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他人のせいにして生きることの代償

なんでこうなったんだ。
こんなはずじゃなかった。
今の生活はなんて退屈なんだ。

誰しも自分の現状に対して疑問を持ったことがあるだろうが、それを大抵の人は「こうなるしかなかった」と言って諦めてしまう。

流れるように過ぎていく24時間365日であるが、そこには様々な出来事が起きており、それを私たちは頭の中で高速で処理して生きている。

その途轍もないスピードですぎていく毎日に対して日々選択を繰り返しながら「人生に対する違和感が腑に落ちる」そんな経験を何度もしてきた。

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目の前の現実は選択の積み重ね

仕事の日、朝何時に起きるか、電車の中で本を読むかゲームをするか、職場に到着して同僚に挨拶するかしないか、全て自分で選択することができる。

簡単な選択の連続であるが、この選択の積み重ねが人生である。

選択にはもちろん大きい小さいがある。

その大小は自分にとって影響が大きいものほど大きいと捉え、逆に影響が少ないものは小さいと捉える。

しかしそんなことを考える暇もないくらい、日々の選択は無限に積み重なる。

例えば看護師としていち早く一人前になりたいと思っていても、仕事から帰ってきてすぐにビールを飲むという選択をしてしまってはなかなか成長できない。

病棟の環境を良くしたいと思っていても自分自身が寝不足&二日酔いで朝から元気がなければ変わるものも変わらない。

独身で彼女ナシ、身なりを整える努力をするかしないか、仕事帰りに可愛い子が街中を歩いていて声をかけるかかけないか。

いつもあなたには選択枝が与えられる。その選択枝は「やる」か「やらない」かの2択である。

それを繰り返し行う。時には自分と戦いながら選び続けるのが人生である。

難しい話だが、私はこの選択をするときに大切にしていいる信念がある。

それは

『あらゆる選択も自分で考えて選択する』

ということである。

何度もいうがこの「選択」と言うのは「やる」か「やらないか」だけの簡単なことである。しかしとても奥が深い。

人生における日々の選択はいくらでも自由に選ぶことができる。それが人生の楽しいところだ。

例えて言うなら人生は無限に自由な選択ができるゲームのようなものなのである。
この人生というゲームは実はとても楽しいのだ。

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楽しくない原因はどこにある?

現状、楽しいと思って毎日を過ごしている人はどのくらいいるのだろうか。

周りを見渡しても毎日ハッピーだという人をほとんど見たことがない。

実際私が働いている職場でも様々な不幸自慢で溢れている。

「なんでこんな忙しく働かなくてはいけないのか」
「なんでこんなに給料が安いのか」
「なんで上司や部下は言うことを聞いてくれないのか」

愚痴のオンパレードである。

しかし私が思うにそれもその人の選択の結果なのである。

厳しことを言うが

忙しい職場を選んでいるのは自分。
その給料で働くことを選んだのは自分。
そうした上司や部下がいても「辞めずに我慢して働く」ことを選んだのは自分。

これが「選択」の本当の意味である。

その選択をしているのはだれか、それは自分自身なのである。

だから誰のせいでもない、人生における全ての結果は紛れもなく自分の選択の結果なのだ。

結局悪いのは自分?、、、そうではない。

先ほど書いた通りだと、結果的に全部自分が悪いと言う結論になるがそうではない。

もしそうだとしたら意地悪な上司や先輩たちにボコボコにされて潰されかけている新人Nsは

「私が悪かったから、、、」
「もっと努力すれば、、、」
「もう少し言うこと聞けば、、、」

となってしまう。

そういうことではない。

原因はどこにあるか、それは選択をしている自分自身の「思考」である。

話がかなりややこしくなってきたので一旦整理すると、我々はいつも目の前の出来事に対する選択枝を考える(思考する)ことができる。

具体例をいくつか出してみる。

①先輩が怒っている→自分の行動が悪かったのか?→先輩の前ではできるだけ話をしないでおこう
②先輩が怒っている→何か嫌なことでもあったのかな?→ちょっと話を聞いてみようかな
③先輩が怒っている→職場の雰囲気が悪いなあ→上司に相談してみよう→変わらない→転職を検討しよう

こんな具合に同じことが起きているのに、その先の選択枝は無限にある。

その選択枝を考えているのは自分の思考であり、どれを選択するかも自分自身の思考によるものなのである。

この「思考」や「選択」に対して、他人や環境が入ってくる余地はない。

この「思考し、選択を行う」という行為は誰にも邪魔されようがないのだ。

要するに、自分の頭の中で考えていることに対しては誰がなんと言おうと自分自身以外は干渉できないのだ。

だから、目の前で起きていることを冷静に頭の中で整理し、ちゃんと思考することは実際は可能なのだ。

しかしほとんどの人は脊髄反射的に現実逃避をする。そして愚痴る。それでは何も変わらない。

まずは自分の置かれた状況で、選択枝はいくつあるのかを考える。
最初は考えることに慣れていないので難しいが、トレーニングをすることで自然とこの思考する力は鍛えられていく。

ここで

「じゃ、愚痴ったらあかんの?」

と思う人もいるかもしれないがそうではない。

愚痴をいうことは一過性にストレス発散をするにはとても良い。
また、思い切った決断はこうした時に生まれることも多い。
しかし、愚痴を言うならその後どうなりたいのか、解決策は何なのか、そこまで考えて欲しい。

