シェアハウス・ロック2401下旬投稿分

ら 雷と空っ風義理人情0121

 表題は、どう考えても国定忠治のことだと思う。  
 八木節の歌詞に、国定忠治に関して「親の代から庄屋をつとめ」という一節があるが、実際に忠治の生家も豪農であり、長岡という姓もあるので、庄屋は嘘じゃないのだろう。父与五左衛門が文政2年(1819年)に死去したため、忠治は青年期に無宿となり、家督は弟の友蔵が継ぐこととなった。
 忠治は、上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となった。大前田の英五郎は、昔々の東映映画などでは悪役であり、新藤英太郎の役どころだが、実際は人情味にあふれた、なかなかの大親分だったという。
「義理人情」は、天保の大飢饉に際して窮民を救ったという伝説から来ているのだろうと、私は考えている。これを否定する声もあるが、羽倉簡堂が代官として支配する村々を巡視した天保8年(1837年)の日記に「山中ニ賊有リ、忠二ト曰フ、党ヲ結ブコト数十、客冬来、屡孤貧ヲ賑ス」とあり、これは忠治のことである。
 忠治と忠二で字が違うが、このころは割合普通のことで、通じればいいくらいのおおらかさがあった。「客冬来」は、「客到来」のことだろう。
 文部省もなかったしね。うるさい人がいなかった。自分の名前すら別の字を使って表記している例もある。初めてそういうのを見たとき、私はビックリしたが、だんだんに慣れていった。
 名前にしても、幼名、元服名、字名、号といっぱいあり、そういう文化だったんだね。<n個の性>ならぬ<n個の姓>。ああ、<姓>じゃなくて<名>だったな。<性>もn個なら、<名>もn個で、<漢字表記>もn個というのはなかなかいいような気がする。単一っていうのは、どうも息苦しくていけない。
 話を戻して、忠治は嘉永3年(1850年)に、田部井村名主宅で関東取締出役に捕縛され、小伝馬町の牢屋敷に入牢。後に、上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、大戸処刑場で磔の刑に処せられた。享年41。
 なお、弟友蔵は明治11年まで生きた。
 余談にもほどがあるが、やーさまつながりで、やー公界の二大巨頭の片割れである清水の次郎長が死んだのは明治26年。この年に日本で初めて映画が上映されている。
 幕末と明治は意外と近いのである。
 
ら 雷と空っ風義理人情
り 理想の電化に電源群馬
る ループで名高い清水トンネル
れ 歴史に名高い新田義貞
ろ 老農船津傳次平

【Live】八王子市長選0122 

 昨日は、八王子市長選挙の日であった。朝から小雨が降り、寒い日だったので、投票率も下がったと思われる。だが、午後には晴れたので、実際のところはどうか。私は、「期日前投票」というので投票していた。
 立候補者は5名。そのうちのひとりは、選挙管理委員会の掲示板にもポスターの掲示がなく(噂では、ポスターへの自分の写真の掲載を拒否したという)、選挙公報の内容もまったく理解できないものだったので除外し、実質4名。
 初宿(しやけ)和夫は、現市長を継承する人物で、ようするに萩生田光一の子分である。萩生田は安倍7人衆のひとりであり、安倍晋三はこの国をこれだけ悪くした元凶のひとりだ。
「モリカケ桜」はなにひとつ納得のできる解明がされていないし、赤木俊夫さんの問題も、「認諾」という納得できない幕引きで、改ざんに関連する行政文書を不開示とした国の決定の取り消しを求めた妻雅子さんの訴訟も、大阪地裁の徳地淳裁判長は棄却した。
 だから、私は初宿に対抗できる可能性が一番高いと思われる人に投票をした。
 投票に行かない人の言い訳に、 
「誰がやってもおんなじだ」
というものがある。このカッコ内は、私も同感しないでもない。
 だが、
「何をやってもおんなじだ(=かまわない)」
とうそぶく人間が政権中枢にいる限り、「誰がやってもおんなじだ」は、彼らのやっていることを追認することにしかならない。
「何をやってもおんなじだ(=かまわない)」
はなんとしてでも駆逐しなければならない。岸田政権は、今回の裏金問題で「政治刷新本部」を立ち上げたが、そのメンバーを見ると、当の本人たちが名を連ねている。なんだか悪夢を見ているか、出来の悪いブラックジョークを聞いたような気分である。つまり、気分が悪くなる。
 どこから手を付けたらいいのかわからないような惨状であるが、私(たち)ができる唯一のことは、投票に行って、投票率を上げることである。
 現在、投票率は通常50%前後だ。つまり有権者の半分が投票し、その過半を取った人間たち、つまりたかだか20%強の信任を受けた人間たちが、この国をほしいままに動かしていることになる。 
 これが、
「何をやってもおんなじだ(=かまわない)」
をはびこらせることになっているというのが、私の見立てである。
 だから、とりあえず投票率を上げ、「これだけの人間が、おまえらを監視しているんだぞ」ということを、せめて彼らに見せないと、この国はいつまで経ってもろくなザマを見せないと思う。
 これを別の言い方で言えば、「浮動票層の存在を誇示する」ということになる。この国は、岩盤支持者のためだけのものではない。
【追記】
 投票率38.66%(前回31.46%)
 結果は初宿和夫 63,838
    滝田泰彦 57,193
残念な結果になった。でも、投票率の7%上昇は、私のように考える人間がそれだけいたことによると思いたいところだ。
 一方、八王子市の有権者数は46万8256名。もう7%でも上がれば、あと32778名が投票したことになる。滝田さんに可能性があったと思いたいところである。

