シェアハウス・ロック2310初旬投稿分

きつね蕎麦は「空の空」1001

 蕎麦、うどん、関西と、三題噺のようになってきたので、次のことにはどうしても触れておかなければなるまい。
 20代のちょうど真ん中あたりに、ちょっとした仕事があり、大阪外語大学に行ったことがある。ちょっとした仕事は夕方からなんで、腹になにか収めとこうと近所をうろつき、うどん屋を発見した。
 メニューをろくすっぽ見ないで、「きつね蕎麦ください」と私は頼んだ。間髪を入れず、「そんなもんどないつくれちゅうんじゃ」とオヤジの怒声が飛んだ。「なんだ、なんだ」と私は思ったが、メニューをちゃんと読み、とりあえずきつねうどんを頼み、ことなきを得た。
 大学に戻り、私らの担当者に会い、解説を受けて、私はやっと事態を理解した。
 ちなみに、関東では下表のようになっている。

【関東のきつね・たぬき事情(表1)】

     そ ば  うどん
きつね   ○    ○
たぬき   ○    ○

 ○が「ある」ものである。それに対して関西では次表のようになる。

【関西のきつね・たぬき事情(表2)】

     そ ば  うどん
きつね   ×    ○  
たぬき   ○    ×

 つまり「きつね蕎麦」「たぬきうどん」はないのである。このへんから関東者は混乱していくのだが、混乱を収めるために、まず関西には「きつね」「たぬき」しかないとお考えいただきたい。「蕎麦」「うどん」などと考えると混乱のもと。
 で、「きつね」は関東の「きつねうどん」のことであり、これは簡単。というか、そのまんま。一方、「たぬき」は関東でいう「きつね蕎麦」のことである。これも、そう言うからそうなんだと思えばまあ納得するしかない。。
 だが、関東者は表1のマトリクスで理解しているわけで、「きつね蕎麦」「たぬきうどん」はどうしてくれるんだという思いがどうしても残る。
 解説者によると揚げ玉(関西では天かす)は無料であり、そういえば関西のうどん屋にはテーブルに出ている。それで、関東でいう「たぬき」系はあえて名前をつける必要がなく、よって「たぬきうどん」は「素うどん」を頼めば事足りてしまう。
 最期に残った大物が「きつね蕎麦」だが、「それ」は自動的に「たぬき」に横滑りしてしまっており、空席。「空の空」のような状態になっている。私は知らずに、論理矛盾のような代物を注文してしまったのだった。オヤジが怒るのも無理はない。

上野鈴本の下足番1002

 話が落語から大阪ネタに移動してきたので、強引に落語ネタに戻す。
 何回か前に、故新ん朝さんの真打披露公演に行ったお話をしたおり、「まだ下足番があった」と言ったが、この下足番が名人で、預かった下足を返す際に、間違えることがまったくなかったという。「当り前だろう」とお思いかもしれないが、甘い。下足札を渡さないで、だよ。下足札なんぞという無粋なものを渡して間違えないんだったら、私でもできる。いや、私だったら下足札渡したって間違えるかもしれない。
 一方、客のほうは、寄席に来るような連中だから、洒落がきついというか、ろくでもないというか、この下足番が間違えるような下足をわざわざ履いて、間違いを誘おうとしたという。
 例えば、着流しで靴を履くとか、リュウとした背広を着て下駄を履くとか、そういった悪さをしたという。
 甘いな。そんなことをやったら、かえって記憶に残るはずだ。私だったら、リュウとした背広を着て、ややボロ靴を履く。私はなにを考えているんだ。
 それでも、彼は間違えない。
 一度だけ、週刊誌の記事で彼のことを読んだ。その記事にはお名前も書かれていたと記憶しているが、肝腎のお名前はおぼえていない。
 でも、そんな週刊誌の記事に頼るまでもなく、下町の人間だったら、上野鈴本の下足番は名人だとみんな知っていた。ちょっと慄然とするというか、文化の根っこが深いというか、そういう話だと思う。
 寄席は落語、色物などの芸人が出るだけでなく、高座に上がらないけれども、裏で支える多くの人たちがいる。それ全体で文化だったんだと思う。いい時代というか、素晴らしい時代だったのだ。
 志ん朝さんの父親の志ん生さんは、出囃子の三味線のお姐さんがある特定の人のときだけ、高座で『大津絵』を歌ったという。
 噺家は高座だけでなく、お座敷に呼ばれることもあった。小泉信三は志ん生さんを贔屓にしており、毎年一回お座敷に呼び、噺が終わった後『大津絵』を歌わせ、必ず涙を流したという。これもいい話だ。

