでにミケーネ文明には衰退の兆候が現れていたという。

●ホメロス
 ギリシア神話を謡った盲目の吟遊詩人ホメロス。
 一個人ではなく、同じ詩を謡うグループであったという説もある。
 いずれにしてもホメロスは紀元前八世紀頃、ギリシア神話の舞台に近いミケーネ文明よりも数百年後の時代を生きた人物であった。
 ホメロスの詩は文書ではなく、多くの人が口頭で語り継ぐ形で後世まで伝えられた。

【2章】
●アキレウス×パトロクロス
 英雄アキレウスと親友パトロクロス、両者に同性愛的なつながりがあったようだぞと最初に書いたのはもちろん丈月城ではなく、古くはプラトン以前の時代から言われていた説だそうでしてね……。

●ギリシア人、アカイア人
 ホメロスの叙事詩『イリアス』では、ギリシア連合のことを一貫して「アカイア人」と呼びならわしている。ミケーネ文明の項で書いたように、彼らはギリシア語のアカイア方言を話す人々であったのだ。
 ……が、神域のカンピオーネス1巻ではわかりやすさを重視して、あえてギリシア人、ギリシア勢という表記を使用しております。

●海の民
 紙幅の都合も考えた結果、作中ではちょっとはしょりすぎた説明になった。
 紀元前13~12世紀頃、地中海周辺で活動した『海の民』。その詳細は不明。民族の系統や出所、正確には判明していない。とにかく欧州の西部から小アジアやエジプト、シリアなどに次々と侵攻していった。そして行く先々で略奪と破壊を行い、まさに海賊行為を繰り返した集団である。
 彼らは複数の民族の集合体であったらしい。
 移動先にいた人々も吸収して、人数を増やしていった可能性は高い。
 梨於奈は『トロイアの敵=海の民?』説をざっくり唱えていたが、その母体となったミケーネ文明のギリシア諸国も、海の民に滅ぼされたという説もある。
 もしかしたら――海の民に攻め込まれたギリシア地域の人間も敵方に吸収されて、いっしょに海賊行為をはじめたのかもしれない。あるいは、海の民に突き出される形でギリシア諸王国が外部へ進出して、周辺諸国を攻めたのかもしれない。
 ともあれ、海の民が活動した紀元前1200年頃の地中海は海賊同然の侵略者があちこち転々としながら、猛威を振るった時代であった。
 海の民と地中海諸地域の相関関係、さまざまな仮説が存在する。

【3章】
●パリス王子
 チャラい性格はともかく、パリス王子は強いのである(苦笑)。
 後半に書いた強さランキング「アキレウス→ヘクトール→パリスとか大アイアス」はクイントゥス『トロイア戦記(講談社学術文庫、松田治訳)』を参考にした。
 そもそもパリス王子、王族ながら出生時に捨てられている。
 そのうえで数奇な運命によって王家に帰還し、美貌の王子として武勇を振るうのである。
 まさに典型的な貴種流離譚。トロイア戦争をひとつのストーリーとして考えたとき、主役となるべきはむしろ彼ではないかという舞台背景……。
 ギリシア側をヒーローとするためキャラをねじ曲げられた説、個人的にはひどくしっくりくるように思われる。

●トロイアの位置
 リアル世界における『トロイアではないか?』とされている場所は、トルコのヒサルリック遺跡である。
 尚、某所で書いたパリス王子が赤い三角帽をかぶっているという描写。
 これはフリギア帽と呼ばれるもので、古代アナトリア(現代でいうトルコ)の文化習俗とされる。

●トロイアの言語
 ヒサルリック遺跡で紀元前13世紀頃、生活していた人々はギリシアからの移民ではないかという説がある。であれば、彼らはギリシア語を話していたはずだ。
 また、この地の東方では大国であるヒッタイトが栄華をきわめていた。
 ヒッタイト語がトロイアでも用いられていた可能性は十分以上にあるだろう。
 さらに紀元前14世紀頃から前10世紀頃までの“国際言語”であったアッカド語も、おそらく通じたのではないか。
 アッカド語はメソポタミアを中心に長く用いられた言語である。
(ハンムラビ法典がアッカド語による文章の代表。また元来シュメール語で書かれたギルガメッシュ叙事詩も古くからアッカド語に翻訳されていた)