安倍晋三も田原総一郎も失格0123

 ネットニュース(以下、『』「」内の文はネットニュースそのまま)で知ったのだが(ということは、若干信憑性には欠けるが)、
『1日午前2時から放送されたテレビ朝日系の討論番組「朝まで生テレビ!元旦SP」で、驚きの“爆弾証言”が飛び出し、SNS上で今も話題となっている』
という。話題となったのは当番組のホスト・田原総一郎の発言内容である。
 その内容とは、
「安倍さんは『異次元の金融緩和、積極的財政出動で必ず経済成長する』と言い切った、ところが全く経済成長しなかった。で、安倍さんは僕に『どうもアベノミクスは失敗だった。田原さんどうすればいい?』と言ってきた」
というもの。
 そのネットニュースでは、
「安倍元首相がいつ、どのタイミングで発言していたのかは分からない」
としていた。
 私は、当該番組を見ていないので、これらを正しいという前提でお話しするしかないのだが、まず、田原総一郎が全然ダメ。こんなこと、一刻も早く、国民に知らせる必要があるだろう。
 アベノミクスは、(起こるはずのない)トリクルダウンを前提にしていたことがまず経済政策としての一大誤謬であるが、上記「タイミング」によっては、安倍晋三も心を入れ換えて軌道修正をしたかもしれないし、それによって国民生活も多少は楽になっていた可能性もあった。田原総一郎に、このことを大々的に伝えるルートがなかったとは、とうてい思えない。それをしなかったのは、田原総一郎にも忖度があったのか。
 さらに、いまごろ言い出すのも理解できない。ジャーナリスト失格だな。もっとも、ご自分は、自らを称して電波芸者と言っておられるが、じゃあ、旦那はだれだよ。視聴者かよ。そうじゃあるまい。旦那は安倍晋三だろうと言われても、文句は言えまい。
 もっとも、安倍晋三も「大人子ども」みたいなところがあったから、そういう報道がされても、かえってムキになって、アベノミクスとやらを継続した可能性もゼロじゃない。
 安倍晋三は、私が、「この人は、徹底的にダメだな」と思った人だが、その最大の根拠は、秋葉原駅頭だかで、反対派のオヤジ連中が「帰れ!」コールをしたときに、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言い放ったところだ。あれを問題発言視しなかったマスコミもダメ。多少問題視はしたけど、あんな程度の問題ではない。大問題だよ、これは。
 だってさ、落ち着いて考えれば、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(憲法25条)を約束したはずの、かつ「主権を有する」人たちに対して「勝つ」って、そもそもどういうことよ。国民は、おまえら政権(=国家)の敵なのかい。だって、「負けるわけにはいかない」は、アバウトイコール「勝つ」ってことでしょ。国家が国民に勝ってどうするってんだい。そもそも、憲法は、国が国民にした「約束」なんだよ。わかってるの?
 安倍晋三ネタならいくらでもあるので、それはそのうちに、「上毛かるた」ネタみたいに、徹底してやるつもりである。
 私は、この国を悪くしたのはまず小泉純一郎、竹中平蔵コンビで、安倍晋三がそれを仕上げ、管、岸田なんていうのは、たかだかその後継者の小物でしかないと思っている。
 