落語入門1003

 延々と落語とその周辺の話をしてきて遅きに失したが、これを読んでくださっている方々にも落語をお勧めしたい。
 まったく落語なんか聴いたことがないという方にお勧めなのは、古今亭志ん朝さんの『酢豆腐』である。youtubeで見られる。
 youtubeでは、いま映像付きの志ん朝さんの『酢豆腐』が3種類アップされていると思うが、25分20秒ほどのものがよいと思う。万が一これが面白くなかったら、あなたは「落語とは縁がなかった」とお考えになるしかない。落語の「必要十分」がこの26分弱には詰まっている。
 以降のお話は蛇足だが、『酢豆腐』の粗筋は町内の若い衆が集まって、暑気払いに酒を飲むというだけのものだ。彼らは昨日も暑気払いをしている。だから、割り前(徴収金)がもうほんの少ししか残っていない。そこで、つまみをどうするかでひと悶着あり、知恵者が床下の糠漬けの樽をかき回し、「忘れてしまった古漬け」を探し、「かくやの香こ」にしてつまみにするという案を出す。
 そうこうしているうちに、昨日残した豆腐があることを思い出し、それが傷んでいたので捨てようとしていたところへ不運にも通りかかったのが伊勢屋の若旦那。
 若旦那は半可通、知ったかぶりで、気障なので、みんなに嫌われている。それで、うまいこと言ってこの若旦那にこの傷んだ豆腐を食わせる。
 これだけの話であるが、若い衆同士のやりとりや、傷んだ豆腐を食わせるまでの経過が面白い。
 こう書いてきても、我ながら面白くもなんともないが、落語は粗筋じゃないから、面白くもなんともなくて当たり前である。だから、最初に「蛇足」とお断りしたはずだ。なんか、ここ、威張ってるように聞こえたらごめん。
 私、この『酢豆腐』をじつは30回は見ているが、その都度発見がある。そして、笑う場所も聴くたびに違う。
 愛読書というものが世の中にはあり、よく有名人に「愛読書は?」などと聞く企画が雑誌などである。私は長らく、この愛読書という概念がわからなかった。なんで何回も読むんだくらいに思っていたのだ。
 これは、私が本を粗筋で読んでいたことによるのではないかと、このごろでは思っている。
 愛読書(愛読する行為)については別のところに書くつもりだが、こういう考え方に至ったのは、じつは古今亭志ん朝さんの『酢豆腐』を何回も見たことによるところが大きい。
 最期に、この文では三か所「見る」と言ってしまっているが、これはyoutubeだからで、落語はあくまで聴くものである。寄席に聴きに行くとは言うが、寄席に見に行くとは言わない。
 

【Live】9月27日の浅草演芸ホール1004

 落語ネタが続いたので、最後は【Live】で締める。
 タダ券を2枚もらったので、9月27日は浅草演芸ホールに行った。ちょっと前だが、まだ【Live】でもそれほどおかしくないと思う。
 以前に出てきたマエダ(夫)のほうと一緒だった。昼席は11時半くらいからなのだが、私らが入ったのはほぼ午後2時だった。
 入ったときからの出演者(演目)を列記する。
    三遊亭歌武蔵(相撲漫談)
    仙志郎・仙成(曲芸)
    春風亭一之輔(小話)
    五街道雲助(演目忘れた。雲助さん、ゴメン)
    (仲入り)
    隅田川馬石(反対車)
    米粒写経(漫才)
    柳家さん蕎(長短)
    春風亭一朝(目黒のさんま)
    立花家橘之助(音曲)
    桃月庵白酒(粗忽長屋)
 一之輔関連でふたつほど。まず、小話だったのは、なぜか非常ベルがやたら鳴ったからである。セキュリティのベルだったので、それもネタにして、泥棒ネタの小話だけやって、引っ込んでしまった。もうひとつ、私らは一之輔が終わるまで満席で座れなかったのだが、終わったらかなり客が帰ったので座れた。まあ、一之輔時点での満席は、「笑点」効果だろうなあ。寄席ファンとしては、まあ結構なことである。
 昼の部がはねるのは4時半である。外で、マエダ(妻)と我らがおばさんが待っていて、それから飲みタイム。とは言っても、行きつけの店は全部休み。全滅。おまえら、水曜日は定休なんだな。おぼえたぞ。
 で、煮込み横丁で飲み、そのあとは仕方ないんで神谷バーへ。マエダ(夫)は無謀にも電気ブランを3杯も飲んだ。案の定、最寄り駅で降り、なじみのバーで仕上げを飲み、外に出たところで酒豪にもかかわらずマエダ(夫)がダウン。感電だな、あれは。
 でも、寄席も、煮込み横丁も気に入っていただけたようで、よかった。
 余談だが、夜の部主任(トリ)は林家しん平。こぶ平(現正蔵)の弟子だという。こぶ平に弟子がいたっていうんでまずビックリ。
 まあ好き好きだからいいんだけど、夜の部に、林家鉄平/ペー/はな平/あんこが出ていた。これ、知らなくて言うのもなんだけど、全部こぶ平一派だろう。海老名家仕切りじゃねえのか。こんなこと続けたら、寄席文化は滅びるぞ。