愚痴って終わりだと結局何の解決にもならず、愚痴を言ってしまった自分のことがだんだん嫌いになっていく。
また、愚痴を言うだけの人が周りに集まってしまうことになるため結果的に毎日愚痴に晒されることになり思考が止まってしまう。

どうせ愚痴るならこんなふうに愚痴ってほしい

A「なんで師長はあんな物の言い方しかできないんだよ。マジで原辰徳だわ。」
B「だよね、マジでそう思う」
A「でもそもそもなんで師長はあんなに怒っているんだろうか、師長のストレスってそんなに凄いのかな?」
B「いや、でも前の〇〇師長もそうだったよ、そういう人が出世するんだって」
A「そうか、でも言われた俺はとっても嫌な気持ちになったよ。俺も忙しい時とか無意識に人を傷つけるようなこと言ってるかもしれないし気をつけよう」
B「確かに、言われて嫌なことは人に言わない方がいいね、お互い気をつけよう」

まあ理想論であるが私は愚痴ってもこのAみたいな感じでいつも最後には自分の学びとなるように意識している。
Bは正直やりすぎだ、こんな奴はほとんどいない、というかこんなやつは見たことない、めっちゃ盛ったわ。すまん。

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現実世界での選択の難しさ

ここまで読んだ人は

「確かに言ってることはわかるけど実行するのが大変なんだよ」

と思うだろう。

その気持ちは痛いほどわかる。

私も過去そうだったし、たくさんストレスに晒されながら選択を繰り返してきた。

私は一般的に「大失敗」と言われる経験をいくつかしてきた。
(具体例を出すと色々と問題になるが生きながらにして健康を損なう以外の「最悪の結果」と言うのを想像してほしい。それをいくつか経験した。)

経歴書に書けないことばかりだが、それらは自分にしてみれば失敗とは思わないし、むしろその時の失敗があったからこそこうして今の自分があると思っている。

「失敗よりもそこから学んだことの方が大きい」

そう解釈できる自分になることを選択したのである。

思考をトレーニングすることは自分の将来を大きく左右するものだ。
現に私と同じ失敗をして人生に絶望し自ら命を絶った人も何人も見てきた。

だから思考し、選択をすることに対して生じるストレスを全身で受け切って乗り越える価値があると断言できる。
その先にあるのは自分の選択で全てを主体的に選択し後悔なく生きる人生である。

私自身まだまだ道半ばであるがこんなに面白い人生は他には味わえないだろうと本気で思っている。そして未来に対してワクワクしながら過ごしている。
同じ社会に生きている人間として「信じられない」と思う人もいるかもしれないが本当にそう思っている。

なんだかスピリチュアルな話になってきたので正直「やばい」と薄々感じながらこの記事を書いているが書きすすめていく。この気持ち悪い記事を書き進めると選択したのもまた私である。

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思考し、選択することは誰もができるテクニック

別に何かに取り憑かれているわけではないし神様なんて1ミリも信じたことはない。

そもそも神様がいるならば助かったであろう人を何人も見てきたから断言できる。

「神はいない」

ここまで言うと大袈裟すぎて逆に怪しい。

しかし、今まで私が語ってきたことをぜひ「テクニック」として身につけてみてほしい。

うまく身に付けることができれば人生が手元にグッと近づいてくるし、慣れると人生を操れるような感覚になる。

人は生まれながらにして高性能な自分だけの空間を持っている。それが「思考」だ。
思考は誰にも邪魔されないし、どんな環境でも自分で思考を巡らせようとすれば何者にも邪魔をされない。

しかし、何も考えずに生活を送ることもできる。

「思考」を使わずに育つのだ。しかし現代ではこれが普通である。

他の人と同じ思考であることが正義であり、同じ選択をすることが社会で生きる術だと学校教育で暗に教えられるからだ。

そんな他人の考えに習って生きる人生が果たして自分の人生なのだろうか?

自分の人生は自分で考えて自分で決める。すべては自分で責任を取る。

その先には必ず楽しい人生が待っていると私は思う。

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自分の人生の責任は誰が取るのか

物事に対して真剣に考えず、考えることから逃げ続け、その場しのぎの選択をしてきた人は結果的に人生までも人のせいにする。

「自分がこうなったのは親のせいだ!」
「コロナ対応で鬱になた。国のせいだ!」
「看護師の待遇が悪いのは看護協会のせいだ!」

書き始めたらキリがないが、こんな感じである。

人のせいにしていいことなんて1回でもあったか?

人のせいにするというのは一瞬の快楽でしかない。
必ずまた同じように自分の選択を人のせいにする。

違う。全くもって違う。

今ある自分の感じている不満のすべての原因は考えることから逃げ続けて、ただただストレスなく人と同じような決断をし続けた結果なのだ。

だから自分の人生は自分でしか責任が取れないと言っているのだ。

人は考えて少しずつ成長する。
時には人生に絶望するような間違いをすることもあるかもしれないがそれが人生じゃないか。

人生の責任は自分で取る。
強い覚悟を持って、自分の思考で最高の選択をし続ける。
その先には必ず楽しい未来がある。

考える人生を選択しよう。

遅いことなんてない。今日があなたの人生にとって一番若い日なのだから。


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