 
『ちょっと違和感』0124

『シェアハウス・ロック0930』の「蕎麦を手繰る」にご登場いただいた松尾貴志さんの『ちょっと違和感』は、毎日新聞で、私が最も好きなコラムである。
 1月21日の同コラムは出色の出来だった。
 以下は、同コラムを私なりにまとめたものである。
 4日の年頭記者会見で、岸田文雄首相は被災地の原子力発電所に関する質問にまともに答えず、記者の声を無視しで立ち去った。これで、震災の対応をしていればまだ許せるが、向かった先は、BSフジの生放送スタジオである。そこでは、自民党総裁選なども話題になっていたという。そんな場合じゃないだろうよ。
 5日には、経済団体、連合、時事通信社の新年会を「はしご」した。
 石川県の馳浩知事は、元旦に東京にいて、地震発生で首相官邸に駆け込み、自衛隊のヘリコプターに便乗し、石川県庁に入ったのは午後11時。馳による緊急事態宣言の発令は地震発生から5日たってのことである。
 また、岸田が現地入りしたのは地震発生から14日目、馳が被災地入りしたのも同日。
 この人たちは、それまでなにをしていたのか。
 また、岸田は、現地で救援活動をするわけでもないのに、防災作業服を着用におよび、年頭の挨拶のときには、なんと胸に赤い造花をつけていたという。
 前に、私は、その方を話題にしたものの、あまりにも品格に欠けるのでお名前を出さなかった方がいたが、あの方から「コスプレおじさん」と言われ、「品格に欠けます」と言われないのだろうか。
 再び松尾貴志さんの文章からになるが、岸田は4日の記者会見で、諸外国からの支援を「現時点で一律に受け入れていない」と言ったという。また、能登半島では、捜索や物資の輸送には使われているものの、それ以外のドローンは飛行禁止令が出されているという。
 これらについて、松尾さんは、「『内外に大ごとだと思われぬよう』という意図があったとしか、私には思えない」と言っている。
 私の頭に浮かんできた言葉は「棄民」である。
 冒頭で、松尾さんのコラムを「出色の出来」と申しあげたのは、能登地震に関して、国、県の対応をこれだけコンパクトにまとめたものは、別のところで目にしたことがなかったからである。
【追記】
 22日の毎日新聞朝刊に、馳浩石川県知事が、例の還流金を「清和政策研究会」(安倍派)から受け取っており、収支報告書に記載していなかったという記事が出た。元旦に東京にいたのは、この善後策のためだったのかね。そうなら、平仄は合う。
 上記のコラムで、松尾さんは、馳浩が「1月1日から24時間、知事室に滞在しております」と語ったのを、「そう語れるのはなかなかの神経だが」と「褒めて」いるが、「1月1日から24時間」はウソだね。少なくとも、厳密ではない。
 告白すると、新日プロ時代、私は馳浩のファンだった。青少年の夢を壊すようなことはしないでほしい。もっとも、私は、その段階では中年だったけど。

