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『いだてん』第一部を振り返る②「アントワープ編」

『いだてん』第一部を振り返る第2弾は、ストックホルムオリンピック後からアントワープオリンピックまでを描いた「アントワープ編」をお送りします。
前回の第1弾はコチラからご覧ください。

ベルリンオリンピックに向けて再始動

ストックホルムオリンピックで、日射病によって途中リタイアした金栗四三は、その屈辱を晴らす為、自分に足りなかったものを見つめ直し、徹底的に鍛え直す。

時代は大正時代へと移り変わり、報告も兼ねて実家に帰ると、四三は兄の実次に、出資してくれた池部家へ連れていかれる。池部家は、幼馴染でもあったスヤが嫁いでいたが、夫は病弱で亡くなっており、跡継ぎがいなくなっていた。そこで、四三となら結婚してもいいとスヤがいい、兄の実次も頭が上がらず、強引に婿養子になることが決まってしまう。
しかし、四三はベルリンオリンピックに出ることしか考えておらず、結婚したものの、すぐに東京に帰ってしまう。結婚してすぐに別居生活になり、結婚したことは報告し損ねてしまい、そのことを隠しながら練習に励んでいた。

四三は、徹底的に鍛えながら、後進も育てていた。ベルリンオリンピックが近づいていく中で、四三はマラソンの世界記録を更新し、オリンピック金メダルのことしか考えていなかった。東京高等師範学校を卒業後、先生としての道を蹴り、日本初のプロのマラソンランナーとして覚悟を決めていた。
スヤのことを想わない日はない中で、スヤが激励にやってきた日も、嬉しくて一度抱きしめたものの、「帰って」とすぐに帰してしまう。スヤが居ては練習に集中できないと、ストイックに全てをオリンピックに捧げていた。
ストックホルムの経験を生かし、徹底的に鍛え上げ、年齢的にも25歳と、万全の状態で臨むベルリンオリンピック。自信に満ち溢れる四三とは別に、表情が暗い嘉納治五郎。それは、第1次世界大戦勃発によるものだった。オリンピック開催を信じながらも、戦火は収まらず、ベルリンオリンピックは中止となってしまった。

箱根駅伝の誕生

ベルリンオリンピックに全てを賭けて、毎日練習していた四三だったが、オリンピック中心に絶望してしまう。練習もしなくなり、部屋で一人途方にくれていると、スヤがやってくる。スヤの叱咤激励のおかげで、もう一度己を奮い立たせるが、金メダルを取っていないのに帰るに帰れない四三は、「四三さんが50人いれば50個メダルを取れるのに」と言う何気ない会話から、「駅伝」を発案する。お正月の風物詩「箱根駅伝」を生み出したのは、他ならぬ金栗四三でした。

しばらく過ごしたスヤも実家に帰るが子供ができていた。それでも四三は家族を顧みず、その後も東海道駅伝や富士山駅伝など、一人で走るのではなく、後進を育てながら、四三本人もがむしゃらに走り続けた。それは、オリンピックに行けなかったことで半ばヤケになっていたからでもありました。
「日本で走ってない道はない」というところまできた頃、アントワープオリンピック開催が決定する。「ストックホルムの悲劇」の影響もあり、マラソンは中止を余儀なくされたが、マラソン開催を信じている四三は選考会を兼ねた駅伝を開催し、その熱狂を見た嘉納治五郎は、オリンピック責任者のクーベルタンに手紙を送り、アントワープでもマラソンが開催され、四三も、後進を四人連れて出場し、水泳からも「日本泳法」を引っさげて二人が出場する。テニスや十種競技の参加もあり、合計16人での参加となった。二人だけの参加だったストックホルム大会からは大きく進歩していた。

そして、テニス男子で熊谷一弥さんが、シングルスでもダブルスでも日本初の銀メダルをもたらす偉業を達成する。大会後の報告会には四三の姿はなかった。テニス以外の競技の結果は燦々たるもので、ほとんどが予選落ち。水泳では「日本泳法」をバカにされ、クロールの足元にも及ばなかった。期待のマラソンも、最高位は四三の16位。またも金メダルには届かなかった。ベルリンの絶望で、がむしゃらに、無謀に走り続けたことで、四三の体は満身創痍だった。四三が運に恵まれていれば、ベルリンかアントワープでメダルと取れていたかもしれません。
今も昔も変わらず、周りは勝手に期待するもので、報告会でも散々叩かれた。報告会に来ていたスヤは、「私にとっては金メダルったい!!」と笑顔で批判を黙らせた。スヤは夫の帰りを待っていた。

帰るに帰れない四三は、傷心で海外放浪をしていたが、そこである光景を目にするのだった。


屈辱の一歩は大きな飛躍の一歩となる

たった二人で臨んだストックホルムから、16人もの参加者に増え、テニスでは銀メダルを獲得するほどでした。しかし、陸上ではまだまだ世界との差があり、水泳に至っては、自らの誇りである「日本泳法」を汚され、クロールへの改善を余儀なくされました。勝負にならないほどの惨敗に、地元で凱旋を期待していた河童のまーちゃんこと田畑政治は、その屈辱に涙を飲む。この田畑政治こそ、第二部の主人公になる人物なのですが、水泳にとってはこのアントワープが屈辱の第一歩になったわけですね。

陸上にしろ水泳にしろ、その第一歩は屈辱でした。テニスはいきなり成果を出してしまいましたが(^^;、その屈辱を受け入れて乗り越えるからこそ、飛躍があり感動が生まれました。

絶望から生まれるものがある

金栗四三さんに至っては、家族を顧みずストイックに練習し、万全の状態で臨んだベルリンオリぴっくは戦争で中止となってしまった反動で、絶望し、諦めてしまいました。しかし、ないがしろにされていた奥様のスヤのおかげで、自分を取り戻ることができました。そして、今なお続き、マラソンランナーの登竜門であり、多くの感動を生み出す「箱根駅伝」が生まれました。四三の絶望無くして、箱根駅伝もなかったでしょう。

絶望を乗り越える為に必要なのは大切な存在

四三が絶望してしまうのも仕方ありません。絶望は、きっと一人の力では乗り越えることはできないようになっているのでしょう。愛する存在や大切な人がいることで初めて、乗り越えられるんだと思います。
絶望は、自分にとって一番大切なものを気付かせるものなのかもしれません。その大切な存在と、自分自身と向き合うからこそ、絶望から希望が生まれ、新たなものが生まれたり、変革をもたらします。

ベルリンの絶望がありましたが、アントワープの飛躍につなげたのは、間違いなく金栗四三の存在が大きいと言えます。ストックホルムから唯一、アントワープまでオリンピックを目指し続け、日本スポーツを支えたのは四三さんの力に他ならないでしょう。

未来はどうなるかわかりませんし、何の保証もありません。どんなに努力して万全の状態にできたとしても、個人の力ではどうにもならないこともあります。ベルリンの場合は戦争によって中止となりましたが、災害によって中止になることもあり得ます。今現在も、九州では大雨被害が出ているようですが、どうすることもできないことはあります。どんなに辛いことでも、受け入れて向き合っていくことが、一番の道筋なのではないかと思います。

次回は、明日、総集編最後となる第3弾をお送りします。
『いだてん』第二部も、2話目となりますが、第一部とは違う面白さが始まっています。日本スポーツの歴史と、人々が流した汗と涙を、しっかりと受け止めていきたいですね!

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