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労働からの解放(されてるはず?)

現在、働き方を改めて考え直す機運がある。

「24時間戦えますか?」

このキャッチフレーズに象徴されるバブル当時の日本人のワーカホリックさは今や古臭い考えとなっている。

現代では、

ワーク・ライフ・バランス

として、仕事とその他自分の生活を分けてバランスよく幸せな生活を営もうという方向に向かっている。

そもそも、バブルの時代になぜあれ化け働けたのだろうか。今から考えると過労死レベルの労働が当然とされていた。

それは相応の見返りがあったからだろう。今の安月給、退職金も当時から三分の1(そしておそらく私の時代の退職金はゼロだろう)という状況で誰が身を粉にして働くだろうか。

バブルの甘い汁を啜ってきた当時の若者が今、会社のトップとなり、当時の価値観を現代の若者に押し付けるのだ。

時代は、変わっているのだ。

労働からの解放

上に書いたように、現代社会では労働一辺倒の生活から解放されるために様々な試みがなされている。

例えばワーク・ライフ・バランスであったり、仕事にやりがいを求める動きが大きい。

さて、私たちはなんのために労働するのだろうか。

原理的に言えば、生きるためだ。

生きるために必要な行為を広げていった先に労働という存在が生まれた。

広く考えれば掃除や洗濯も労働である。(そしてこれらの家庭内労働には給料が発生しないというのか夫婦問題の大きな争点なのだが)

ひと昔遡ろう。家電がなかった時代へ。

洗濯をするには洗濯板とたらいを使っていた時代がある。それはそれは時間のかかる作業であったろう。また、服が破れたり傷んできたら手直しをする針仕事があった。これらは生きていく上で必要な労働であった。

さらには狩猟採集民族である本来の我々の多くはもう狩りも採集もしない。

すでに労働からは解放されていたのだ

生きるために必要な労働は分業によってではあるが自分がする必要ない存在となっていった。

ではなんのために労働するのか。

人はいつからか労働の価値を見失ってしまった。

それは効率を重視するあまり非人間的な所業をしてしまったアメリカ産業革命期のある自動車会社に多く依ると私は考えている。

それがフォードだ。

アメリカの自動車会社フォードは世界で初めてベルトコンベアによる分業制組み立てラインを編み出した。

これは産業にとっては大きな革命だが、人間にとっては大きな失態だ。

人間は生きるためにもの(食べ"もの"も)を作ってきた。最初から作り、最後まで完成させるというのが私たちの労働のあり方であり、労働の成果であった。

それは部品工場であっても、部品を完成品として素材から部品という完成形まで1つの手によって生み出された商品であった。

労働には実体を伴った達成感という対価があったはずなのだ。

それをフォードは奪ってしまった。

合理的、効率化、という言葉のもとに、労働者を機械か何かと考えて全くもって達成感のない仕事を与えてしまった。

何が致命的だったかというと、その工場での給与は周辺の収入相場よりも数段高かったのだ。

今日の食べ物にありつけるかということを最重要視する大衆は飛びつくことになっただろう。失ってしまった事の重大さにも気付かずに。


このようにして労働と成果が切り離された。

今や自分がなんのために労働しているかは大きな経済システムというブラックボックスの中に葬り去られてしまい、知っている人は多くないのかもしれない。


もう一度思い出してほしい。私たちはすでに労働から解放されているのだ。

ただ、苦痛を受けるだけの今の労働は、あなたにとってなんの必要性もないのだ。

ましてやその労働はあなたがしなくたってなんら問題はないのだ。

では、なんのために労働する?

ここで現代社会の試みに戻ることになる。

私からの安っぽい回答は

やりたいことをやろう、生きるために。

に尽きる。

労働の最大の目的が生きるためである。当然誰かを守ることかもしれないが、つまり誰かを生きさせるために他ならない。

その犠牲として全てを自分が捧げる時代でもないのだ。その対価は社会からは支払われないのだから。

むしろ、家族からの「ありがとう」によって支えられている労働とも言えるのではないだろうか。

さて、対価を得られない労働という言葉に聞き覚えはないだろうか。

夫婦の喧嘩の種になるあの、家庭内労働といえば。

掃除洗濯≒労働

この等式が成り立つと同時に

労働≒家庭内労働

とも言えるのだ。

外で働いても、正当な対価を得られる時代ではない。社会はそれほど成長もしていない。

だから「生きる」必要があるんだ。

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