火曜日の朝0125

 火曜日は、我がシェアハウスのおばさんは麻雀の日であった。我が友・青ちゃん、イノウエさんの独居老人2名に対するウーバーイーツは「炊き込みご飯」「豚汁」である。これは、おばさんが制作した。ウーバーイーツの中身を、すべておばさんがつくることは、めったにない。今回私は、届けるだけである。
 麻雀は11時スタートで、雀荘までは40分近くかかる。よって、10時くらいまでには上記二品目をつくらねばならない。おばさんの作業開始時と、私の朝食時が重なってしまった。キッチンは大混乱である。
 とは言っても、この程度では、プロは混乱しない。私は、アルバイトではあったが、一応はプロの厨房に入ったことがある。おばさんは、たぶんない。
 ここでプロとアマの違いを言えば、その最大のものは、「プロは片付けながら仕事をする」ということである。たとえば、「ジャガイモをむいて鍋に入れる」ことで言えば、アマは鍋に入れればその工程はおしまい。ところがプロは、その後「まな板を洗い、包丁を洗う」ところまでが工程に入っている。
 作業時間的にはそれほどの違いはないかもしれないけれども、この工程の違いはどんどんと積み重なり、アマの厨房はだんだんと収拾がつかなくなっていく。
 一方、プロの厨房は、遅れは出ても混乱はない。
 ここまでは大差ではないが、この後で大差が出てくる。それは、段取りに関わる。
 料理に限らず、プロの世界ではよく「段取り八分仕事二分」などと言われる。つまり、どんな仕事でも、仕事に臨むときには頭のなかで、「あれをやればこれができるようになるから、それをやってからこっちをやって…」などと考える。これが段取りである。
 段取りが悪いと、同じ仕事をやるにも、倍くらい時間が違ってくる。
 わかりやすい例で言えば、「鍋に水を張り、刻んだニンジンを放り込む」ときに、「鍋にまず蛇口から水を注ぎ、その間にニンジンをやっつける」という手順と、その逆の手順では、鍋に水が溜まる時間をロスすることになる。
「片付け」まで工程に入っていれば、「段取る」際にも、工程数が少なく済むが、「片付け」が別工程になっていると、工程間の「段取り」数が膨大なものになり、段取りそのものが不能とまでは言わなくとも、困難なものになっていく。
 これを、数学的な領域では、「組み合わせ爆発」と呼ぶ。
 私はその日、昼近くにクリニックに行き、その帰りにダイソー(100均)によった。コピー機を使うためである。コピー機には誰もおらす、「シメシメ」と思ったが、クリニックの支払いで小銭を全部使ってしまっていた。仕方ないので、単三電池を買い、小銭をつくり、コピー機のところへ行ったら、どこかのおばさんがコピーするページを探しながらコピーをしていた。このおばさんも段取りが悪い。こういう人は、20分やそこら、平気でコピー機を占有する。私は、その日、コピーをあきらめた。
「段取り八分仕事二分」などと偉そうに言ったが、私は、言った先から段取りを間違えたわけであった。

【Live】収束したものが習慣0126

 久しぶりのシェアハウスネタである。
 夕食時に我がシェアハウスの住民は、3人全員揃うのが普通である。 
 昨日、夕食時に、こういう形態はいつから始まったのだろうと、ふと考えた。そういえば、朝、昼はめいめいで適当に食べるが、夕飯は最初から揃って食べてたなと思い出したわけである。我がシェアハウスでは、夕食が唯一のセレモニーだ。
 6年ほど前に私らはこういう生活に入ったわけであるが、当初、夕食はそれぞれだった。時間こそ同じだったが、それぞれが用意したものを、それぞれが食べていたわけである。
 現在ではおばさんが指揮をとり、私が下働きをやり、おじさんは基本なにもやらない。いつの間にか、こういうスタイルになった。この分担に、私はまったく不満がない。おばさんも、この件について特に話したことはないのだが、同様だと思う。
 いつからこうなったのかを、私はおぼえていない。
 まあ、つらつら考えるに、誰かがなにかの貰いものでもして、たとえばそれが「すき焼きセット」とかで、自分ひとりで食べるわけにもいかず、3人で食べ、そういったことが徐々に定例化していったということだったのではないか。
 もうひとつ考えられることがある。
 当初から、分担金として10万/月を徴収していた。このうち、約半分が家賃であり、残りが食費等である。初めのうちは、カーテン代とか、冷蔵庫等の共用設備、また、各自の個室のエアコン等々で手一杯だったのが、数か月で余るようになってきた。
 そして、そのころには、安くて質のよい魚を売る店その他の見当もつくようになり、またそういうところで大量に仕入れるようになり、ついでに近所のスーパーでもまとめ買いをするようになった。この大量仕入れが、おんなじものを食べるきっかけになっている。
 メニューはおばさんが考えるが、そのおかげで食い物が偏らず、健康にもいいようだ。
 だから、誰かがなにかを提起して、それをきっかけに議論して…ということではなく、自然とこういう形になった、いつの間にかこういう形に収束したというイメージである。
 当『シェアハウス・ロック』の初めのころは、ほとんどシェアハウスネタであり、また、シェアハウスの勧めだったが、そのなかで、「決めごとは最小にしたほうがいい」と申しあげた記憶がある。
 つまり、当番制にでもしたら、絶対に不満がでる。「おれはこれだけやっているのに、あいつはなんだ」ということになるはずである。
 ところが、ボランティアでやっているんだったら、なにもやらないおじさんにも文句の出ようはずがない。当番制だったら、メニューに文句は言わないまでも、なんかしら不満は出るはずである。
 いい大人が集まってシェアハウスをやるには、「なるようになる」「自然とそうなった」というスタイルがたぶん一番よく、あまり頭で考えずに、自然の成り行きにまかせたほうがいいようだ。