●ヘクトール王子
 大英雄アキレウスの蛮行――ヘクトール王子をなぶり殺しにしたり、女性をものあつかいしたり等々、おおむねホメロスの叙事詩『イリアス』をなぞるように描写した。
 つまり“原作”でも彼はああいう野蛮人なわけで……。
 それにくらべて、ヘクトール王子の高潔さときたら。
 ヘクトールの死後、弟パリスの妻でトロイア戦争の“元凶”美女ヘレネはこう嘆く。「お義兄さま、あなたはたくさんの義兄弟のなかで最愛の御方です! 姑や義理の兄弟姉妹が私をなじるときも、あなただけは私をかばってくださいました!」。
 勝者のアキレウスを差しおいて、理想の騎士に選ばれるのも納得と言える。
(くわしくはこちらを参照 → https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%81%89%E4%BA%BA)

●キュプロスの姫神
 頻出する女神アフロディーテの枕詞『キュプロス島の姫』。
 ギリシア神話において、彼女はかの島で生まれたとされているためである。

●アエネイスくん
 女神アフロディーテの隠し子、アエネイスくん。
 実はトロイア滅亡後、放浪の果てにイタリア半島に流れ着いて、古代ローマの礎を築くというのがローマ建国伝説。
 アエネイスの息子ユルスはユリウス氏族の先祖とされる。
 この家門より、世界史上にも稀なる大英雄ユリウス・カエサルが誕生する。
 だからだろう。カエサルはしばしば「私は女神ヴェヌス(ギリシア神話のアフロディーテ)の子孫」と吹聴していた。
 ちなみにアエネイスくん、神話の英雄としては今ひとつだったらしく。
 親戚のヘクトールはおろか、パリス王子よりも格下あつかいされていた節が……。

【4章】
●ジュネーブ条約
 言わずと知れた、捕虜の人道的なあつかいに関する国際条約。
 昨今、必ず遵守されるとはかぎらないという悲しいニュースもありますが……。

●オデュッセウス
 ホメロスの二大叙事詩、『イリアス』の続編『オデュッセイア』。
 その主人公が英雄オデュッセウス。武勇自慢だけでなく、知恵と弁舌でピンチを調子よく切り抜けていく。
 トロイア戦争終結後。神々の怒りにふれたオデュッセウスは故郷イタカに変えることを許されない。地中海の島々を転々と渡りあるく羽目に。そして故郷では妻が待っているのに、あちこちで浮気するという、アキレウスたちとは別タイプの“ろくでなし”……。

●大アイアス
 息子の小アイアスとちがい、本編には登場せず。
 しかし、トロイア戦争ではアキレウスに次ぐギリシア英雄のナンバーツー。が、アキレウスの死後、オデュッセウスと仲たがいしてしまう。
 そして、オデュッセウスに肩入れする女神アテナの差し金で唐突に発狂。
 羊を大量虐殺したあげく正気にもどり、怒りと屈辱のあまり自刃してしまうという――なんとも不幸な英雄。

●ギリシア神話の王族・英雄は時間の流れがおかしい
 美女ヘレネはトロイアに駆け落ちして二〇年も経つのに美女のまま。
 英雄オデュッセウスの妻も神の血を引く王族で、夫の帰りを二〇年以上も待っていたのに美女のまま。放蕩旦那の帰還時には、なんと求婚者が一〇八人も押しかけていたほど。
 かようにギリシア神話の王族・英雄たちは『10年=ふつうの人間の1年』程度の感覚であり、エルフの同類みたいなもんだと本編中で耳を長くしてみたり……。

【5章】
●叡智の女神メティス
 メティスとは『叡智』の意味であり、女神の名でもある。
 彼女は主神ゼウスの前妻。そしてアテナの母。あるとき、ゼウスは妻メティスを丸呑みにして、その叡智を我がものにしたのである。
 しかし、のちにゼウスはひどい頭痛に襲われる。
 苦しむゼウスの頭から飛び出てきたのが女神アテナ。母メティスによく似た愛娘は父の“お気に入り”となるのであった――。