【Live】(恋するうさぎ)さんへのメール1005

(恋するうさぎ)さんから、「スキ」をいただいた。もちろん、他の方々からもいっぱい「スキ」をいただいている。その都度、どういう方かなと、いちおうはプロフィールというか、3行アピールみたいなものは読んでいる。投稿は、申し訳ないけど、ほとんど読めていない。年金生活者で時間はたっぷりあるみたいなことを言ってはいるものの、それは半分以上見栄であって、年金生活者でもそれなりには忙しい。読まないといけないなとは思っても、なかなか読めない。ところで、(恋するうさぎ)さんの3行アピールは、次のものだった。

 楽に生きられる方法を模索しています 今、どのへんにいるかなんてわからない。 わかることは、ほんのわずかなこと。 今を生きること。 今やれること。 それが全てだから。 それが良くも悪くも自分だから。

 これを拝読して、「おいおい、大丈夫か」と心配になった。
 楽に生きられるというのが経済的にということでなく、精神的にということだったら、私でも多少は答えられる。経済的にであったら、私なんぞの歯の立つ問題ではない。私が教えてもらいたいくらいだ。
 まず言えることは、精神には可塑性があるということだ。だから、自分の精神など、自分では、たいしたものじゃないとなめてかかることである。でも、他人の精神をなめてはいけない。それは、尊重しなければならない。
 私は、我ながら大変な人生を送ったというか、送らざるをえなかったが、母の介護を終え(父はとっくに亡くなっていた)、やっていた会社を閉じ、経済的にはそこそこ大変だったけど、精神的には「こんなに楽でいいのかな」と思うようになった。だから、次のアドバイスは、「一刻も早く歳をとりなさい」ということである。
 プロフィールに添えられていたお写真を拝見して、(恋するうさぎ)さんは、二十代後半から三十代前半とお見受けした。だけど、頑張れば、四十代に入るあたりでも十分「老境」に入れるから。これは、努力次第である。「老境」からかつての若いころの日々を見れば、それがどんなに大変な日々であっても、遠く、なつかしい思い出のようになる。これは保証できる。
 上記3行のなかで、「今」が3回も出ている。ここからわかるのは、「今」に拘泥しているということだ。「今」に拘泥できるのは若さの特権である。若い人には体感しにくいとは思うけど、「今」なんて、あっという間に過去になるものだ。
 こんなことを書いている日に、(恋するうさぎ)さんから、「シェアハウス・ロック1002」に対して、「とても参考になります」というコメントをいただいた。その回は、上野鈴本の下足番の話と、寄席文化の話しか書いていない。書いた当人が、どこが参考になったかが、よくわからない(見当だったら、多少はつく)。
 今回の話は、わかりにくいかもしれないけれども、でも寄席文化と下足番の話を参考にできる人ならわかっていただけると思う。
 最後に、今回の「シェアハウス・ロック」は、寄席だったら「客いじり」と言い、やってはいけないことである。でも、本当に心配したんで、お赦しを願いたい。