セックス・酒・ギャンブル0127

 突然あらぬ表題だが、この表題に、「裏社会と巨大産業」というのが続く。なにかと言えば、アメリカのドキュメンタリー番組のタイトルである。これが面白い。いま、アマゾンプライムで見られる。全3回。
 どう面白いかと言えば、私たちは、たとえばギャング映画などで禁酒法時代を知っている。ところが、なんであんなに守れそうもない法律をつくったのかについては、ほとんど知らないと言っていい。
 ギャンブルに関しても、ギャング映画をいくつか見ればナンバーズという非合法賭博があることはわかるものの、それがどういった形で始まったものかは知らない。
 あるいは、キリスト教原理主義みたいなのがあって、それが社会全体にどう影響を及ぼしてきたかも知っているようで知らない。実は、禁酒法に至るには、この「みたいなもの」が大きく関与しているのである。
 そういったことがこのドキュメンタリー映画で、かなり有機的にわかるようになる。私は、知っているようで知らないことがいっぱいあることがわかった。別の言い方をすれば、アメリカ映画等々で、「島」のようなものはわかっていたが、「島」の下の海の地形がわかったというか、知ってるつもりだったことの「隙間」みたいなものが埋まったというか、そんな感じのドキュメンタリー映画だった。
 上述のナンバーズに関しては、ステファニー・セントクレアという黒人女性が、ハーレムで大掛かりに胴元をやっており、「クイーン」とまで呼ばれていた。ここまでは知っていた。ところが、彼女が白人マフィアと剣呑な関係になったとき、白人の店(多くは、白人マフィアのナンバーズを扱っていた)のボイコットを呼びかけ、これが黒人運動にまで発展し、公民権運動とも呼応したなどということは、この映画で初めて知ったことである。
 ラスベガスのなりたちも、この映画で初めて知った。ギャンブル好きな男が、「胴元が一番儲かる」と気づいたのが始まりである。
 話は変わるが、ヤーサマの飲み屋(競馬等のね)の取り分は10%である。ところが、公営競馬等の還元率は75%。還元率だけを見るとJRA等のほうが悪どい。さらに悪どいのは宝くじである。あれは、還元率が50%を切る。
 ヤーサマは、支払いが溜まったりしたら、それを苦に警察にタレ込まれたりしたらまずいので、支払いを猶予してくれたり、棒引きしてくれることすらあるようだ。ある意味良心的である。それに比べJRAは25%も「ショバ代」を取りながら大手を振って世渡りをしているし、宝くじの胴元・みずほ銀行などは、ぶいぶい言わせて世渡りをしている。ここだけ見ると、カタギのほうが悪どい。
 もっと悪どいのは、ちょっと前に俎上に乗せた連中だけどね。
 話を戻して、巨大産業は、ジャックダニエルズ、バドワイザー、マルボロ、フィリップ・モリスなどのことである。
 