●ヘラ、牛の瞳
 主神ゼウスの妻、女神ヘラ。
 ホメロスが多用する彼女への賛辞「白い腕」や「牛の瞳」。
 現代人にとって前者はまだしも、後者には違和感がやはりあるはず。
 これは雌牛そのものを信仰の対象とした古代宗教の痕跡であり、美しい雌牛こそが女神の化身であった時代の名残と見るべきだろう。

【6章】
●トロイア戦争ダイジェスト
 実はトロイア戦争の経緯をダイジェスト化したのは、ホメロスも同じである。
 十年も続いた長期戦。しかし、ホメロスが詩にしたのは最後の十年目のみ。それも『アキレウスが竹馬の友パトロクロスの死に怒る』場面から『殺されたヘクトールの亡骸がトロイアの都に返され、葬儀となる』場面までという簡略化ぶり。
 ほかのパートは失伝したという説もある。
 が、ホメロスはどこまでもアキレウスを主役として“立てる”構成に徹したと見る向きもある。どちらにせよ、トロイア戦争の全貌を知るには、ほかの詩人が謡った叙事詩に頼るほかはない。
 ホメロス作の『イリアス』以外にも同じく古代の作品である『キュプリア』『小イリアス』『イリオスの陥落』等々、さらに三世紀の詩人クイントゥスがまとめた『トロイア戦記』なども存在する。

●その頃、パリス王子は?
 途中でアテナがちらりと言ったように、最終戦を前に戦死――。
 しかし、手傷を負って戦場から逃げ出し、「その傷を治せるのは元カノの妖精だけ」と言われて、訪ねていったうえに泣きついたものの、断られて力尽きるというもの。ギリシア神話の語り部たちは、どこまでもパリスを“情けなく”見せたかったようで……(苦笑)。

●その頃、美女ヘレネは?
 実はパリス王子の死後、妻であるヘレネはパリスの弟王子と無理矢理に再婚させられる。
 結局、「美女は勝利のトロフィー代わり」は侵略を受ける側のトロイアも同じなのだ。そんなあつかいをされる以上、当然ヘレネにトロイアへの未練はない。
 最終決戦を前に、オデュッセウスを介してギリシア側に内通。
 ヘレネはトロイア敗北の片棒をかつぐ。
 もっとも、仮にヘレネが裏切らなくても、内通者はいくらでも見つけられただろう。
 劇中でちょこちょこ描写しているように、トロイアもまた数多くの奴隷を使役していた国家なのだから……。

●青銅まとう鉄剣の王アーレス
 注意深い方は「青銅器時代なのに鉄剣?」と首をかしげたのでは。
 この記述はわざと書いたもの。古代ギリシアの“神話時代”というべきミケーネ文明では青銅器主体の世界であった。
 が、外なる世界より鉄器、製鉄の技を知る者は流入していた。
 さらにトロイアをふくめた小アジア――古代アナトリアの世界には、製鉄技術を有するヒッタイト帝国が繁栄していた(このヒッタイトを滅ぼすのも、西方より侵攻してきた『海の民』である)。
 古代の銅器、鉄器文明と『剣のメタファーである軍神たち』をからめた神話うんちくネタ、いずれきちんと書いてみたいところ。

●アテナとゴルゴン
 尊い女神であるアテナと、蛇の魔物ゴルゴンたち。
 両者は不思議な共生関係にある。メドゥサの盾や飾り物という形で、ゴルゴンたちは常にアテナのそば近くに侍っているのである。
 彼女たちの関係の秘密、いずれ語られる日が来るかもしれない。
 ……来なくても『カンピオーネ!』というライトノベルの1巻で語られていたりして……。

●太陽神アポロンと月の女神アルテミス
 このふたり、兄妹なのか姉弟なのか。
 巷間には両方のパターンが流布しておりますが。
 どうもふたりの出生神話と古代ギリシアの習俗から考えるに、「アポロン=弟」説がより正しいらしい。
 が、本作では「このアポロンのキャラなら兄かな」と兄妹説を採用した次第。
 かように丈月城作品内での神話解釈は、しばしば正しさよりも『小説としたときにどっちが面白そうか』で決まったりします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?