【Live】沖縄知事 変更承認せず1006

 普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画の一環として、国土交通省が軟弱地盤の改良のため必要な設計変更を4日までに承認せよと県側に迫っていたのに対し、玉城デニー知事は、「期限までに承認することは困難」と回答した(10月05日・毎日新聞朝刊)。
 平ったく言えば、玉城知事は辺野古移設に対して、自分の権限でできる最大限の抵抗を示したことになる。
 辺野古移設は、「悪夢の民主党政権時代(ⓒ安倍晋三)」(笑)には、既に鳩山由紀夫(発言当時首相だったと思う)が、「最低でも県外」とまるで根拠のないことを言って顰蹙を買ったが、つまりそれ以前から俎上にあがってはいたのだと思う。それだけ古い話なのに、移設の根拠があまりはっきりとは示されてこなかったようだ。日本的精神風土お得意の、「初めから結論があった」ような気がする。少なくとも私は、納得のできる説明を読んだ記憶がない。
 まあ、移転の是非を議論するのが今回のテーマではないので、移設問題はここまで。
 私の尊敬する思想家がいる。17歳のときにその著作に出会い、それからその人の著作を遡り、また新刊を読みというふうにしてきた。その人は強烈な磁場を持っているので、30歳のときに、これでは自分の考えがなくなってしまうのではないかと危機感を持ち、新刊は買うものの、しばらくあえて読まないようにした。
 30代半ばで、この人が主宰するイベントがあり、ひょんなことで、そのイベントを手伝うことになった。だから、直接お会いして、打ち合わせをしたりする必要が生じる。そのとき私が思ったことは、「もし、嫌なやつだったらどうしよう」ということだった。冷静に考えれば、友だちづきあいするわけでもなく、こっちが一方的に本を読むだけの関係だから、嫌なやつであろうがなかろうが、本当は痛くも痒くもないはずだ。つまり、私のなかでは、尊敬を通り越して、崇敬というか、私淑というか、そんな気分だったのだろうね。冷静じゃなかったわけだ。
 幸いなことに、人間的にも素晴らしい人で、直接話したりもできた。私の人生で、間違いなくベスト10に入る出来事だった。
 この人が、あるとき、おしゃべりのなかで、

 国と企業が対立したら企業の側に立つのが正しく、企業と組合が対立したら組合の側に立つのが正しく、組合と個人が対立したら個人の側に立つのが正しい。これは、原理です。

とおっしゃった。これは、著作(リテラル)では私は読んだ記憶がない。オーラル(口頭)だから言えることで、慎重な人だし、誤解を招く言葉ではあるので、著作には書かなかったのだろう。
 上記を若干敷衍すると、「国と地方公共団体が対立したら、『地方』の側に立つのが正しい」となるはずだ。
 誤解される言葉なので、その人のお名前を今回は書かないが、いずれきちんとした形で、この人のことは書こうと思っている。
 最後にもうひとつ。知事は私たちが選んだが、総理大臣(≒国)を私たちは選んでいない。首相を公選するようになれば、私も、多少は考えを改めるかもしれないけど。

【追記】
 10月06日の毎日新聞一面トップは、国が提訴し、代執行が可能になったことを報じたものだった。規定路線だろうなあ。
 私は、村上春樹さんが、どこやら(確か外国。パレスチナだったか)の講演で言ったことを思い出した。多少不正確だけど、村上さんは「壁に卵を投げつける。卵は割れる。私は壁よりも、卵になりたい」ということを言ったのだった。100%同意する。

ジャズ喫茶1007

 若い人には、ジャズ喫茶なんて言ってもわからないだろうなあ。
 でも、ジャズ喫茶の話をする。ゴメンね。だけど、ジャズそのものの話はあんまりしないようにするから、安心してね。
 まず、ジャズ喫茶なるものには二種類ある。いわゆるジャズ喫茶と、そうでないジャズ喫茶である。ますますわからないでしょ。若干解説すると、そうでないジャズ喫茶とは、いまの言葉(でもないのかな。老人なんで、わからない)で言えば、ライブハウスである。少しわかった?
 私は、こっちのジャズ喫茶には、ちょっと遅れた世代である。こっちのジャズ喫茶では長すぎるので、これからはライブ喫茶と呼ぶことにするが、あくまで同時代的に言えばジャズ喫茶である。お間違えなきよう。だから、万が一あの時代にタイムスリップしたときに、「ライブ喫茶どこですか?」なんて聞いても、だーれも知らないから。気をつけていただきたい。
 ライブ喫茶はどのくらいあったのか知らないが(遅れた世代だからね)、ACB(アシベと読む)というのが銀座と新宿にあった。両方とも行ったことがある。あと、ラセーヌというのがあったような気がする。これは、池袋だったような気がする。行ったことはない。行ったことがないのになぜそんなことを言うかというと、ラジオの番組で「池袋のラセーヌからお送りします」というのがあったような気がするからだ。気がするばっかりだなあ。ただ、これらは私が知っている限りにおいてということであって、ACBにしても、その他のライブ喫茶にしても、もうちょっとはあったのだろうと思う。
 新宿のACBには一回だけ行った。ザ・スパイダーズを聞きに行ったのである。そのときに予定表みたいなものをもらって、次のザ・スパイダーズのときに行き、なんだか聞きたくないのをやっていたんで、仕方ねえってんで銀座のACBに行ったら、そこでザ・スパイダーズがやっていたんで、しめたってえんで入って聞いた。なんだろうね、あれ。メンバーの誰かが新宿と銀座を間違えて、それで、しょうがねえってんで、銀座でやっちゃったのかね。謎である。
 銀座のACBには、あと二回行ったことがある。一回は、寺内タケシとバニーズってのがやっていた。別に寺内タケシ好きでもないのになんで入ったんだろう。これも謎である。
 もう一回は、スゴイよ。岡林信康、高田渡、五つの赤い風船が出ていた。ライブ喫茶、もとい、ジャズ喫茶だよ。ライブ喫茶だったら、なんの不思議もない。岡林は、まだエレキギターを持つ前で、アコースティックギターで『それで自由になったのかい』をやり、これは「風船」のベースの人(長野隆さんといったか)がサポートしていた。