 
飲み会/偲ぶ会0128

 昨日は飲み会であった。飲み会とはいえ、正式には偲ぶ会である。
 我がシェアハウスのおばさんの友だちの妹さんの旦那さんが(ややこしいでしょ)つい最近亡くなり、その追悼がテーマだ。場所は、妹さんの家である。
 この旦那さんは変わった趣味をお持ちで、テレビ、時代劇専門チャンネル等々で映画をひたすら録画しまくる。ここまでなら結構そういう人はいる。ただ、この人は徹底していて、一度録ったものでも二度、三度と録る。当然家のなかはDVDだらけになって、居住空間を完全に侵食しつくしている。録画することそのものが、目的意識化しているのである。
 ただ、おばさんと私がこの人に頭があがらないのは、この人から借りたDVDで、相当数の映画を見たからである。1,000タイトルやそこらは見たんじゃないか。持つべきものは友だちの妹の旦那さんである。
 おばさんは図々しいので、借りてきたもののうち「どうせわかるまい」ということで、返さなかったものが相当数ある。事実、わからなかったようだ。もっとも、奥さんのほうがさも憎々しげに、「持ってっちゃって! 持ってっちゃって! どうせ見やしないんだから!」とおばさんをそそのかしたせいもある。
 そのおかげで、たとえば、市川雷蔵の映画などは全出演作のうち二、三本を除いて我がシェアハウスにストックされている。三國連太郎も同様。
 前に、俳句を分かち書きみたいにして掲載し、「俳句はそうは書かないぞ」と我が畏友その1に注意された話をしたが、コイツも偶然同じ町内である。コイツは、その旦那さんとは面識はないが、その奥さんとは、おばさん、上記その友だち、その友だちのもう一人の妹さん(つまり、三姉妹になる)、私の6名でよく飲んだので顔見知りである。畏友その1も、当然偲ぶ会に参加した。6名と簡単に言うが、年齢を合計するとほぼ500歳になる。半世紀である。こんな足し算になにか意味があるかはわからないけど、たぶんないだろうな。
 私は前日、自家製の生海苔の佃煮をつくり、持参した。
 ところで先の木曜の夜、リビングでアマゾンプライムを見ている最中に、私の妹が亡くなったという知らせが、妹の長女からあった。私の兄弟は妹一人である。
 私は、だいぶ前に、たとえ亡くなったのが誰であってももう葬式には出ないと決めていた。出ないと決めたのは、まさか妹が先に死ぬとは思わなかったこともある。だから、告別式には出ないが、火葬場には行こうと思う。
 なんだか本日の話はなんとなく大団円みたいだな。小説には大団円があって、推理小説ならそこで謎解きがあり、それで終わりだが、人生のほうはそれでも続いていく。
 我が畏友その1は、実は韓国に語学留学をしていたことがあり、私はその期間に訪ねて行ったこともある。次回はその話をして、続けて韓国関連の話をしようと思う。
 最後に、妹の死を淡々と書いているが、これは見栄を張っているからで、けっこうこたえている。妹の話も追悼の意味で、そのうち書こうと思う。
 読んでくれている人には時系列がわかりにくいだろうが、本日は妹が住んでいた新潟に行く日である。

