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『インハンド』最終回・後編 今を生きること、生まれることの奇跡

後編は、最終回で描かればポイントを取り上げていきます。あらすじ等を載せた最終回・前編はコチラからご覧くださいませ。

「科学者」という生き方と観念

相羽村で起こった悲劇は、「善意」によって起こったと、第10話のコラムで取り上げました。その「善意」とは、新型エボラという「悪意」をなくす為の研究でした。しかしその実態は、ジョブズ柏木により、相羽村の千人の命を犠牲にして未来の何十何百万人を救おうというテロ行為に等しいものでした。その理由に、高家は激怒し、紐倉は否定しました。

言うなれば、

「科学者とはこうあるべきだという、科学者の観念に縛られた新太」

「科学者とはなんなのかという本質を考えていた紐倉」

ということかもしれません。
「観念」とは物事の認識と言えますが、「科学者とはこうあるべき」という観念によって、未来を救う為なら今を犠牲にしても構わないとなってしまったわけですが、「観念」とは恐ろしいもので、一種の「思い込み」とも言えますが、その観念によって、正常な判断ができなくなることがあります。これは、観念に縛られていると気付けないものです。言い換えれば、自分の中で「当たり前」になっていることは、自分ではその「当たり前」には気付けないものです。

自分が正常なのか異常なのか、客観的に見なければわからないものですが、第三者という視点でもなく、よりニュートラルな視点が必要なんだろうなと思います。それは難しいものですが。そういう意味で、紐倉は、寄生虫の視点で人間を見ているので、より客観的に人間や自分が見えているのかもしれません。その紐倉も、高家がエボラに感染してしまった時は、我を忘れてしまったようでしたが、そんな人間的な一面もちゃんと描かれています。

未来の為に生きるということ

もう一つ重要なことが描かれました。それは、「未来の為に生きる」ということの本当の意味です。
「未来を見ろ」ということは、「今を見ろ」という意味でもあります。「未来は、かけがえのない毎日の積み重ねによってやってくる。」というセリフにメッセージが込められていました。「今を見ないものに、未来は来ない」ということなのかもしれません。

人はいつ死ぬかわかりません。突然隕石が落ちてくるかもしれないし、病気で余命わずかと言われても、通り魔に殺されることだってあります。そういった命の儚さと重さを描いたのが君の膵臓をたべたいという不朽の名作がありますが、誰にも未来がある保証はありません。望む未来を描きながらも、その未来だけを見て生きていても、その未来の為だけに努力をしていても、その未来になるとは限りません。だからと言って、少年革命家ゆたぼん君のように、今だけしか見ず、さらには現状を受け入れず否定し、今を楽しむという刹那的に生きた所で、未来がどうなるものでもありません。

楽しむことは何も悪くはありませんが、それだけで望む未来になるほど、甘くはありません。ポイントは「掛け替えのない毎日」という所です。私も、今日1日を死ぬ気で生きているかと言われたら自信はありませんが(^^;、今日と同じ日は二度とくることはなく、当たり前に過ごしてしまいがちですが、今、今日という時間は今しかないということを忘れずに生きていきたいですね。

人が生まれることの奇跡

致死率100%とも言える新型エボラなので、ストーリー上その威力を知らしめす為にも、感染者は5日以内に呆気なく死んでしまいます。医者だろうが、村長だろうが、大切な人だろうが、子供だろうが。あまりに簡単に死んでいく姿に、命の儚さや、数字でしか見ない科学者や政治家の視点を見たようにも感じますが、それは、たった一人の命の為に描かれたと思っています。

それは、父親と婚約者を失った美園の出産です。381人もの人が犠牲になる中で、たった一つの命の誕生が、相羽村に希望を生みます。そして、人一人の命の重さをわかりやすくする為に、人は簡単に死ぬものの、生まれてくることは奇跡であり、希望なのだと。
「希望は絶望から生まれ出ずる」と思っていますが、絶望がなければ、希望は必要ありません。絶望から生まれる希望を表現したのではないでしょうか。対比として、死が描かれたと思うのですが、本当は、そんな風に描かなくても、生まれてくることは奇跡であり、世界の希望なんだと思います。

毒親や教育、環境によって、「生まれてこなければよかった」と思ってしまうこともあるかもしれませんが、「悪いのは自分ではない、世界だ!」と、コードギアスのルルーシュなら言うでしょう。それも、一歩間違えれば、サイコパス的な犯罪者を生むことにもなり兼ねないので、気をつける必要もあります。

家族だからこそ

最後に、新型エボラ感染の原因になった福山親子ですが、「科学者である前に一人の人間として向き合えばよかった。せっかく家族だったのに」という言葉が印象的でした。福山は新太にとって尊敬できると共に、毒親だったとも言えるでしょう。それは、子供を後継者にしようとしていたこともあり、科学者同士の関係でもありましたが、家族として、親子として、一人の人間として向き合うことが、一番大事だと思います。

毒親毒親言いますが、私は必ずしも毒親が悪いとは思いません。問題は毒の濃さです。その毒に耐えうる濃さならば、子供は強くなるでしょう。薄ければ免疫は弱くなります。
例えば、一流のアスリートの親は、漏れなく毒親だと思います。子供が小さいうちから「英才教育」としてスパルタで鍛えるんですよ?成功したから良く言えますが、このケースはほんのごく一部です。それに漏れた家庭が、毒親になるのです。毒を持って接しても、しっかりと子供と向き合い、愛し、親子として、人間対人間として向き合うことが、ワクチンになるのかもしれません。


全12回でお送りしてきた『インハンド』ですが、いかがだったでしょうか?
個人的には、とても得るものがあり、noteのネタにもなりました(笑)
終わってしまったのは残念ですが、7月期もこういったしっかりしたテーマを持ち、本質を描いたドラマが放送されるのが楽しみです。

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