なぜ、「ジャズ」喫茶なのか1008  

 ライブ喫茶のほうのジャズ喫茶の体験は、前回までにお話ししたことで尽きる。いわゆるGSというのがたくさん出てきた時代だった。ライブ喫茶にもだいぶ出ていたと思う。でも、GSには、まったく興味がなかったからね。たぶん、あの人たち(GSの人たちね)は、実はストーンズとか、そういうのをやりたい人たちであり、営業政策で歌謡曲みたいなヘンテコリンなのを歌わされていたみたいだから、ライブで聞けば、またそれはそれでよかったのかもしれない。でも、そんなことを知ったのは後年だから、仕方ない。
 なぜ、ジャズ喫茶と呼んだのかと言えば、それまではジャズをやっていたんだろうなあ。ジャズがブームになった時代があって、日本人のプレーヤーも、かなり本格的なジャズをやっていたのである。たぶん、そういう人たちが出ていたんだろう。当然、私は、それには間に合わなかった。
 とは言っても、ぜーんぶジャズだったんだから仕方ない。またまた、なに言ってるかわからないでしょう。音楽のカテゴリーというか、分野というかが、混乱していたと言うか未分化だったと言うか、そういう状態だったのである(と思う)。(と思う)などと、自信なげに言っているが、実際に自信がないのである。
『レコードマンスリー』という、A6判くらいのカタログのようなものがあった。厚さは1cmくらいで、レコード屋でもらえた。私は、ハリー・ベラフォンテのカッタウェイ版を買うために、せっせとレコード屋に足を運んでいたのだが、その折にもらってきた。たぶん、その当時、日本で発売しているレコードが全部載っていたのだろう。逆に言えば、その程度しか、毎月レコードが発売されていなかったのだろう。
 なにせ、60年以上前の記憶なので、相当あやしくなっているが、カテゴリーは、まず、「洋楽」「邦楽」に二分され、「洋楽」は「クラシック」(当時は、「クラッシック」と表記していたと思う)、そして「ジャズ」である。だから、「ラテン」も「ハワイアン」も、みーんな「ジャズ」だった。ホントだよ。
「邦楽」はあんまり興味がなかったので、さらによくおぼえていないのだが、「歌謡曲」と「民謡」に分かれていたと思う。「歌謡曲」以外は、みーんな「民謡」。小唄も新内も都都逸もなにもかも、みーんな民謡。なんとも雑駁、かつ乱暴だが、そういう時代だった。
  