初韓国でブテ鍋0129

 何回かお話ししたが、私は母親の家で在宅介護を足かけ3年やり、その前に準介護を数年やった。
 1996年の年末に私は大腸がんの手術を受け、当時住んでいた藤沢市から新宿にあった仕事場に通うのがしんどくなり、母親の家から通うことにした。前者は通勤時間が2時間では足らず、後者であれば1時間でオツリが来る。この差に、ちょっと耐えられなくなったのである。準看護期間はここから始まる。
 この準介護期間に、我が畏友その1からメールが届いた。畏友その1は語学留学で韓国に行っており、「3月いっぱいで韓国を引き上げるので、遊びに来るならいまのうちだぞ。来たら案内をする」という内容だった。
 当時仲のよかったオガワというヤツと、二泊三日の旅程で行った。オガワは霊感がある人で「自分のおばあさんは、仁川の女郎さんだった」(その霊感による)と常々言っていたので、誘ったのである。
 着いたその日に、学生が多いという街にある韓式の食堂に連れて行ってもらい、そこでブテ鍋というものを食べた。ブテとは部隊であり、おそらく第二次大戦後に米軍の食い残しをなんでもかんでもブチ込み、食ったものと思われる。先週号の『週刊新潮』のコラム「パンダレイ パングロス」で福岡伸一さんも、ブテ鍋のことを書いていた。日本でも、戦後すぐは米軍の残飯をもらい受け、それを煮て、闇市で売っていた。こちらは、「残飯スープ」と呼ばれていたようだ。身も蓋もないね。
 もちろん、福岡さんが食べたのも、私らが食べたのも、さすがに残飯が原料ではない。私らが食べたのは、魚肉ソーセージ、キャベツ、ニンジンその他が入っており、〆はうどんではなく、即席ラーメンだった。
 私は、ブテ=部隊というのに興味を持った。というのは、仁川空港のバッゲージクレインのところでお嬢さんが、「トチャク◎×△□」と電話しているのを聞いたからである。
 ブテ鍋をつつきながら、私は畏友その1に、
「なあ、トチャクってのは『到着』かい?」
と聞いたのである。果たしてそのとおりであった。
 実は、この前に、私は、韓国語で電話をかけたことがあった。とは言っても、会話本の丸暗記である。
 私が仕事をしていた出版社に韓国の出版社から、私らの出した本を翻訳して出したいというオファーが来た。ありがたい話なのだが、彼らが提示した想定価格、想定部数に納得がいかなかった。
 そこで、日本でたいしたお世話をしたわけでもないのにことあるごとに連絡をしてくれていたキム・ビュンフンさんに電話をしたのである。キムさんは日本語がペラペラで、当時、その語学力を活かし、日本のバイク(自転車)の本の翻訳などをしており、韓国の出版事情にも明るいのではないかと思ったのだ。
 もらっていた電話番号に(カタカナで書くしかないのが残念!)、
「ヨボセヨ(もしもし)。キム・ビュンフンシイムルカ(金ビュンフンさんいますか)」
出てきたお母さんらしき人が、「◎×△□★↓▽◆」(まったくわからない)と答えた。そこで私は、
「イルボントッキョエ(日本、東京の)、セントイッスミヌダ(千都です)」
 これで、本人がいれば電話には出るはずだ。本人がいなかったらしく、先方は、
「◆◎□×△★↓▽□★↓」(これも、まったくわからない)
と答えた。これはいくら聞いてもわからないから、
「アンニョンヒケセヨ(さようなら)」
と言って電話を切った。
 これを、一日に三回繰り返したら、翌朝一番に「どうしました?」とご本人から電話がかかってきた。「通じたんだ!」

翌日の、小さいけれども大事故0130

 翌日は、盛だくさんだった。
 と言っても、その前日も実は盛りだくさんで、東京芸大に相当する大学で、韓国の伝統音楽の演奏会(大学院生が演奏する)に行き、仁川に行き(「霊感」は「来なかった」そうだ)、そしてブテ鍋である。演奏会は、私が音楽に興味があるのを知っている畏友その1がブッキングしてくれたのである。
 翌日の朝は、韓式の食堂で朝食、昼食は参鶏湯を食いに行く予定だった。
 どこやらに向かっているときに、骨董の店を発見。入ろうとしたが、ここで事故が起こった。けっこうぶ厚いプラスティックドアが急に閉まり(突風でも吹いたのだろうか)、私の右手が逃げ遅れ、人差し指が挟まれてしまったのだ。ドアと枠が、ちょうどカッターの台と刃のような具合になってしまい、私の人差し指を挟んだわけだ。
 まず、畏友その1に病院を探してもらい、参鶏湯に参加するキム・ビュンフンさんに事情を話し、参鶏湯は中止の旨を伝えた。
 病院で順番を待っているときにキム・ビュンフンさんが駆けつけてくれ、外科医と私の通訳をしてくれた。
 嫌だったのが、手術医とインターンみたいなヤツとの会話だった。なんだか笑いながらなにやら話しているが、ひと言もわからない。
 目の前で笑いながら話され、それがひと言もわからないと、ついついあらぬことを想像してしまう。
「先生、麻酔はどうしますか?(笑い)」
「なーに、こいつら日本人はさんざんひでーことをやりやがったんだから、麻酔なんかいらないよ。そのままやっちまえ(笑い)」
「いいんですか。この野郎、痛がりますよ(笑い)」
「かまうもんか(笑い)」
 そんな会話をしてるんじゃないかと、妄想したわけである。被害妄想というか、加害妄想(そんな言葉、あるのか?)というか、いずれ妄想である。
 麻酔はしてくれた。
 キム・ビュンフンさんによると、「(傷は)骨の皮まで達していた」と医者が言っていたそうだ。「骨の皮」は骨膜のことだろう。本当に韓国では「骨の皮」と言うのか、あるいは単にキムさんが「骨膜」という日本語を知らなかったのか、いまだにわからない。
 第一関節のちょっと上を環状に切ってしまっていたので、結局10針くらい縫った。いまでも傷あとがある。
 この事故でちょっと昼食には遅れたが、参鶏湯は敢行。なんだか浅草と南千住との間にあるようなゴチャゴチャしたところだった。もう、雰囲気だけでもうまそうで、事実うまかった。
 畏友その1は、けっこう食通で、うまいものを探し当てる能力があるのである。

三日目はちょっと不確か0131

 もしかしたら、仁川に行ったのは三日目だったのかもしれない。というのは、飛行機に乗るのが仁川空港なので、この日に行ったと考える方が妥当であるからだ。
 あと、韓式食堂には、朝食で行ったので二回のはずなのだが、三回連れて行ったもらった気がする。どこもサービスでキムチを数種類出してくれ、そのキムチがそれぞれ味が違い、それぞれがうまい。これには感激した。
 食事でもうひとつおぼえているのは、坂の多い街で、屋台に毛の生えたような店に連れてってもらい、タコの活け造りを食べたことである。口に入れる段階では、まだ組織は生きているらしく、口の中で吸盤が活躍する。ヘンな感じなので「ワハハ」と大笑いしたら、畏友その1が、「吸いついてくるだろう」と言って、やはり大笑いをした。これを体験させたかったようだな。
 ああ、そうそう。ヘンなことを思い出した。
 二泊三日の一日目は土曜日で、実は準看護の母親を医者に連れて行く日だったのである。母を見てもらっているそばに私もいて、「あれっ、なんだか唇が痒いぞ」と思い、ポリポリ搔いたら、そこからみるみる唇とその周辺が腫れてきて、母が私の顔を見て大笑いしたのである。たしかに、カエルの顔みたいになったから、そりゃあおかしいだろうさ。でもねえ、自分の息子が変なことになってるんだよ。
 その医者は名医で、「ああ、それは三時間くらいで治りますよ」と言って、一本注射を打ってくれたのである。それを信じて、私は出発した。だから、羽田空港でオガワと会ったときも、仁川空港で畏友その1と会ったときも、私はマスクをしていた。
 さすが名医で、ブテ鍋を食べるころには、腫れは完全にひいていた。
「ブテ」と「トチャク」で韓国語に興味が出て、まだ母の準看護期間で多少余裕があったので、その4月からNHK教育テレビの韓国語講座を始めた。これは6か月で終わるが、その次のシリーズも途中までは見た。
 けっこうまじめに勉強をして、「ひでぇーカタコトだね」くらいには話せるようになったと思う。料理の注文くらいなら、たぶん、いまでも韓国語でいける。ハングルは、実はアルファベットのようなもので、読むだけなら割合すぐに読めるようになるのである。ああ、読むと言っても、発音するだけね。意味まではわからない。
 韓国語の攻略ノウハウでもうひとつある。
 日本では、漢字の読み方は普通3種類ある。音読み、訓読みの2種類がまずあり、音読みには漢音、呉音がある。ところが韓国語では1種類しかない。この1種類の読み方をまずおぼえ、それに「ハダ」をつけると、日本語だとサ変動詞に相当するものになる。一昨日の「到着」にハダをつけるわけである。まだ試したことはないが、これで通じるはずだ。
 韓国語の勉強をやめたのは、母の介護が徐々に厳しくなってきたので、語学講座を見る精神的な余裕がなくなったからである。
 我が畏友その1は、この語学留学が功を奏したのか韓国演劇に関する大著を翻訳、上梓していて、なんだか専門家のようになっている。前にお話しした偲ぶ会の日も、解散後、韓国からのお客さんと会うと言って、池袋のホテルに向かった。
 百鬼夜行、人面獣心、人畜無害という我が友だち連中にも、こういうまともなヤツがたまにはいるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?