ジャズ喫茶、「準」ジャズ喫茶1009

 で、やっとジャズ喫茶(ライブ喫茶じゃないほうね)の話に入れる。
 ジャズ喫茶は、客にコーヒー等々を供し、レコードでジャズを聞かせる喫茶店である。そんなもの営業的に成立するのかと、いまの若い人たちは思うかもしれない。でも、成立したのである(と思う。だっていっぱいあったからね)。最盛期、新宿には、私が知っているだけでも30軒くらいのジャズ喫茶、準ジャズ喫茶があった。村上春樹さんは、国立(コクリツじゃなく、クニタチね。東京都だ)だかあのへんで、ジャズ喫茶を経営していたことがあるという。だから、それなりには営業的に成立していたのだろう。ここで、「準」というのがわかりにくいかもしれないけれども、本格ジャズ喫茶に準ずるという程度の意味である。
 では、本格ジャズ喫茶とはなにか。
 すぐわかる要素と、そうでない要素がある。前者で簡単なところから言うと、まず、店内が暗い。陰気という意味ではない。店内の照明が、営業基準ぎりぎりの明るさというか、暗さである。
 次に、椅子の並びがヘンテコ。スピーカーに対面して、二人並びの椅子がある。つまり、囲むテーブルがない席がある。これも、わかりやすいほうの要素である。囲むテーブルなど、まったくない店もあった。新宿東口にあった「ビザール」なんてとこはこれだった。
 次に、暗い。今度は、陰気のほうである。
 二人連れの客が少ない。二人連れ以上は問題外である。
 客同士がしゃべらない。「しゃべるな!」と大書してある店すらあった。「しゃべるな!」と書いてない店ではしゃべれるかと言えば、「本格店」では書く必要すらないということもあったから、油断はできない。そんな店に素人が紛れ込んで、あらぬ話を大声でしゃべるという蛮行に及ぶことがある。そんなときでも、その店のマスターが注意することはまずない。常連客みたいなのが、すっと立ち上がり、すっと近寄り、その狼藉者の肩をちょんちょんと突き、外を指差す。それで十分である。不埒者も、それで黙るか、おとなしく店から出て行った。いい時代だったというか、民度が高かったんだな、少なくともジャズ喫茶では。
「本格」「準」には、いま現在かかっているレコードのジャケットを提示するスペースがあった。「準」のわかりやすい定義は、このスペースがあるかないかである。これは、かなり重要な決め手になる。多少わかりにくい店でも、このスペースがあれば、そこは「準」である。

【Live】春風亭一之輔二席1010

 日曜日は、「シェアハウス・ロック0923」に出てきたカップル主宰の落語の会に行ってきた。今回で17回目だという。一之輔はまくらでいま45歳だと言っていたから、彼が28歳からこの会をやっていたことになる。
 今回、この会を始めたいきさつをカップルから初めて聞いた。新宿末広亭の「深夜寄席」でまだ二つ目の一之輔を「発見」し、「来てくれるかなあ」と思いつつ声をかけたのが発端だそうだ。「栴檀は双葉より芳し」だったか、カップルが相当な目利きだったか、たぶん両方だろう。
 28歳といえば、普通なら、どんな業種であっても、「自分はこれでずっとやっていけるのだろうか」と悩みに悩むころだと思う。ロマンチックな妄想を言わせていただければ、この歳で「オレはいっぱしだ。名人にリーチがかかっている」なんぞと思っている人は、大成しないと思いたい。たいていは、ある日は自信を持ち、ある日はめげ、ある日は一筋の希望を見い出し、といった具合に、揺れに揺れる時期だと思う。
 だから、これは、双方にとって本当に幸せな出会いだったと言える。
 おばさんと私は、12年くらいここに行っていることになるが、「回」で言わないのは、ここ3年は、ごくごく小規模にやっていたからだ。残念ながら、私らにはお声がかからなかった。チクショー、コロナのヤロ―め!
 対バン(コラコラ、ライブハウスじゃないんだから)は寒空はだかさん。一之輔二席の間に挟まって寒空さんだから、前座ではないわけだ。それで、対バン。
 寒空さんは、ジャンルから言えば漫談になるが、不思議な芸風である。漫談は、原理から言えば「バカに見せているが実は利口」であると私は思っているが、寒空さんは、「バカに見えても利口」「利口に見えてバカ」と目まぐるしい。「ここと思えばまたあちら」の牛若丸みたいである。それも含めて不思議な芸風で、私はいつも、「面白うて やがて悲しき 鵜飼いかな」(芭蕉)を思い出す。いまWikipediaで調べたら、「鵜飼い」ではなく、「鵜舟」になっているものもあるのを発見した。だが、私は「鵜飼い」でおぼえていた。いずれにしても、芭蕉並みの余韻のある芸であることになる。前文に(笑)をつけるかどうか相当悩んだが、これで半分くらいはつけたことになるな。
 寒空はだかさんをくさしているように聞こえたら、私としては心外で、私らは、独演会に行ったことすらあるファンだ。
 恒例の、ハネ後の宴会はなし。チクショー、コロナのヤロ―め!

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